30

「とにかく、書き上げた物を一度読ませてもらっていいですか?あらすじはあらかた同じなんですよね」

「はい、一応印刷して持ってきてるんですけど」

「あ、じゃあ今から拝見します」

「…あの、結構字数、多いですよ…?」

「?はい」

「安田さん後あるんですよね?」

「ああ、大丈夫ですよ」

私が取り出した紙の束およそ100枚を安田さんは受け取るや否や、ものすごい勢いで読み始めた。目の動きがもう普通の人と違う。ほとんど瞬きをしない猛スピードでの上下運動である。原稿用紙一枚につき40行×40列×100枚で約一万六千字。彼女の今のペースだと、30分も有れば読み終わりそうだった。編集者すごい。

あまりの気迫に、邪魔をしてはいけないと思った私は黙ってチビチビとコーヒーを飲むに徹しようと決めた。

しかし、自分の作品を並々ならぬ集中力で読んでいる人間を前にして数分もたたないうちに、私の意識は目の前の現実から離れ、ここ最近の出来事の回想を始めた。

あらすじを膨らませキャラ描写を深堀し、怒涛のような勢いで今作を書き上げる事1ヶ月前。そこからいつもの流れでエロシーンを書き足せば良かったものを、一文字も進められなかったという、事実。

その原因について自分なりに仮説を立ててみるようと思ったのだ。自分なりに、と言っても何せ自分のことであるから自分で自己分析をして自分で解決方法を編み出し最終的には自分でなんとかしなければならないのだから当然だ、それを何だって「仮説を立ててみる」だなんて気取ったことを言っているのだ私は…………ともかく、それで原因究明をやってみた、その結果。

1つはまあ、有り体に言えば普段力を入れない部分にエネルギーを注いでしまって燃え尽きた、というのもので、これがほぼ有力なのだが、もう一つ。

蘭さんだ。

彼はここ最近、通販で何かを買い漁ってはコソコソと自分の部屋に持ち込み、1人でぶつぶつ喋り続けているかと思えばこちらが話しかけてもうわの空、かと思えば時折私の顔を窺っているような視線を感じて振り返るとヘラッと決まり悪げに笑顔を浮かべ、夜はなかなか布団に入って来ないから様子を見に行けば仕事部屋に灯がついている、といってもどうやら仕事をしているわけではないらしく、夜食を持っていけば妙に慌てて部屋の中を見られたくない素振りで私の前に立ちはだかって後ろ手で戸を閉める。

……という挙動不審っぷりをこの1ヶ月間披露し続ける事で、この私の集中力を見事蹴散らしてくれていた。

そして。

極め付きは、つい先週。

私から誘った映画デートを彼に断られた事だった。それも、「ちょっと、料理に挑戦したくなって」という訳の分からない理由で。

思い出してついスマホを開き、気になっている新作映画の情報をチェックしてしまう。彼のいう「料理に挑戦」とやらがいつ終わるのかは知らないが(そもそも本当なのかも怪しいところだが)、折を見て彼を連れ出さなければ映画の上映期間が終わってしまう。私が1人で観に行ったりすれば彼は拗ねるだろうし、まして他の人間と観に行ったりしようものならもっと面倒臭いことになる。と思ってサッと調べるだけのつもりだっただが、電波が悪いのかなんなのか、なかなか上映スケジュールが開かない。

そのままずっとスマホを見ているのも安田さんに失礼な気がしてきたので、私は諦めて窓の外を横切る人々をぼんやり眺めた。

子供の頃、私は周りの人間を見下ろせるようになることが大人になることだと思っていたものだった。しかしいざ大人になってみれば、同性と比べても小柄な私は、相変わらず人から見下ろされることの方が多い。今時の子供は発育がいいから、ヘタをすれば小学生にすら見下ろされることがあるくらいだ。

今いるホテルのカフェは地面より少し高い位置に床がある。おかげで、私は通りを行き交うあらゆる人間より少し高い位置に自分の頭がある、という珍しい状況にある。

これが普段なら、外を出て人混みを歩けば前が見えず、自分の矮小さを見せつけられているような気がしてイライラする。家に帰れば同居人が大きいから私の身体なんてすっぽり包まれてしまい、やっぱり自分の矮小さを見せつけられるけど、イライラはしない。自分でも不思議なことに。…と、ここまで考えてまた思考が蘭さんのことに戻ってしまったことに気づく。どうした私。と我に返って再び窓の外を眺める。あ、あの人の着ているジャケット、蘭さんが持っているの似てる。というか、同じだ。蘭さんの方がずっと似合ってるし、窓の外の名も知らぬ他人が着るとなんだか別物に見えていたから近くに来るまで気づかなかった。なんて考えた自分にハッとする。

本当にどうしたのだろう、私は。私は自分に害があるわけでもない他人の挙動を、こんなに気にしたことがかつてあっただろうか。いや、ない。……なんと言うんだっけ、この言い回しは。懐かしいこの言い回しには、文法として何か名称がついていたような。はるか昔に思える学生時代に習ったはずだ、そう、確か反「面白かったです」

唐突に思考は中断され、目の前の人間に焦点ピントが合わされる。

「……え?」

「とっても面白かったですよ」

安田さんは微笑んだ。頬が上気していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る