第23話 輝きの谷



「こらっ、いい加減、目を覚ませ」

「立っているの、もう疲れちゃったよ」

…  …  …

体の内側で、熱いものがまた騒ぎはじめた。喉の奥あたりに中途半端に残っている。

『吐き出したい、この熱さを!』

良は口を開いた。途端に足に鋭い痛みが走り、はっと目を覚ました。


目の前に圭太と新一が立っていた。淡い灰色の光の中で引きつった顔をして笑っている。

良は咄嗟に口を閉じ、喉元まで登っていた熱い物を飲み込んだ。

「ん?」

強い違和感があった。体を動かそうとしたが駄目だった。首を左右に振って見てみれば、太い木の杭に後ろ手に固く縛られていた。

そこは入り江の中央、先ほど蒼が繋がれていた場所だった。


「強く噛んでしまったけど、足、大丈夫?」

唸り声が尋ねた。足元に灰色の狼がいた。

「犬神さん。無事だったんだね」

良はほっと息を漏らした。目の前にいる二人が顔をしかめた。炎ほどではないが、かなり熱かったらしい。

「僕はどうして縛られ…」

良が聞こうとした時だった。


「手荒なことをいたしました」

静かに響く低い声が聞こえ、銀色に鈍く光る羽織をまとった幻人が前に進み出た。プラチナカラーの短い毛が生えた頭を深く下げている。

『ああ、この人こそは…』

竜の波動の散歩で会った人、銀の衣の三郎太だった。


圭太と新一は後ろに回り、縄をほどきはじめた。何かこそこそと話をしている。

「どうした?内緒話なんかするなよ」

「良ちゃん、頭痛くない?」

と新一が心配そうに顔をのぞき込み、「ああ、聞いてしまった」と圭太の嘆く声が続いた。

「なんだよ、いったい?」

良は自由になった手で頭をまさぐった。髪の毛のあちこちに固まりかけた血がついていた。以前にも同じような経験をした。

「僕は空から落ちたの…それとも」

首を回して圭太の顔をのぞくと、とぼけるように横を向いた。腰の縄をほどいている新一も視線をそらせるように下を向いた。

「さてはおまえら、僕を殴ったな。それも、あの馬鹿でかい石のトンカチで」

「安西君、二人はあなたがこの入り江を燃やしてしまうのをくい止めたのよ」

「えっ」

蒼の言葉に、良はあたりに視線を巡らせた。

桟橋が一つ黒焦げになっていた。そして入り江の奥にのびる山道には、幻人たちがひしめいていた。怖々とこちらを窺っている。腕や顔に布を当てている人が多くいた。


すっかり事情が飲み込めた。

記憶の片隅に、三郎太が銀の衣を受けとる場面と、圭太が「銀の衣の三郎太さん!」と叫ぶ声が残っていた。

良は羽ばたきながら炎を吐き出したのだ。

新一が思いきり腕を伸ばして良の顎を横に向けたので、巨大な炎の矛先は入り江の中央から逸れた。大惨事にはならなかったが、それでも桟橋の一つをあっという間に燃やしてしまった。


怖ろしい出来事に、辺りは騒然となり、祓いの儀式どころではなくなった。さすがの幻人たちも山際へと逃げていった。

探していた銀の衣の三郎太も現れ、もはや良が炎を吐く理由はなくなったのだが、暴走した感情を沈めることはできなかった。地上に降りたっても、良は炎の柱を吐き出そうとした。それを食い止めようと、圭太と新一が石のトンカチで頭をガツンとやったのだ。そして良は気を失った。


今、圭太と新一が良の目の前に立っていたのは、良の心に刻まれている友情に頼って、目覚めた彼が再び炎を吐き出すのを抑えるためだった。


「怪我をした人はたくさんいるの?」

良は誰にともなく聞いた。

「桟橋の近くにいた者が、少しばかり火傷を負いました。救護の小屋で横になっている者もおりますが、数日とかからずに元気になるでしょう。お仲間が即座に行動して下さったおかげです」

