37

クローゼットを開けようとして、早見蘭に立ち塞がられる。

「ねえ、待ってよアキちゃん!」「邪魔」

押しのけて下着や服を取り出し、紙袋に詰める。

「…や、やだ、やだやだアキちゃん行かないでお願い」「邪魔!」「やだ!」「触んな!」

「ごめんなさい!ごめんなさ、」

横っ面を張り飛ばすと男はよろめいた。その隙に洗面所に向かおうとして、ふと、廊下にソレが落ちているのを発見する。

先程男の顔面に投げつけた本だった。

本屋で探して、わざわざプレゼント包装にしてもらったことが随分と前のことのように思える。そのせっかくの包装も無惨に破れて、本のタイトルが露になっていた。

『誰でも簡単に作れるサラダのレシピ』。

動きの止まった私の手元を男が覗き込む。

「え、それって、」

「チッ」

舌打ちして一度部屋に引き返し、丸めてゴミ箱に捨てると、今度こそ洗面所に向かった。

化粧ポーチやらアメニティやらを次々に紙袋に放り込む。

「アキちゃん!あの本ってもしかして」「黙れ」「ごめんなさい!あの、僕、ホントに」

「だから邪魔どいて」

紙袋を下げ、玄関に向かう私の腕に男が縋り付く。クソ、なんだってこの家にはこんなにビニール傘があるんだ。

「いやだお願いアキちゃんホントにごめんなさいお願いだから行かないで」

「うるさい」

「行かないでくださいお願いします」

「触るなって言ってるよねさっきから」

「ごめんもう触らないから行かないで」

言ったそばから肩を掴んでくる男の鳩尾に腹パンを食らわせた。

邪魔なヒトデを足で蹴り飛ばして靴を履こうとすると、彼はいよいよ本格的に泣き出した。

「ごめんなさいアキちゃん僕何でもするから許してううん許さなくてもいいからお願い行かないで何でもするから」

「…何でもするって?」

私が振り向くと、男は顔を涙でぐちゃぐちゃにして何度も頷いてみせた。

「うんする何でもするアキちゃんが望む事なら何でも、」

「なら、今すぐ死ね」

ひゅっと息を呑んで彼は目を見開いた。その拘束が緩んだ隙に靴を履き、

「アキちゃん…‼︎」

ひび割れたような声には、今度こそ振り向かない。玄関のドアを開け外へ出ると、後ろ手で鍵を投げ込んでから思いっきりドアを叩きつけた。



いくらなんでも近所迷惑だっただろうな。

特に最後のアレは。

と、

今更になってそのことに思いあたる。

そして、同時に私は自分が全身で震えていることに気がついた。きっとマンションからここにくるまでずっとこの状態だったんだろう。体中が震えるような怒り、とはまさにこのことか。

現に、そんな私を見てお茶を出してくれた新人社員は引き攣った笑みを浮かべている。

「、あの」

「はい?」

「ひっ、あの安田さんすぐ来ますからあのホントお待たせしちゃってすみません僕もう一回呼んでみますね!」

返事をしただけでこの怯えようである。一体、今の私はどんな顔をしているんだか。

自分でもわからないし、なんなら鏡でも出して確かめたいくらいだけど、わかったところで表情の修正ができるかと言われるとそれも無理だろう。今のこんな精神状態では。

許せ名も知らぬ新人くんよ…と心の中でその背中に謝ると、ちょうど彼が逃げた先に安田さんが姿を現した。

「ああ、かけい先生。こんばんは」

「こんばんは、安田さん。すみません、こんな遅くに…」

安田さんはいきなり出版社に押しかけた私に何も聞かず、休憩室という名の寝床を貸してくれた。翌朝、新人くんからはサインを強請られた。意外に神経が図太い彼の名は色紙に書いた5秒後に忘れた。

「これからどうするんですか?アテはあるんですか?」

私の大荷物を見て安田さんはそれだけを尋ねた。私が何も決めていないとわかると、

「とりあえず、近くのビジネスホテルをピックアップしてリストにしておきますね。まあ、もう一晩、いえ、二晩くらいこちらに居てくださってもOKですけど」

テキパキとそれだけ言って、安田さんはデスクに戻っていった。どうやら彼女も泊まりがけで仕事だったらしい。エナジードリンクの空き缶が彼女のデスク周りで城の城壁の如く列をなして並んでいた。

さすがにそんな彼女にこれ以上迷惑を掛けられないし、丁重に礼を述べてお暇することにした。

今日は元々とある予定が入っていた。そこで、あわよくば今夜の寝床を確保できるかもしれないし、もしできなくても諦めてネカフェに行けばいい。


で、その予定というのが。


「いらっしゃ、あれ?

リツさん、、、、?今日は早めですね、珍しく」

「どーもシュンさん、お久しぶりです」

ガラス戸を開くと床をモップがけしていた若い男は顔を上げて微笑んだ。微笑んだ、と言ってもほんの一瞬唇の端を釣り上げただけの、どこか皮肉な笑み。

ウェーブのかかったグレーアッシュの髪の隙間から見える目は、一瞬だけこちらに目を合わせるとすぐに伏せられた。

相変わらず愛想笑いのヘタな男だ。

しかも、早速無遠慮に距離を詰めてきたかと思うと、おもむろに私の髪に触れて、

「結構伸びてるな…今日はどうしますか」

取ってつけたかのような質問に、私もお決まりのセリフを返す。

「いつもと同じで、バッサリいっちゃってください」

「OK。ちなみに今日時間に余裕あるんですけど、カラーリングしません?」

「…せっかくだからしてもらおうかな。気分転換に」

「わかりました。じゃ、サンプル持ってくるんでちょっと待っててくださいね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る