二〇一六年十月二十三日 2016/10/23(日)夕方

 ポプラの葉が西日の中で輝いている。日を追うごとにつれて、風が冷たく感じるようになった。どこかから、金木犀も香ってくる。


 ベンチに座る澄子の左隣では、いつものように柿坂が二胡を弾いていた。弓がぶつかってしまうため、自然と距離が出来ている。


 今までなら、当たり前だったその距離にも、澄子は気を取られるようになった。もうこれ以上近づくことが許されなくなるという不安が、あの花火の日からどうしても消えない。


 ――せっかく並んで歩けるようになったのに、また少し離れるようになったな。


 それは、どちらからの意思表示なのかハッキリしない。気を遣っているだけだと、言い聞かせてごまかしてきた。


 少なくとも、柿坂から近づいてくることはない。それは、前から同じだけれど。


「さて……そろそろ時間でしょうか」


 低く、緩やかな音色を鳴らしていた右手が止まる。柿坂が弓を二胡の糸巻に引っ掛けた。


 今日は、来週に控えたハロウィン・コンサートのために、バンドのリハーサルがあると聞いていた。いつもなら、このまま夕食に行くのだが、仕方がない。


「が……頑張ってくださいね」


 澄子は努めて笑顔を向けた。それに対して、柿坂も口元に小さく笑みを浮かべる。


「来週は……見に来れそうですか」


「はい。見に行きます」


 夕陽に照らされた二人の影が長く伸び、石畳の上で重なりそうになる。


 柿坂が二胡のケースを背負って先を歩くと、そこには澄子の影だけが残された。


 それを見て、ふいに涙が落ちそうになる。


 ――やばい、やばい。


 何も、終わろうとしているわけではない。


 ――考え過ぎよ。


 実際に、来週のコンサートも、柿坂が誘ってくれたのだから。


 ――楽しいこと、考えなきゃ。


「あ、あの」


「今日はすみません」


 ほぼ同時に、二人の声が重なった。急に気恥ずかしくなる。


 柿坂が、首をかしげた。


「どうかしましたか?」


「あ、いえ。柿坂さんからどうぞ……」


 すると、鋭い目がわずかに伏せられた。


「……今日は、時間が取れずに申し訳ないと思っています。今度は、もっとゆっくり会いましょう」


「……」


 その言葉で、どれだけ救われて、どれだけ幸せが感じられることか。


 澄子の目に溢れるものがあった。慌ててこらえながら、笑みを作る。


「さ、最初の頃に一カ月も会えなかった時と比べたら、たいしたことないです!わたし、本当に柿坂さんと会えるだけでも嬉しいですから……」


 愛しい人は、少しだけ片方の眉を持ち上げた。


「そう言ってもらえて、安心しました」


「あの、来週のコンサートの後も、時間ありますか」


 そこまで言って、澄子は、思わず口を押さえた。


「すみません……コボックの皆さんと、打ち上げがありますよね。反省会とか……」


「昼間のコンサートですから、飲み会にはならないはずです。一時間くらい待っていてもらえれば、アンタに会いに行きますよ」


 その優しい笑みに、澄子は顔を熱くさせてうつむいた。


 柿坂は、何が何でも澄子を優先させることはない。そうかといって、ないがしろにするわけでもなく、きちんと考えてくれる。おかげで、澄子は下手に嫉妬したり、罪悪感にかられたりすることがない。


 ――きっと、こういうところも、惹かれる理由なんだろうな。


 柿坂が何かを思い出したように、口を開いた。


「それで、さっきアンタは……何を言いかけたんですか」


 ――楽しいこと。一緒にいて、楽しいこと。


 澄子は意を決して、柿坂を見つめ返した。


「えっと、柿坂さんは……」


「はい」


「わたしに……何かして欲しいことは、ありますか?それか、一緒にしてみたいこととか」


「え?」


 そこで聞き返されるとは思わなかった澄子は、妙に慌てた。


「な、何でも良いんです。あの、お弁当を作って欲しいとか、一緒にライブに行きたいとか、そういう……」


「笑っていて欲しいです」


 柿坂が、少し悲しげな目をした。


 ――。


 花火の夜が思い出される。

 あの日と、同じ言葉。

 澄子は、胸が少し痛くなった。


 ――気持ち、気持ち。


「わ、わたしが笑う時は、柿坂さんも嬉しい時です!だから、その……わたしと一緒にしてみたいことを」


 その自らの言い回しに、澄子は顔を赤らめた。


 ――もしも、わたしの身体を――。


 柿坂が眉をしかめた。


「……今すぐは難しいと思いますけどね」


 予想通りの言葉に、澄子は覚悟した。


「わかっています。でも、いつかは、ひ、必要だと思いますから」


 柿坂は、目をしばたかせながら首をかしげた。


「散歩と昼寝です」


「へ?」


「……それが叶うなら、あとは何もいりません」


 柿坂が小さく笑う。対して澄子は戸惑いを露わにした。


「本当に……そ、それだけなんですか」


「それだけです。まあ、こうして公園を散歩するだけでも充分なんですけど、色々と出かけるのは良いですよね。そろそろ紅葉も見頃でしょう。アンタが助手席の距離でも平気なら、車を出しますよ」


