23
時は6月の末、初夏と呼ばれる季節に差し掛かっていた。
蒸し暑い早朝の湿気をつんざく濁った悲鳴と同時に、金属的な破壊音が上がった。
私はその時絶賛執筆中で、それも前日の夜からパソコンに向かってせっせと指を動かし続けていた。つまり徹夜だ。いわゆる「筆が乗っている」状態とでもいうのか、私の中に“何か”が降臨し、取り憑かれたように原稿が進む時がある。こういうときは書けるときに書いておいた方がいいので、“何か”が途切れないうちに自分の中に浮かんでくる言葉を吐き出し続けておくことにしていた。
そんな風に集中していたところに、不意に私の世界に飛び込んできた“音”に、まず身体がビクッと生理的な反応を起こし、次の瞬間には凄まじい苛立ちに駆られる。いつものことだ。
私は昔から“不意打ち”というものが苦手なのだった。
オバケ屋敷なんかに入ると、オバケそのものが怖いのではなく、突然視界に入られたり突然大きな音を立てられるのが嫌なのだ。ホラー映画が苦手なのも同じ理由である。日常生活でも“不意打ち”はそこかしこにある。子供の奇声、クラクション、果てはスマホの着信音にまで、私は不意打ちをされると苛立ち、殺意を持つ。
「アキちゃん…!」
徹夜でおそらくは色々すごいことになっている顔に殺意まで添えて、どすどすと足音も荒くリビングにやってきた私を、蘭さんは救世主と言わんばかりに見上げた。
「…何。なんなの」
レオタードから生えた長い手足を丸め、限界まで身体を縮こまらせている蘭さん。その尋常ではない怯えように苛立ちも霧散していく。
「さ、さっきリビングのドアを開けたらアイツが急に…!」
指先まで震わせながら彼が差し示すのは、
「……あ。セミ」
リビングの床でひっくり返っている大きな虫。日本の夏の代名詞だ。死んだように動かないが、これは
「……」
「……」
「……」
「ジジジジジジ‼︎」
「!…チッ」
…知ってはいるが、霧散したはずの苛立ちが蘇るのは抑えられなかった。私が近寄ると案の定、セミは突如渾身の力で暴れ始めた。ウヒャア!と悲鳴をあげる蘭さんを尻目に、私はセミを鷲掴みにすると、そのままベランダに出て、あらんかぎりの殺意を球速(この場合、球=セミ)に乗せてぶん投げてやった。
「…よし。かなり遠くに飛ばしたからもう大丈夫」
寝不足のむくんだ顔に爽やかな笑顔をトッピングして振り返った私を、蘭さんは尊敬の眼差しで見上げた。
「アキちゃんすごい…セミ触れるんだ」
「んーまあね」
「あんなにうるさくてデカい虫、怖くないの?」
「怖くないよ」
それに、あれはセミの中でも比較的小さいアブラゼミだったしと私が言うと、蘭さんは心なしか引いた目で私を見つめた。
「……アキちゃんもしかしてセミ好きなの?」
「好きではない」
「あ、そうなの。え、でも種類までわかって、触れるってことは、」
「好きではない。断じて!好きではないから」
「アッハイ」
虫に対する生理的な嫌悪感は、世間一般の女子同様、私にだってある。
ただ、かつて実家ではセミに始まり、カマキリやらコオロギやらバッタやら、虫が家の中に持ち込まれるのはよくあることだった。
もちろん、断じて私の仕業ではない。私は物心ついたときから、自分の嫌なものは視界にすら入れない主義だ。私の人生、いかに嫌なことからうまく逃げるかに心を砕いている、と言っても過言ではない。
ただ、うちには生まれた時から全てにおいて優先権を与えられた小さな
「お姉ちゃんでしょ我慢しなさい」「悪気はないんだし、別に死にはしないんだから」と。
誰も助けてくれないならば、そりゃ人間そのうち適応するものだ。どうしても逃げられないなら、立ち向かうしかない。したくもない“我慢”を重ねた末、無理矢理“平気”になるしかない。私の子供時代は、理不尽に塗れていた。今だって理不尽というものはそこかしこに溢れているけど、大人になるにつれ私はそれらを避ける方法を学習していった。こうして嘘つきな私の今がある。
私の憂いを帯びた表情を見て、蘭さんは何を聞くまでもなく、黙って頭を撫でてくれた。たまにこうやって察しが良くなるところも私が彼の好きなところの一つだ。
「じゃあアキちゃんは、別に虫が平気なわけではないんだね」
「平気だよ。でも、積極的に触りたいとは思わないかな」
「…無理させてごめんね。そういえば、アキちゃん、ゴキブリは怖がってたもんね」
「怖がってはない」
「でもこの前、」
「怖がってはない。断じて!怖がってはない」
「アッハイ」
蘭さんが言っているのは、つい先週2人で映画館に行った帰り、マンションのエントランス前でゴキブリに遭遇した時の話だ。
敵は、どうやっても私たちがソイツの視界に入るのを避けられないような、絶妙なポジションを確保していた。状況を打破するべく、作戦を練っていた私は、側から見れば確かに恐怖で硬直しているように見えたかもしれない。
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