答えてくれた三郎太は、縄をほどき終えた二人に頭を下げた。


「ほれみろ。理由もなく友だちの頭を殴る奴が、どこにいるかっていうんだ」

「溜まっていたストレスも、ちょっと取れたしね」

圭太と新一が胸を反り返した。

「僕の頭は、壊れた舟じゃないんだぞ」

良はニヤリと笑う二人の頬を爪で軽く引っかいた。


「とにかく本当にありがとう。じゃあ、二人の友情へのお礼として」

ブホォオーと天高く、巨大な炎の柱を吹き上げた。


… … …


夜はすっかり明け、鉛色だが決して暗くはない空が広がっていた。入り江を赤く染めていた篝火かがりびも、今は白い煙をくゆらせているだけである。


四人は、山裾の洞穴に作られている「寺」に案内された。

重い板戸を引いた先には、蝋燭に照された岩壁の通路が伸びていた。

「どうぞ。異界から来訪された皆様には不似合いな部屋かも知れませぬが」

四人を丁寧に導いた三郎太は、通路の横の一番手前にある扉に手をかけた。


「おおー」

目の前に広がった部屋に四人は目を見張った。

「まるで中尊寺の金色堂みたいだ」

新一が溜息を漏らした。

そこはまさに日本の寺の本堂と極似した空間だった。教室ほどの広さを半分に仕切った奥手には、幾体もの黄金色の仏像?と杯がならび、数知れぬ燭台の光に厳かに輝いていた。

質素で飾り気のない外の風景との違いに圧倒されている四人に、「さあさ、足を伸ばされよ」と、三郎太は広い青石の座卓の周りに座るように勧めた。床には、柔らかい毛皮が敷かれている。四人は思い思いに座卓の前に座った。


すぐ後に入ってきた女が、座卓にお椀を並べ、甘い蜜のような香りのするお茶?を急須から注いだ。

三郎太の分は、いつも携えているマイカップというものか、懐から取り出された黒いお椀に注がれた。

「では黒碗くろわんの坊さま、ご一同さま。ごゆるりと」

女は丁寧に一礼してしずしずと出ていった。

黒碗くろわんの坊さま…それが三郎太さんのこの世界での呼び名なんだ』

良はふと思った。


「三郎太さんって、まるで王様みたいだね」

微妙な沈黙を破って、良の隣に座る新一が口を開いた。

「王様…ですとな。それはいかなる者かはわかりませぬが、わしは国中を旅する坊主。人々の苦しみを聞き、生きる道を説き、時には、災いをもたらすものを消し去る役目もいたしております」

「でも、お坊さんにしては、皆へいこらしすぎのような気がする。このお寺だって、他の人の家より遥かに豪華だし」

新一のあけすけな言葉に、三郎太は朗らかに笑った。

「ははは、この世界の人々は、己と共にあるあらゆるものに畏敬の念を抱いております。海、山、川、大地、光、数え上げればきりがありませぬ。だから総てのものに耳を傾けるわしらのような坊主にとても親切なのです。それにこの寺は、わしら坊主が足を停め、時に祈祷をする仮の宿に過ぎませぬ」

「ははぁ、そうなのでありますね」

新一はさも納得したように深く頷いた。


久しぶりに味わうくつろいだ雰囲気に、良は床に寝そべりたい気持ちに駆られた。それを何とか抑え、姿勢を正して話した。

「三郎太さん、僕たちはあなたを探していたんです。でも人々は、名前はともかく銀色の羽織のことも知らなかった」

「わしが羽織を身にまとうのは、特別な儀式を行う時だけです。大勢の前では今回が初めて。そのことを知らぬのも致し方ないというもの。加えて申しますと、あの輝きの島で、ふわりと漂う良殿の姿に、わしの真の名をお伝えしたのは、この世界に光と豊かさをもたらす方と信じたからです」


「俺、三郎太さんに気づいてもらおうとして、大声で名前を叫んでしまった。名前を知られたあなたは皆の奴隷になってしまう」

寺に案内されてから、ずっとうつむき加減だった圭太が力なくいった。

「いや、あなたはちょうど良い機会を与えて下さいました。わしはあなた方へのお手伝いを済ませるのと共に、今の生を断ち切ろうと思うております。この体も厳しい旅を続けるには、歳を取り過ぎました」