「……」


「あと、前にアンタが『流波曲』を聴きながら昼寝をすると聞いて、ちょっと羨ましくなりました。私が二胡を弾いて、アンタが聴きながら眠っちまうのも……それはそれで良いかもしれないですね」


 愛しい人の提案に、澄子は溢れる幸せを感じた。


 しかし――。


「あの……」


 澄子は柿坂の左手を見つめた。


「わたしと……その、えっと……ふ、触れ合うというか」


「ないですよ」


 あっさりとした言い方に、澄子は思わず聞き返した。


「ない、というのは」


「アンタが怖がることを、するつもりは一切ないです」


 ――。


 安心すべきところなのに、澄子の胸に、ほんの少しの寂しさが湧いた。


 ――わたし、やっぱり……。


 愛しい人の、温もりを、求め始めている。


 澄子は、ようやくそれを認めた。


 伝えるべきか迷っていると、柿坂が咳払いをした。


「アンタはどうなんです。何か、私としてみたいことがあるなら、教えてください」


「えっ!」


 思わず声を張り上げると、柿坂が驚いた表情を見せた。澄子は、慌てて取り繕うように言葉を紡いだ。


「あ、あの。あ、そうだ。えっと、き、き……記念日とかについて、どうお考えですか」


 声を裏返しながら澄子は質問をした。しかし、これはこれで知りたかったことには間違いない。


 返ってくる答えが大方予想できているにしても、妙な緊張があった。


 ゆっくりと歩き出した柿坂は、前を向いたまま口を開いた。


「それは、祝日とかじゃないですよね。誕生日だのクリスマスだの、そういった話ですかね」


「そ、そうです」


「さして興味はありませんけど」


 わかってはいても、やはり澄子は落ち込んだ。


 その時、


「心配しなくても、アンタの誕生日は、別ですよ」


 その、眠ったキツネのような優しげな笑みに、澄子は再び焦り出した。


「わ、わたし、別におねだりしたいとか、そういうつもりで質問をしたんじゃないんですよ」


「なるほど。それじゃあ、どういうつもりなんでしょう」


「え、えっと……その」


 柿坂の顔は、どこか楽しむように見えた。こちらの胸の内などとっくにお見通しなのだ。


 澄子はうつむいたまま、両手を固く組むと、声を上げた。


「そうやって、い、意地悪な柿坂さんと、その日は、一緒に……ずっと一緒に過ごしたいだけです!」


「……は」


 柿坂の片方の眉が勢いよく持ち上がった。

 澄子も自分の発した言葉に、顔が猛烈に熱くなる。


 犬の散歩をしていた老人が、すれ違いざまに二人を見つめてきた。

 

