33
立ち上がった大きなシルエットが踊りかかってくる直前でリビングのドアを閉める。
重い肉がぶつかる音に加え、金属が床に落ちる鋭い音。それから「ッてぇな、クソ‼︎」という罵声。ついぞ聞いたことのない、蘭さんの声。
現実とは思えなかった。
蘭さん。
早見蘭。
…アレが?本当に?
彼が、本当に、あんなことを…?
リビングを離れ直感的に蘭さんの部屋に飛び込んだ。ここなら隣の部屋へと抜けられるドアがある。
暗がりを手探りで移動しながら私が考えを纏めようとした次の瞬間、
ガン‼︎と壁越しに叩きつけられた硬質な音に反射的に身がすくんだ。咄嗟に、彼の服がかかったラックに飛び込む。
「ねえ、アキちゃん!見たよね、絶対見たよねそんで理解したよな俺がどういうヤツか!わかったんだろ!なあアキ!家ン中にいるのはわかってんだよ逃げられると思うなよ!オイコラ聞いてんのか隠れてないで出てこいよ!」
ガン!ガン!と己の声に合わせて早見蘭は壁を殴りつけながら、廊下を移動している。とても正気の沙汰とは思えないその言動に、停止していた思考が動き出す。
そうだよ見たんだよ私はハッキリとこの目で見たよその瞬間に本当は理解したよ。
というか、なんだその口調は“俺”なんて一人称初めて聞いたよそれがテメエの本性ってか?
心の中でめいいっぱい彼を罵倒していて、
思い出す。
彼の、あの言葉を。
今にして思えば不自然極まりない、本当に殺人鬼というものに怯えている人間とは思えない、残愧に満ちた、あの発言を。
『長い間一緒にいたっていっても、自分の本性を知られちゃった相手なんだよ?殺す一択に決まってる』
つまり、私は殺される。
他でも無い、本人がそう言ったのだ。
他の結末を考える余地はもはや無い。
だから。
いい加減認めろ私。自分の目にした光景を疑ってばかりいないで、認めろ。
さっきのアレは、現実だ。
そして今は、生きるか死ぬかの、現実だ。
自分が目にして、耳にして、本能で瞬間的に感じたこと、
どんなに思考を巡らして疑問を呈して足掻いたところで何になる。考えることが、何になる。
そもそも誰だ人間が考える葦だなんて言ったヤツは。
こういう土壇場で役に立つのは本能に導かれた咄嗟の行動だ。
人間らしい思考など、いざというとき邪魔になるだけなのだ。
私はそれを知っている。そして、私は慎重な女であり、こんな時に役立つものを、外に出るときは常に持ち歩いているのだ。外出帰りでよかった、そう思いながら私は腰に手を伸ばす。
が、その手が虚しく空を切った。
最後に手に取ったのが何年も、何十年も昔に思える、私の武器。
赤い柄のついた、ねじ回し。
それは、いつも持ち歩いているハンドバッグの、外ポケットに入れっぱなしにしているはずだった。
しかし今は、そのハンドバッグが無い。重い紙袋の方はそのまま持ってきたのに、バッグの方は廊下かリビングに落としてしまったらしかった。自分の肩からその感触が消えたことすら気がつかなかったとは。
クソッ!
先程の蘭さんのように、思いっきり毒づきたかったが、声には出さない。出せるわけがない。ていうか、なんで私は“蘭さん”なんて呼んでるんだあんなヤツに敬称をつけるなんてどうかしている。
ヤツは、
早見蘭という名のあの男は、
今をもってして、ただの敵!
そして、体の大きな敵に立ち向かうには素手では不利。それに、こういう時にただ隠れているだけでは、いずれはジリ貧になってしまうだろう…ってだから、考えるなよ私なんでもいいからとにかく武器を取りに行くんだよ、と腰を上げたそのとき、
不意に視界が開けた。
服をかき分け、こちらを覗きこむ大きなシルエット。
暗闇に慣れた目が、はっきりとソイツの姿を捉える。いつのまにか音もなく忍び寄ってきたらしい、早見蘭。
陶器のような肌、整った目鼻立ちに、少し太めで綺麗な形をした眉。
こんなときでも、彼の顔立ちは美しかった。その美しい顔をもって今、彼はこの上なく醜悪に笑う。
「あは。見ぃつけたァ」
男は、目の前で見せつけるように舌なめずりをした。
相変わらずびっくりするくらい長い舌は唾液と赤い液体で濡れていて、いよいよ人外じみていた。
「アキちゃん?おーい。あれ、何、固まっちゃってんの?」
男はピタピタと冷たい銀色で私の頬を叩く。
「アーキぃ、返事くらいしろよ、名前呼んでんだからさぁ」
ピタピタピタピタ。
銀色のソレはナイフの形をしていて、誰のものともわからない血が未だ滴り続けている、それが私の頬にも付着する、とてつもなく気持ち悪い。
そんな私の目線を追った蘭さんは、一度ナイフを離す。何をするのかと思いきや、ナイフを己の口元に持ってくると、舌を這わせ刃に付いている未だ渇いていない新鮮な血をベロリと舐めとった。
その表情といったらまさに“恍惚”という言葉以外の何モノでもなく。
とてつもなく気持ち悪い。
そう思うのに、私は同時にそこに壮絶な色気を見て取る。
そして、彼は万力のような力で私の肩を押さえ込み、顔を近づけてきた。反射的に顔を背けた私の頬を、熱くて長い舌が這う。肉食獣が獲物を嬲るような仕草だった。
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