十一月、第三週、日曜日。


 富田アツシのお別れ会から自宅へと帰ってきた安井タイチは、自室で少し遅めの昼食を取って再び出かける支度に取りかかる。

 一度部屋着に着替えるために脱いだ制服をまた着直す。

 カッターシャツのボタンが取れていることを思い出して、タンスから別のカッターシャツを取り出して着替え直した。

 団地の狭い一部屋は、自室を出るとすぐに台所のあるリビングに繋がっていて、台所のすぐそばには浴室とトイレがある。

 浴室とトイレの間に脱衣スペースがあって、そこに洗濯かごが置いてあるのでそこにボタンの取れたカッターシャツを投げ入れた。


「タイチ、また出かけるのか?」


 リビングに隣接されたふすまで遮られた部屋には安井の父親が居て、寝てるものだと思っていた安井は声をかけられ驚いた。


「学校に忘れ物をしたんだ。それを取ってくる」

「またか、ついこの間も忘れ物をしたと言ってなかったか?」

「うっかりって続くもんだね」


 雑な嘘だなと、我ながら思い苦笑する安井。

 父親は納得したのかしてないのか、僅かな沈黙が流れた。

 話が無いならと安井は自室に戻ろうとしたが、父親の部屋から立ち上がる音が聞こえたのでつい待ち構えてしまう。

 畳に力を込めるせいで軋む音、側にあるタンスを持たないと立ち上がれないためタンスに体重がかかる音。

 グググ、キシギシキシ。

 ゆっくりと立ち上がろうとしてるのが、ふすまで遮られていてもわかる。

 長年の湿気やら何やらで滑りが悪くなったふすまがキィキィと嫌な音を立てて、ゆっくりと横に開かれる。

 安井の父親──安井ゴウが顔を見せた。

 白髪混じりのボサボサの髪、よれたグレーのシャツに横に白いラインの入った黒のジャージパンツ。

 入院患者みたいだろ、と昔よく自嘲していたのに好んで着ているからかいつもよく似た服装だった。


 安井にとって、父親は憧れの存在だった。

 安井がまだ幼少の時には、父親は消防士として現役で働いていて、あまり家に居ない父親のことを話す母親の話と、たまに語ってくれる父親の経験談からまさにヒーローのように思っていた。

 父親は沢山の人を救っているヒーローだと。

 消防士という存在がヒーローであると、父親や母親以外にもTVや母親が買ってくれた本なども教えてくれる。

 消防車や救急車、パトカーが載っている本には父親の職業が立派なものであると説明が書いてあった。


「母さんは?」

「まだ三時を過ぎたとこだよ、父さん。仕事から帰ってきてない」

「そうか。寝てばかりだと、時間の感覚がどうもな。確認するのも忘れてしまう」


 立派な職業をしている安井のヒーローは、仕事中の事故で右下半身が麻痺し続けるほどの怪我を負ってしまう。

 強い父親は病院でのリハビリを辛抱強く受けて、寝たきりになることだけは避けた。

 寝たきりになることもなく、車椅子生活になることもなく、職場からの手厚い労災補償だけ受けて、介護認定を断って。

 でも、強い父親は漫画やドラマのように奇跡の人ではなかった。

 本当のヒーローのように無敵の人ではなかった。


「トイレに立ち上がっただけだよ、タイチ。そんなに構えなくても、変なことしたりはしないよ」

「トイレだってこの前、中で転けて立ち上がれなくなってたじゃないか」

「はは、アレは情けなかったな。でも、ちゃんと手すり作ってもらったからもう大丈夫だよ」


 大丈夫だよ、と心配させまいと口癖のように言う父親に何度と落胆してきたか。

 かつて強かった人はそのを捨てきれずにいる。

 忘れられずにいる。

 諦めきれずにいる。


 病室で寝たきりになってくれていれば、職場からの労災補償で治療費は賄えていたのに。

 車椅子生活になってくれていれば、その生活に合う住まいを補償してくれていたのに。

 介護認定を素直に受けて訪問介護を雇えば、母親がこれ以上苦労しなくてもいいのに。


 大丈夫だよ、と強がって辿り着いた先はいつまでも抜け出せない牢獄のような古い団地で、トイレと食事と風呂に入る以外は寝てるだけの生活だった。

 奇跡の人でも無敵の人でもない父親はそこに甘んじて、そこで疲れ果てて、そこで立ち止まった。


 安井にとって、父親は憧れの存在だった。

 様々な英雄譚を聞かされて、憧れて、幼い頃から自分にはなれないものだと遠くにすら感じていた。

 しかし今はものだと遠くに押しやっていた。


「ほら、大丈夫だから。タイチは忘れ物を取りに行くんだろ? 遅くならないうちに行っておいで。この間みたいに夜遅くになると父さんも母さんも心配だからね」


 父親は悪ではない。

 麻痺さえなければ善良な父親だ。

 息子であるタイチを気遣い、負担をかける母親にも心底申し訳無いと思っているだろう。

 だから、殺したいなどと思ったことはなかった。

 ただ、いつかあのサイレンが、あの夏の日に聞いたサイレンが、父親を何処かへ連れていってくれることを心から願っていた。

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