 遠くから聞こえる子どもたちの歓声に、澄子は笑われたと錯覚した。


 言いようのない気まずさが満ちる。


「……どうしたんですか、アンタ……今日はやけに……」


「え?」


「何でもありませんよ」


 柿坂は、口をひん曲げた。


「それで、いつなんですか。アンタの誕生日は」


「じ、十二月の三日です!土曜日です」


 そこで、柿坂の目がわずかに見開かれた。


「十二月三日、ですか」


「はい、ワンツースリーの日なんです。あの、土曜日ですし、柿坂さんもお休みかと思うんですけど……」


 澄子がそっと手帳を見せようとすると、柿坂は、何かを思い出すような眼差しで宙を見つめた。


 その顔が、徐々に苦しげに変わる。


 ――。


 あの、花火の夜に見た時の、怒りとも悲しみともとれる苦しげな表情だった。


「柿坂さん……?」


「すみません」


 気を取り直したように、柿坂はゆっくりと首を振ると、澄子を見つめた。


「その日は、夜……早くて夕方からでは……いけませんか」


「……え?」


「本当に、申し訳ないのですが、その日だけは」


 胸の奥で、冷たい風が吹く。


「何か……他に用事があるんですよね?」


 険のある自分の声に、澄子自身も驚いた。


 柿坂も動揺したような目の色を見せる。


 ――わたし、何を言ってるのよ。


 澄子は慌てて謝った。


「ご、ごめんなさい。わたし、ワガママですよね。さっき『会えるだけで嬉しい』なんて言っておいて……」


「……いいえ、すみません」


 そのまま、柿坂は目を伏せた。


 会えない理由を聞いて良いのかどうか、澄子は迷った。

 今まで、気になることは何でも聞いて、自分の気持ちを伝えてきたけれど――。


 ――あんなに、苦しげで険しい顔、見たことない。


 すると、まるで察したように柿坂が大きく息を吐いた。


「その日は……毎年、故郷に帰る日なんです」


「え?」


 そこで、柿坂の目がわずかに揺れた。


「アンタに言うべきか……正直迷いましたけど、十二月三日は、私の両親の命日なんです」


「……」


「偶然とはいえ、イヤな思いをさせたくないと思ったんですけどね」


 愛しい人は弱々しい笑みを浮かべた。


 澄子は、押し黙ったまま下を向くと、次に伝えるべき言葉を必死に考えた。


「あ、あの……すみません、わたし」


 取り繕うようなことしか言えない自分に、情けなくなる。


「アンタが謝るとこじゃねえですよ。こっちの都合ですから」


 柿坂がいつもの口調に戻ったことに、澄子は安堵した。


 その時、ふと気づいたことが、そのまま口を滑った。


「じゃあ、その日は……お墓参りに帰られるってことですよね」


「……まあ、そんなところです。仕事であれば前後の休日に帰っているんですけど、今年はちょうど休みでしたから」


 愛しい人は、いつもよりためらいがちな笑みを浮かべた。



 それが、なぜか澄子の心に引っかかった。



「花火の日に、いつか故郷に来てほしいって……柿坂さんが言ってくれましたけど」


「……」


「それって、何のために……ですか」


 友人の紗枝は、男性が故郷に連れて行くのは大いなる決断だと言っていた。


 しかし、すでに、柿坂の両親が他界しているのであれば、これは、いわゆる『挨拶』ではないはずだ。


 柿坂は少しの間、何か考え込むようにうなだれていたが、ゆっくりと鋭い眼差しを澄子に向けた。口元には、小さな笑みがあるままだ。


「野山で遊ぶのが好きだったアンタに、見せたくなるような田舎なんですよ」


「……」


「アンタが住んでいた鈴峰町と似ているんです。こっちの方が山が深くて、温泉も湧いて、もう観光地みたいになっていますけど」


「それなら、わたしも一緒に行きたいです」


 澄子はゆっくりと柿坂に歩み寄った。


「わたし、その日だけはずっと一緒にいたいんです……!」


 どうしてだろう。


 すでに、声が震えている。


「すみません、今回だけは……」


 柿坂が、苦しげに目を細めて澄子を見つめた。


「命日に里帰りするのも、今年で最後にするつもりです。近いうちに、アンタも必ず連れて行きますから……今回は……勘弁してください」


「どうしてですか……野山の風景を見るだけなのに……」


 愛しい人を困らせているのはわかっていた。


 それでも、澄子は、この子どもじみた感情を抑えることができなかった。


「……誰かと……会うんですか?」


「……まあ、その予定です」


 澄子の頭に、親友の言葉がよぎった。



 『よそ見されないように、気を付けなさいよ』


 秋風が澄子の前髪を揺らす。


「昔の……恋人、ですか」


 そこで初めて、柿坂が弾かれたように澄子に向き直った。そして、ゆっくりと目を伏せた。


「……違いますよ」


「じゃあ、誰ですか」


「誰とは……説明するには、なかなか難しいですが……」


 その反応に、澄子はジャケットの襟口をギュッと掴んだ。


「柿坂さんは、ズルいです!」


 目元も喉も、焼けたように熱くなる。  


「わたしたちは、何でも言い合える関係を目指さなきゃいけないんですよね?わたしは、あなたに洗いざらいの気持ちを……伝えてきたのに……!」


 冷たい風が足元を通り抜けた。


「……わかりました」


 柿坂がため息を吐いたその時――空気が凍りついた。


 狼のような、鋭い目。


 初めて出会った時と同じ、人を寄せ付けない冷え切った眼差し。


「立ち入り過ぎです」


「……」


「今まで周りから同じことをされて、苦しんできた人間とは思えません」



 ――。



 身体中が縫いとめられたように、澄子は固まった。


 この片腕の距離。


 懸念していた小さな亀裂が、底なしの深い溝となった。


 ほんの数分前の楽しく幸せな声が、耳の奥で乱雑に鳴り出した。



 愛しい人が、この溝を埋めるような何かを、言ってくれると思っていたのに――。




 落ちかけた夕陽の下、残された澄子の影だけが、並木道にダラダラと長く伸びていた。


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