三郎太はゆったりと語った。

その外見は、海胡桃のお婆よりずっと若く見えた。背筋はまっすぐに伸び、低い声には張りもあった。幻人の歳というものはわからないものだった。

「それは、死んでしまうということですか」

顔をあげた圭太がしょんぼりと聞いた。

「そうではございませぬ。ご安心下さい」

三郎太は目の前で湯気をたてる飲み物に手を伸ばし、美味しそうにすすった。その屈託のない穏やかな様子に圭太の表情も幾分和らいだ。


「どれどれ、僕も」

だらりと胡座あぐらをかいている新一が、飲み物に手を伸ばそうとした。が、その指先に蒼がかみついた。

「ひっ、なに?」

「犬神さん、本物の狼みたいだよ」

青い顔をしてのけぞった新一を後目に、良は言った。

「だって言葉で注意するより、かんだほうが楽なんだもの」

鼻の上にシワを寄せて笑う蒼に、良も身を引いた。

「やや、これは失礼いたした。あなた方は異界からの来訪者。こちらの世界の食物を口にしてはならないんじゃった」

三郎太は慌てて湯飲みを下に置いた。

「へっ、だって僕ら、海胡桃のお婆さんの所で…」

顔を引きつらせた新一に、

「あのシイの実は、僕らの世界から持ち込まれたものだから大丈夫だよ」

自信はなかったが、良はしっかりと言ってやった。


「さて、良殿。お仲間から概略あらましはお聞きしておりますが、こちらの世界に来られたご用の向き、今一度、お伺いしたいのですが」

きっちりと座り直した三郎太が尋ねた。


良はこれまでのことを話した。

…長老たちが話した『育みの気』の減少と異常気象について…

…人々の凍りつき事件と命の波動、こちらの世界の黒い魚との関係について…

…事態の究明と解決のために、不思議な波動を宿した良とその仲間たちが、地蔵菩薩像を経由して三郎太に会いに来たこと…

…こちらの世界の青い空と美味しい魚の減少は、あちらの世界の地蔵菩薩像への祈りの減少が関係しているらしい等々…


しかし、良は「黒い魚を食べないでほしい」とは言えなかった。

人の命の波動は、この世界の人にとっては命を繋ぐ貴重な食べ物であった。それに大きな矛盾…幻人たちは凍りつき事件の起こるずっと以前から黒い魚を食べていたらしい…があったからだ。


三郎太は驚いたり、しきりに頷いていたが、最後にぱちりと膝を叩いた。

「そちらの世界で生じている不可思議な出来事、よくわかりました。それで黒い魚に起こっている異変が納得されました」

「異変?」 

「ええ、漁に出ている男たちの話ですが、ここのところ、急に黒い魚が分身しなくなったそうなのです。本来ならモリで突いても、すぐさまに突いた魚とは別の体が生じていたのです。さすがに祟りを怖れ、分身したての魚を突くことはなかったのですが」

良は驚いた。

「じゃあ、人々は以前にも凍りついていたんだ。でも、自分でも知らぬ間に元に戻っていた」

「そういや、普段でも急に背中辺りが寒くなることあったよ。風邪の引きはじめかな、なんて思っていたけど」

圭太が言った。落ち込んでいた気持ちはいつの間にか消えたようだ。

「うむ」

良も納得した。

思い起こせばいろいろあった。疲れてもいないのに、足が引きつったり、ぼうっとしてしまったり…意識はあるのに体が動かせなくなったり…

それらは総てではないにしろ、こちらの世界で黒い魚になっている自分の波動が、幻人のモリに突かれたからだったのに違いない。


「問題は、黒い魚が突かれることでなくて、分身して再生しなくなったことなんだ」

「僕たちの世界が、凍りついた人を溶かすものを無くしてしまったってことだね」

良の言葉に、鼻の穴を広げた新一が続いた。

「それこそが育みの気なんだ。それが減ってしまったから、自然の物と同じように、人間も凍ったままになってしまったんだ」

圭太がズバリといい、良たちも「それだ!」と声をあげた。


三郎太が首を傾げた。

「あなた方の世界とわしらの世界は、互いに大切な物を与え合っているようです。

そちらの世界で、大地への祈りが乏しくなったことで、輝きの島は光をなくし、空は青さを失いました。しかし、そちらで『育みの気』とやらが減少していることについては合点がいきませぬ。わしらの心のありようは以前から何も変わってはいないのです」

「こちらの世界で、最近、光とか大地への祈りが遠退いてしまっているということは?」

蒼が聞いた。

三郎太はそっと微笑んだ。

「命を育む自然界への感謝の祈り…。こちらの者は、日々、それぞれの国にある『輝きの谷』に祈りを捧げています。漁に出ている者も、夜が訪れる時に、そちらの方角に手を合わせて祈るのです。古来より今日に至るまで、ずっと変わらぬ営みです」

「それは、お地蔵さんへの祈りとすごく似ている。きっと『輝きの谷』への祈りによって、僕たちの世界に流れ込むエネルギーみたいなものがあるんだ。そのエネルギーこそが育みの気で、それがどこかで詰まってしまってる。そう考えるとつじつまが合うんだけど。違うかな?」

