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後にわかったことだが、火元になった男は焼身自殺をしようとしたわけではなかった。原因は料理の最中に起こった心臓発作。キッチンの上に取り付けてある収納棚からサラダ油と料理酒を取り出した、ちょうどそのタイミングだった。結果、彼はそれらの引火剤を火のついたガスコンロにぶっかけた上に自らも浴びた状態で昏倒。アレよアレよと火は燃え広がり、男自身も炎に包まれやがて部屋全体が…というのが事の真相らしい。名刺をくれた警察官が教えてくれた。
死ぬなら人に迷惑をかけない形で死ね、とブリブリ腹を立てていた私も、流石にそれを聞いて死んだ男が気の毒になった。わざわざ花を手向けようとまでは思わないが、学生くんとイツキにはちゃんと真相を話しておいた。
結局学生くんの家には二泊三日お世話になった。
私が出て行く際、イツキはバイトで不在で、わざわざ玄関まで見送りに来た学生くんには“宿泊代”として五千円札を押し付けた。すると彼は何を思ったか、インスタントラーメンをビニール袋いっぱいに入れて渡してくれた。…全部にマーカーで「イツキ」と書かれていたけど、いいのだろうか。まあいい、ありがたく頂いておこう。どのみち怒られるのは彼だ。
もう二度と訪れることはないだろうマンションを後にして数時間後。
私はネカフェの個室で臥せっていた。予定では5日後にくるはずの生理が来てしまったのだ。それも、5.6回に一度の、かなり“重い”やつが。
ネカフェに来るまでの道中に気付き、慌ててドラッグストアでナプキンと薬を買い込んだ。そのあと、鈍い腹痛と闘いながら出版社に私の本の“見本誌”について電話を入れた。
見本誌というのは、発売前に作者に送られる、完成形の本のことである。いつもなら編集者が自宅に郵送してくれるのだが、当分は住居が定まりそうもないので直接取りに行く旨を伝えたのである。当然その理由を聞かれ、火事で自宅が焼失したと正直に言うと、いつもは冷静な編集者の安田さんにそれはもう驚かれた。
「もしかして表紙見本を送るときにファックスの宛先が急に変わったのって…」
「あー、知り合いに借りたんです」
「わざわざ?早く言ってくれれば良かったのに。先生が
なるほど、考えてみればその手があったか。どうやら、人生に一度あるか無いかの非常事態に私も動揺していたらしい。そこまで頭が回らなかった。
そこから安田さんはいくつか心配の言葉をかけてくれたが、時間が経つほどお腹の痛みが酷くなってきて正直それどころではなかった。まるで内臓に石でも詰まってるかのような圧迫感。
調べ物をしようとパソコンを立ち上げた頃には軽い頭痛まで始まっていた。
それに耐えながら、夢遊病者のような足取りでドリンクバーのあるスペースに行って、カップラーメンにお湯を注いで戻ってきたところまでは覚えている。
微かな振動を感じてハッと顔を上げると、すっかり冷めてふやけたラーメンがまず目に入った。どうやらちょっとの間意識を失っていたらしく、パソコンの画面はスリープモードになっていた。振動はどうやらスマホからで、継続的なことから電話らしいとわかる。
安田さんが何か伝え忘れたんだろうか。
私は画面をよく見もせず(…というか、コンタクトを外してしまったのでほぼ見えていなかった)反射的に通話ボタンの位置を指でタップした。
「あ、もしもしアキちゃん?」
安田さんとは全然違う男の声でいきなり本名を呼ばれ、私は思わず背筋を伸ばした。
「え、あ、はい。…あれ?蘭さん?」
「はい、蘭です。アキちゃん、何かあったの?大丈夫?」
待ち合わせ場所にいないから電話しちゃったけど、今通話して平気?と聞かれて思い出した。
そうだ、今日は仕事帰りの蘭さんと合流してご飯を食べる約束をした日だった。
慌ててマウスを動かしてパソコンの時計を見る。体感時間では5分も経ってないと思っていたのに、最後に時刻を確認した時から裕に2時間が経過していた。そして、彼との待ち合わせ時間を30分も過ぎていた。しかも、私はその約束自体、すっかり忘れていた。
「っすみません寝てました!完っ全に寝落ちしてましたごめんなさい!」
「あーそっか。声がなんか疲れた感じだったから、そうかなーとは思ったんだ。事故とか事件とかじゃなくて良かったよ」
蘭さんの心の底からホッとしたような声に、ひたすら申し訳なさが募る。
「ホントすみません、マッハで向かいますね!」
「慌てないでね、無理しなくていいから。適当にその辺の店とか入って待ってるし」
「多分、今いるとこから15分もかからないと思うんで!」
「え?今いるとこって…もしかして外にいるの?」
「あ、はい」
「アキちゃん、外で寝落ちしたの⁉︎3月になったとはいえまだまだ寒いし風邪ひくよ⁉︎」
「いやいや、外っていうのは単に、家じゃ無いって意味です!暖かい店内で座ってたらいつのまにか寝ちゃってただけなんです」
「…アキちゃん、ホントに大丈夫?疲れてるみたいだし、僕がそっちに行くよ?」
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