高塚クミは廊下を走っていた。

 運動は苦手なので不恰好な走り方で、呼吸はすぐに荒々しくなった。

 呼吸の音、心臓の鼓動、廊下に反響する足音。


 富田アツシのお別れ会でタイチが総持に連れ出された後、クミの側に安井が近寄ってきた。

 数えるほどしか話したことの無い相手が密接するほどの距離で近づいてきたので、クミはたじろいだが安井はお構いなしに耳打ちしてきた。

 今日の夕方五時に学校の四階西階段に来てほしい、射場のことで見せたいものがある。

 そう耳打ちされて、しかしクミは素直に頷くことはしなかった。

 先程揉めたばかりの相手のことを話すのに何故休校中の学校に呼び出す必要があるのか?

 承諾しないクミに、安井は言葉を続けた。

 アイツの為なんだ。


 夕方四時を回って、クミは学校へ行くことにした。

 お別れ会から帰宅後、家の用事を早々に済ませて母親から何も言われないように準備を整えた。

 父親を亡くしてからの母親は、私もクミもしっかりしなきゃいけない、というのが口癖になり、決めた分担が疎かになると必ずそう言って注意してくるようになった。

 ほんの少しの油断にも必ずそう注意され、クミは辟易していたが、仕方ないのだと思うことにしていた。

 家の用事を優先するあまり、家を出る際に制服から着替えてなかったことに気がついた。


 安井が指定した時間より早く学校に着いた。

 タイチと安井が揉めているのを見てから、不安で胸が締め付けられて怖さすらあった。

 何からくる不安と怖さなのか、それがわかるならとクミは答えを求め急いだ。


 後門には取材陣が殺到していて、門の前で総持がそれに対応していた。

 しまった、とクミは思ったが校門以外の別の入り方など知らないので取材陣をどうにかかき分けて門の前に辿り着いた。

 四方から向けられる質問とボイスレコーダー。

 クミはそれらを無視して、クミが現れたことに驚く総持に、忘れ物を取りに来た、と告げた。

 総持は、今日じゃなくてもいいだろう、と一言追い返そうとしたがクミの背後にはスクープへと群がる記者たちが迫っていて、匿うために渋々門の中へと入れることにした。

 そうしてクミは校内に入り、四階へと辿り着いた。


 逸る気持ちとは裏腹に窓から差す夕陽がゆっくりと流れていくように見えた。

 タイチが誰かを掴んでいた。

 安井が見せたいものとは、タイチが誰かを──安井を、掴んでどうにかするところだろうか。

 どうにか、なんてあやふやなものじゃない、きっと見せたいのは──。

 必死に足を動かしてるはずなのに、廊下に反響する音はゆっくりクミの耳に聴こえてくる。

 それはあの日、あの夏の日の父親の足音と重なって。


 あの夏の日、父親は酷く泥酔していていつものように母親に暴力を振るっていた。

 母親は止めてと必死に懇願していたが、しかし父親には依存のような執着を抱いていたので暴力を受け入れてるようにも見えた。

 クミはそれまでに何度と父親に暴力を振るうのを止めて欲しいと願ったが、酒を飲んだ父親は聞き入れることはなくクミの頬を叩き黙らせた。

 だからあの日、クミは母親が殴られているのを黙って見ているしか出来なかった。

 何度と泣きそうになったが、泣けばそれを理由に父親にぶたれてしまう。

 ひとしきり母親を殴った後、父親が抱いた苛立ちは解消されないまま、父親は無くなった酒を買い足しにと家を出ていった。

 そして、数歩と進んだ末。


 父親の最期の背中がフラッシュバックして、クミはハッと気を取り戻した。

 必死に走ってきた廊下の先、階段のふちでタイチと安井が互いを掴みあっていた。

 タイチは安井の腕を、安井はタイチの首を掴んで絞めていた。


「射場君っ!」


 荒れる呼吸を整える間もなくクミは二人に駆け寄る。


「た、か、つ、か・・・・・・」


 首を絞められたタイチが僅かに漏れた呼吸に言葉を乗せる。

 クミはそれを聞いて、タイチの首を絞める安井の腕を掴んだ。


「安井君、やめて、離してっ!」

「射場っ!!」


 クミの制止を無視するように、安井はタイチの名前を呼んだ。

 それは殺せという合図であり、覚悟を決めろという声だった。

 僅かに安井の手の力が緩み、さぁ、とタイチが押してくるのを受け入れるように首から手を離した。


 タイチは、まだ決心が出来ていなかった。

 殺すも殺さないも、選ぶべき選択肢が何かわからなかった。

 クミがこの場に来たのなら、何もかも全て打ち明けて安井と共に警察に捕まるべきだとも思った。

 安井の腕を掴むタイチの手が躊躇いのままに離れていく。


 懇願が無視された。

 クミに取ってそれは、心を傷つける悲しみであり、拒絶するほどの怒りであった。


「え?」


 自分の腕からタイチの手が離れていくことに安井は苛立っていたが、安井の身体は強く押されて、妙な浮遊を感じていた。

 タイチの顔を見るも、タイチも驚いた顔をしていて、安井はゆっくりと視線をクミへと向けた。

 だんだんと離れていく距離、埋められない距離を感じながらクミの瞳と目があった。


 安井の身体は階段を落下していく。

 それを見つめるクミの表情はあの夏の日に見たものと同じだった。


 ただ、茫然と。

 けれど、冷淡に。


 ああ、そんな目で俺を見ないでくれ。

 俺は君のことが好きで護りたかっただけなのに。

 アイツのように横に立てるように護りたかっただけなのに。

 切り捨てるような目で見ないでくれ。


 安井が階段を落下していく。

 タイチはそれを止めようと手を伸ばしていた。

 しかし、安井はそれに気を向けることもせず、ただじっとクミを見つめ落下していく。


 安井はクミの表情を見つめて、目を離すことなく死のうと思った。

 運良く生き残ることも、運悪く生き残ることも望まない。

 このまま死ねたなら、安井の考えた通りにタイチがクミの側に立つことになるだろう。

 それでいい。

 そう任せたのだ。


「安井っ!!」


 名前を呼ばれ、安井が抱いたのは絶望だった。

 階段の踊り場、気づけば落下した安井の身体は、下から駆けつけた総持に受け止められていた。


「お前たち、ここで何してるんだっ!?」


 怒鳴りつけるような総持の問いに、答えたのはクミだった。


「安井君が私を殺そうとしてきて、射場君が私を助けようとしてくれたんです」


 そう答えるクミの表情は泣き願うようであり、タイチも安井も見たことの無い表情だった。

 それはタイチにも安井にも、ただ冷淡なもののようにも見える表情だった。

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