良は言った。

「単純過ぎるよ。でも可能性は高いよ」

「可能性が高いなら、それを探るしかないな」

「そう、そこに道が開けているわ」

新一と圭太が頷き、良の横でお座りをしている蒼が耳を立てた。


良は改めて姿勢を正した。

「三郎太さんは、すごく大切なことを教えて下さいました。そして僕らが次に訪れるべき場所についても…」

「いえいえ、それはわしこそが申し上げたいこと…ならば、良殿、そして皆さま、ゆるりと膝も伸ばされてはおられませぬが。参りますかな」

三郎太が丁寧に聞いた。その瞳には、二つの世界に生きる人々を分け隔てなく見つめる、大らかな優しさが宿っているようだった。

「はい!」

四人はきりりと顔を引き締めて返事をした。三郎太は、黒いお椀を座卓に置いたまま、すっくと立ち上がった。


「皆様を、我らが祈りの場所、輝きの谷へとご案内いたします」

 

…  …  …


白い袈裟をかけた三郎太を前に、良たち四人は寺の外に出た。

途端に「黒碗くろわんの坊さま…」と波打つような声が響いてきた。

いつの間にか、寺の周囲には数知れぬ幻人たちが集まっていた。地面に平伏している幻人たちは、口々に三郎太の名を呼んでいた。

今の世での生を断ち切る時にかける白い袈裟…それを用意した寺の女が、島の幻人たちに伝えたのだ。

後ろに立つ良に怖れるような視線を向けながらも、幻人たちの思いは皆、三郎太に向けられていた。


「三郎太さんは、やっぱり王様みたいな人だったんだよ」

「たぶん、幻人たちの心のお師匠様だったんだろう」

「そうね」「うん」

新一と圭太が息を漏らして言い、蒼と良は深くうなずいた。


「皆の衆、これより、我らの青い空の復活に深く関わられている異界の方々を、輝きの谷に案内いたしまする。これまでの皆の衆の様々なお心遣い、深く感謝いたしまする」

三郎太は朗々といい、深々と頭を下げた。そして振り返り、腰に差してあった小刀を良に手渡した。

「どうして僕にこれを?」

良は尋ねた。渡されたのは、海胡桃のお婆も持っていた小刀だった。柄には、尾を噛み合わせて輪になった二匹の蛇が刻まれている。

「良殿、それでわしの胸を突いて下され」

「えっ」

突然であり得ない申し出だった。

「何を言ってるんですか。そんなことできないです」

良は激しく首を振った。だが、三郎太は微笑みながら良の手を強く握り、小刀の鞘をそっと抜いた。


「これはわしらの魂の宿る刀、新生しんせいの刀です。わしらがこの世を去る時、この刀はいったん墓に置かれます。そして刀は、刀に導かれた赤子を宿した女子おなごが手に取ることになります。この世を去った者の魂は、新しい命と共に生まれ変わるのです。

また、自らの名を伝え、今の命を断ち切る時には、その名を伝えた方に新生の刀で刺していただく習わしです。そして刀はその方に託されます。

良殿、わしはあなたに名をお伝えしてから、この時が来るのを待っていたのかもしれません。良殿は、お仲間と共に、ご自身の世界とこちらの世界に光をもたらそうとされている。そんな良殿に、わしは是非にも新生の刀を託したいのです」

「でも、あなたは死んでしまう」

「わしは死ぬのではありません。刀に宿った魂と一つとなるのです。この体はこの世での仮の宿。刀で貫かれた肉体は、傷つくことはなく、消えていくだけです。ですがご安心を。あなた方を輝きの谷にご案内するぐらいの時はあります」

三郎太の顔に不安は全くなかった。


『これはこの世界のしきたり。この世界の人々にとっての真実。よそからきた者があれこれ言えることではない。何よりも、僕を信頼してくれているからこその願いごと…』

良は覚悟を決めた。

「では、刀は、後でどうしたら?」

「良殿、それはあなたの波動に包んで、オジゾウサンを経てこちらにお返し下され。いつの日か、魂の導きにより、誰か赤子を宿した女子おなごが手に取ることになるでしょう」


良は微笑みを浮かべる顔をもう一度見つめた。そして硬く目をつぶり、「いきます」と一声、小刀を前に突き出した。

「ぁぁ」

誰かの掠れ声が漏れた。

「感謝いたします。ささ、刀を引いて下され」

穏やかな声に目を開けた良は、そっと手を引いた。恐る恐る触れた小刀の刃先に血に濡れた感触はなく、目の前の笑顔は変わらなかった。そのまま小刀に鞘をかぶせ、ズボンのベルトにしっかりと差した。


