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そう言い捨ててさっさと部屋を出て行ってしまった。そんな彼女も非現実的だが、そもそもこの部屋は何処なんだ一体。いや、なんとなく想像はつくが、一応確認はしておこう。

「らんさん」

「ん?」

「わたしはどこ」

…言葉のチョイスを間違えた気がする。

記憶喪失な人が思考にもバグを起こしたみたいな質問になってしまった。が、ニュアンスで言いたいことは伝わったらしく、蘭さんは苦笑して優しく答えてくれる。

「ここはね、僕のマンションの、寝室だよ」

「…きっさてんの、おねーさんがいた気がする。まぼろしかな?」

「幻じゃないよ⁉︎生身の人間だよ⁉︎」

「ナマミの人間」

「うん。ていうか、あの人ね、実は僕の姉なんだ」

「ボクノアネ…?」

ボクノアネ、ボクノアネ、と呪文のようにその言葉がぐるぐる駆け巡った。ボクノ、アネ。ボクの姉。僕の姉。つまり蘭さんの姉。すなわち喫茶店のおねーさんは、蘭さんのお姉さん。

そうだったのか。

ようやく漢字変換されてその意味を掴んだときには、素直な感心が口をついて出た。

姉弟きょうだいそろって、見目麗しくていらっしゃる…」

「ミメウルワシ…?」

今度は蘭さんが首を傾げ、その顔を見ているうちに徐々に意識が覚醒してきた。

そして、覚醒した頭が信じられない事実を導き出す。

「…私、寝てました…?」

「寝てたねえ」

「…どのくらい、寝てました…?」

「ほんの2時間くらいだよ」

2時間も。

絶句する私の頬を指の背で撫でて、蘭さんは「さっきより顔色はマシになったね」と微笑んだ。

確かに、ネカフェに居た時より気分はずっと楽になっていた。ただ、意識がハッキリしてくるにつれ、多いに血を含んだナプキンの湿った感触に不快さも際立つというもので。

あの、お手洗いは…と小さく聞いた私に、彼は案内すると言ってなんと私を抱き上げようとした。

いいと断って、自力で起き上がるも布団からまるで転がり落ちるような格好になって、結局蘭さんに支えられながら廊下を歩く羽目になった。まるで介護だ。そう思うと同時に扉の多さに私は圧倒されていた。どれだけ広いんだこの家は。間違いなく高級マンションだ。“案内”が必要なのも頷ける。

トイレの中には私が買い込んだナプキンが運び込まれていた上、小さなゴミ箱が備えられていた。足で踏んで蓋を開けるタイプのそれは、ペダルの部分にビニールのカバーがついたままだった。明らかに新品だ。

「ありがとうございます。色々と面倒かけちゃってすみません」

おねーさんに呼ばれてリビングにやってきた私はまず、深々と頭を下げた。トイレのゴミ箱は同性としてこういう時に必要なものがわかっている彼女の計らいに違いないと思ったからだ。

「お礼なら蘭に言いな。アタシは蘭に呼ばれて来ただけだし。車で爆睡したあんたを抱えて運んで、布団に寝かせたのも蘭だから」

「…マジですか」

それで目覚めなかった自分に何よりもびっくりである。

とにかく、ありがとうございますと私は蘭さんにも丁寧に頭を下げる。深い感謝を込めて。

しかし、

「羽のように軽かったよ」

「それはない」

にこにことそんなことを宣う蘭さんに次の瞬間には真顔で突っ込んでしまった。

おねーさんは私の為にわざわざ卵がゆを作ってくれたらしい。

「吐いてもいいから胃に何か入れとく方がいいからね」

なんて、弟と同じようなことを言う。

キッチンの前は足の長いスツールが並べられた、バーカウンターのような作りなっていて、その向こうに立つおねーさんは大変絵になった。

でも、足の付かない椅子に座るのは今は正直しんどいな。という私の思考を読んだかのように、食事はテレビの前の低いテーブルの上ですることになった。

「私、蘭さんに運んでもらったからコアラになった夢なんて見たのかな」

話題に困った挙句そんなことを言った私に、おねーさんは律儀に反応してくれた。

「だったら、コアラはちょっとおかしいんじゃない」

「ん?どういうことです?」

「コアラは基本的に子供をおんぶするでしょ」

「アレ、そうでしたっけ。コアラっておんぶですっけ」

「そうよ。抱っこするのはサルよ、サル。あんたは蘭に抱っこされてたんだから、サルになった夢を見るんならまだわかるけど。大体、コアラなんてマニアックだし、サルの方が身近にいるじゃない」

そうだろうか。都会っ子なので、サルもコアラもテレビか動物園でしか見る機会はなかった。

その動物園にしたってはるか昔に一度行ったきりだ。記憶なんて、檻の中でそれはもうアクロバティックに暴れていたチンパンジーと同じくらい、自分の弟が騒がしかった事くらいしか覚えていない。でも、そうか、人間の弟とチンパンジーが似てるんだから、やっぱり私たち人間はサルに近いのだろう。

「なるほど。言われてみれば確かに。おねーさんて頭良いんですね」

「…あんたは変わってるね」

「そうですか?ありがとうございます」

「…………ほんと、変わってるよ」

変わってるって言われて喜ぶなんて。

というが、私にしてみれば平々凡々でつまらない人間だと思われる方がよっぽど嫌だと常々思っていたりする。

そこから、意外にも饒舌なおねーさんのお陰で会話のラリーが続いた。

何故か動物のおんぶと抱っこについての話題が延々と展開した挙句、コアラも子供におっぱいをあげるときは抱っこになるだの、カンガルーは袋の中におっぱいがあるから便利(?)だの、議論は白熱した。鳥類や海洋生物にまで話は広がり、最終的に人間の場合は母親のおっぱいが目の前にある抱っこが、一番安心感があっていいという結論に達した。

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