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 十月、第四週、日曜日。

 茨北中学校、文化祭当日。


 吹田マコトは玄関に置いてある姿鏡の前で髪型を整えていた。

 普段特に気にせずにいるのでどういった髪型に整えるべきかわからず、指は前髪の上を左右に滑るだけだった。


「ちょっと、マコト。ネクタイ、忘れてるよ」


 玄関のすぐ隣にある台所から声をかけられる。

 豊中とよなかサヤカ、吹田の八年付き合っている彼女。

 台所に立って吹田のために弁当を作っていたのでエプロン姿だった。

 ボロアパートは十月末にもなると室内の温度は低く、サヤカもハイネックのセーターを着て外の気温より低いだろう寒さに耐えている。

 料理する為にと後ろで括っていた髪をほどきながら、片手で赤いネクタイを持って吹田に突きだしていた。


「あー、やっぱ、ネクタイはめんどくさいかなって」

「今日は中学校に取材に行くんでしょ? ちゃんとした服装しとかないと追い出されるかもって言ったの、マコトじゃん。それで慌てて百均でネクタイ探してきたのに」

「いや、そうなんだけどさー。買ってきてくれたのも感謝してんだけどさー。ネクタイ絞めるの嫌いでリーマンやってないって部分もあるしさ」

「それよく言うけど、別に病気とか恐怖症じゃないんでしょ? だったら仕事のためと思って着けて行きなさいよ」

「いや、その、確かに病気とかじゃないんだけどさー。あ、そうそう、赤って派手じゃない?」

「何、私のセンスに文句でもあんの?」


 サヤカは眉間に皺を寄せて、ぐっとネクタイを持つ手を吹田の顔の前により近づけた。


「それは、無いよ。サヤカのセンスに文句なんて言わないよ」

「それじゃあ、ぶつくさ言わずにとっとと着ける!」


 はい、と小さく返事をして吹田はネクタイを受け取った。

 グレーのコートジャケットを脱いで姿鏡の横にあるポールハンガーに雑に掛けた。

 久しぶりにアイロンをかけたしわの伸ばされたワイシャツの襟首を立てて、ぎこちない手つきでネクタイを締めていく。

 やり方は覚えているが、ネクタイを着けるのは何年ぶりになるのか覚えていなかった。


「今度の仕事はマコトのライター人生を変えるかもしれない仕事なんでしょ?」

「ああ、そう。安定して食えるって意味じゃないけどさ」

「前に勤めてた出版社の縁で書かしてもらってるのじゃ不満?」

「不満だね。そりゃありがたいことに毎月何ページも貰ってさ、依頼された記事書けば飯も食えていいわけだけど。食わしてもらってるって感じがいつまでもまとわりついててさ、ライターってより執筆サラリーマンって感じがするだろ」

「三十半ばでいつまでサラリーマンに偏見持ってんの?」


 ふー、とサヤカは大きく溜め息を吐いた。

 お互いに三十を過ぎてから度々繰り返される話題。

 事務仕事歴が十年近くになろうとしてるサヤカにとって、いつまでもサラリーマンを毛嫌いする吹田の意見は付き合い始めた頃から頷けるものではなかった。

 始めてあった頃など吹田は老いた母親の介護もあったので、安定した収入先につかないという主張は止めたくなるものでもあった。


「大体、雇用主からお給料貰ったらもうそれサラリーマンでしょ」

「だから、俺はフリーのライターとしてやっていくんだって。出版社は雇用主じゃなくて契約先なわけ。頼まれた記事を書くんじゃなくて俺の記事を買ってもらうわけ」


 ふー、とサヤカはもう一度溜め息を吐いた。

 喫煙者だったら紫煙を撒き散らしていたところだ。

 長さが気に入らないのか何度とネクタイを着け直す吹田。

 ふー、と溜め息をもう一度つくとサヤカは、借して、と一言言って吹田のネクタイを持つ手を払った。

 吹田の身体を自分の方に向けさせると馴れた手つきでネクタイをつけ始めた。


「え、ネクタイ着けるの馴れてんの?」

「何それ、浮気疑ってる?」

「いや、そうじゃないけどさ」

「お父さんも不器用な人だったからお母さんが着けてあげてたの。私、それちょっと憧れてたから、何度か練習したことあるのよ」

「未来の旦那さんに、ってこと」

「そういうこと。夢見る少女、素敵でしょ」


 はい、とサヤカはネクタイ装着の出来上がりを吹田の胸をポンと叩き伝える。

 吹田は姿鏡に向き直し、おお、と感動の声を上げる。

 ポールハンガーからコートジャケットを手に取りサヤカは広げると、吹田は一瞬考えたあと背中を向けた。


「こういうのしてくれるの初めてじゃない?」

「大事な仕事の日なんでしょ。せめてかな、って」


 吹田はコートジャケットに腕を通した。


「良いな、こういうの。なぁ、サヤカ・・・・・・」

「何?」

「結婚しよう」


 吹田が振り返らずに言ったので、サヤカは吹田がどんな表情でその言葉を口にしたのかわからなかった。

 ただ目の前の背中はいつも見る頼りない彼氏の背中ではなかった。

 私が支えなきゃと思わされるいつもの背中ではなかった。


「この流れで言う?」

「いや、その、俺・・・・・・今回の書こうとしてる記事さ、さっきも言ったけど別に食えていける保証のあるもんじゃないんだよ。ただ、自分の中のモヤっとしてる何かをさ、晴らせるんじゃないかって確信があるわけ。そうなったらさ、俺、お前と結婚したいなって」

「・・・・・・なんていうか、ライターなのに中身がわかりづらいプロポーズだね」

「厳しいなぁ、編集長かよ」


 いじけたように肩を揺らして、吹田は靴を履いた。

 見映えのいい革靴が用意できなくて、あったのはいつもの履き潰したスポーツシューズ。

 ショルダーバッグとカメラを肩に引っ掛けて持ち上げ、冷たくなった玄関ノブを掴んだ。


「・・・・・・考えとく」


 背中に小さくサヤカの声がかけられた。

 流石にOKとは言われないか、と吹田は自嘲するように口角をつり上げた。


「いってきます」


 玄関のドアを開くと冷たい風が入ってくる。

 部屋の中よりは暖かいかな、と吹田は通路から見える青空を見上げた。

 夏のように鮮やかな青空だった。

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