「では参りましょう」

三郎太は何事もなかったかのように、山側を向いて歩きはじめた。痛みを我慢しているようには見えない。衣の裾から見える筋ばった足の運びはしっかりしている。

地面にひれ伏していた幻人たちは、そこから三郎太の魂が降り落ちてくるかのように、三郎太と空との間の宙を見つめ手を合わせていた。


道はすぐにも山に入り、急坂がはじまった。だが、すたすたと歩む三郎太の足どりは軽快そのものだった。当然、新一はすぐに遅れ始めた。

「俺、新一のサポートに回るから、いざという時は空から迎えに来てな」

「うん、了解」

歩調を遅くした圭太に良は頷いた。


やがて石段が現れた。つるつると硬そうな緑色の石だったが、その中央部分は凹んでいた。両脇に生え出した木々の枝はきれいに刈り込まれている。遥か昔より、幻人たちは輝きの谷に祈りを捧げるために、この石段を往復しているのだ。


「安西君、見て」

良の隣を歩く蒼がささやいた。

五、六歩前を歩く三郎太の姿が、一回り小さくなっていた。着物の裾を石段にすっている。石段を登るスピードが早くなった。プラチナカラーだった髪には黒みがかかっていた。

「皆さま、ついてこられていますかな」

ほどなく振り返ったその顔は、みずみず々しく精悍な若者の顔だった。三郎太は若返っていた。しわがれていた低い声は滑らかになっている。

「思いの外、新生の刀の効力が早く、急いでおります」

「心配はいりません。僕らは必ず付いていきます。三郎太さんのペースで進んでください」

息を切らしながら良は答えた。

「かたじけない」

三郎太はさらに足取りを早めた。


紅色に塗られた鳥居のような石の門をくぐったところから、緩やかな下り坂になった。木々の間に煌めく霧が立ちこめはじめた。先を急ぐ三郎太の姿がぼやけていく。


…輝きの谷は、こちらでございます。良殿、二つの世界の架け橋を、ぜひに…

変声期前の子供のような高い声が聞こえた。良と蒼は霧の奥に走り込んだ。


雲間から射す陽の光を逆さまにしたように、深い谷底から光が立ち登っていた。 

対面する切り立った岩壁の頂きから、轟音とともに大滝がなだれ落ち、光をまぶした水煙が絹の流れのように漂っている。

そして足元の平らな岩には、なかば衣に埋もれた赤ん坊が、抱いてくれとばかりに手を伸ばしていた。

良が柔く壊れそうな体に腕を伸ばした時、息も絶え絶えになっている新一と、その重い腰を押していた圭太が追いついた。


「まさか、この赤ちゃんが三郎太さんってか」

喘ぎながら圭太が聞いた。

「そう」

「彼は、生まれ変わろうとしているのだわ」

「どこで?」

「いつ?」

「それはわからない」

矢継ぎ早に言葉が交わされるなか、赤ん坊は満足そうに微笑んだ。

見ている間にも、赤ん坊の体は小さくなり、さらに小さくなって形を失い、良の指の間からすり落ちた。三郎太であったものは光の塊になっていた。それは良の後ろに回り、腰のベルトに差してあった小刀にすっと入り込んだ。


『あなたの魂を宿した新生の刀、大切にお預かりします』

良は小刀を撫でながら、銀の衣の三郎太のいつの日かの生まれ変わりを祈った。


「あー三郎太さん、消えてしまった。で…僕たちは?」

地面を震わせる滝の轟音のなか、新一が頬をひくつかせて聞いた。

「まさか、ここから飛び降りるなんてことはないよね。翼のある良ちゃんに捕まって降りて行ったとして…うう…怖すぎる」

「うーん、たとえ三人を連れて羽ばたいたとしても、きっと翼は途中で消えてしまう」

良が腕を組んで唸る一方で、「答えは出ているわ」と、蒼が新一の胸にぶら下がっている石に鼻を寄せた。これまで輝きを失なっていた石は、谷底からの光に共鳴するように煌めいていた。

「だめだ、降り口はどこにもないや」

注意深く谷底をのぞいていた圭太が首を振った。


「そう。答えは出ているんだ」

良は蒼の言葉を繰り返した。

「ここは輝きの谷。そして僕たちの世界の光が呼んでいる。育みの気の詰まっている所は、深い谷の底のずっと先、僕たちの世界にある」

良は蒼の体に腕を回した。新一は震えながら良の腰にしっかりと腕を回した。圭太も続く。


「じゃあ、行くぞ!」

良は、光を帯びた水飛沫の中に飛び込んだ。翼を伸ばして羽ばたいたが、飛ぶことはかなわなかった。すぐにも体が回転しはじめ、腕の中の蒼の体はすぽりと抜けてしまった。しがみついていた新一と圭太の体も離れていく。

「良…」

誰かの手が、良の手に触れた。その手をしっかりと握った。良の背中にはもはや翼は生えていなかった。


水煙の中、切り裂くように流れる風が心地よかった。白い輝きが体を突き抜けていった。

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