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「いえいえそんな。遅刻したのはこっちなのに悪いですよ」

「実は今日、僕車なんだ。歩くよりずっと移動は楽だから、ね?アキちゃんはそこで待ってて?特に食べたいものとか決めてなかったし、そっちにある店で美味しそうなとこ見つけて行ってみようよ」

どこまでも優しい蘭さんに、私は寝起きなのもあって盛大に口を滑らせた。

「あーいえ、それがこの辺って食べ物系があんまり無くて。立ち飲み屋かファストフードかコンビニ以外は、キャバクラとかホストクラブとか、風俗ばっかり、みたいな……えっと、だから、やっぱり私が蘭さんのところに行く方が良いっていうか…」

言っている途中で、私はいよいよ本格的に頭が痛くなってきた。身体的なものに加え、精神的な意味でも。

「…風俗ばっかり…?」

「や、今のはアレです、言葉の綾ってヤツで」

…完全に墓穴を掘ったな、これは。

「アキちゃん…?ねえ、ホントに、今どこにいるの…?」

「あー…」

己の迂闊さを呪いながら、私は観念して居場所を告げた。



ネカフェの場所を示した地図を蘭さん宛に送信するなり、スマホを放り出す。ここからは一分一秒たりとも無駄にできない。私はなけなしの気力を振り絞って行動を開始した。

経血の量がまだマシなうちにシャワーを済ませておきたかった。寝汗とかでベタベタの状態で蘭さんの前に出られるわけもない。

シャワー室に飛び込み、シャンプーとリンスを同時につけて髪をザッと洗う。メイクが落ちないよう、顔にはハンカチを当てるのを忘れない。それからボディーソープを身体にスパイスのように振りかけて猛スピードでこすり回した。それはもう、芋を洗うが如く。

例のコンビニTシャツの上に古着屋のワゴンで1000円で売っていたテラテラのキャミソールワンピを身につけ、髪を乾かし始める頃には15分が経過していた。

ネカフェ周辺は道が狭くて複雑とはいえ、もうそろそろ蘭さんが到着してもおかしくはない。

メイクはほんのお直し程度で諦めて、半乾きの髪を手櫛で整える。うん、濡れ髪風のアレンジに見えなくもない、と無理矢理自分を納得させて、最後にシルバーのペンダントをつけた。

かろうじて人前に出れる格好になったものの、眼鏡姿でハンドタオルを首にかけると結局ネカフェ難民丸出しだった。

そんな残念な格好でヒョイと受付を覗くと、案の定。一際背が高く、一際目を引くシルエットが見えた。

学生時代から入り浸ってきた安さ第一のネカフェが、蘭さんがそこに立つだけで異国のバーと化していた。

日本人離れした体格に加え、日本人離れした肌色、黄金比で配置された目鼻立ち。

芸能人ばりの存在感で今日も周囲を圧倒している。彼のオーラで空気中を漂う澱んだ何かが浄化されているような気さえする。

洗い立ての芋は反省した。

20分前の私はよくもまあ、寝起き+着の身着のままで待ち合わせに直行しようとしたな。

それでよく彼の前に立てると思ったな、と。

いや、結局シャワーを浴びて身繕いをするだけの猶予は与えられたわけだけど。むしろこんな俗に塗れた治安の良く無い場所に、彼を来させてしまったことを反省した方がいいのか。

彼が今、店内の視線を集めているのはその美しい容姿のせいだけでは無いだろう。

ここは、一目で仕立ての良さがわかる高級スーツに身を包んだ、いかにも育ちの良さそうな天然坊ちゃんの来るところではない。本人もアウェイ感を感じているのか、居心地が悪そうだ。

店員に何か話しかけるも、すげなく断られている。「だからお客さんの個人情報は…」「個室スペースに行けるのは会員だけですって」「個人的な呼び出しには応じられないんスよ」云々。

…というか、何か揉めてないか?

「蘭さん」と声をかけると、彼の前に立っていた店員のにーちゃんがあからさまにホッとした顔をした。

「なんだ、ホントに知り合いだったんスね」

「すみません、私がもうちょっと早く迎えに出て来れば良かっ」

たんですけど。

言い終わる前に、すごい勢いで腕を掴まれた。

思わず「んおっ」と声を上げて(ここで「キャッ」なんて可愛らしい悲鳴が出ないのが私だ)隣を見れば、あり得ないくらい至近距離に蘭さんの顔。カッと音がしそうな勢いで、ただでさえ大きい目をさらに見開くから、三白眼みたいになっている。

「……」

「ッえ、何、ちょっと、」

しかもそのまま有無を言わせない強さで腕を引いて店を出ようとするので、慌てて「荷物!」と叫ぶ。

腕を掴んだまま風船のように着いてくる彼を伴って、自分の個室に入った私は頭を抱えたくなった。

ふやけたラーメンはそのままだし、皮張りのソファーの上で毛布が乱れているし、買い込んだ下着や着替えやその他諸々をぶち込んだ紙袋は上から覗けば丸見えの状態で置かれていた。

一言で言って生活感で満ち満ち溢れた空間である。

すみません、すぐに片付けます!と私はまず紙袋の口を閉じようとして、出来なかった。

掴まれた腕を引かれ、クルリと景色が回る。次の瞬間には視界いっぱいに蘭さんの顔があり、暖かい粘膜に唇が覆われた。

どうやら私はソファーに座らされていて、蘭さんにキスされているらしい。

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