第5話 佐那河内村役場

地元の人が使う林道だろうか、良は薄いアスファルトが敷かれた細い道を下っていた。

やがて道端にポツポツと民家が現れ、街灯の数も増えていった。その光を目にする度に体の内側に力がわき起こった。胸を騒がす高い音がどこか遠くで鳴っていた。


広い道に出てほどなく、煌々と明かりをともす建物の前に辿り着いた。

入口のステップでタバコをくわえていた男性がこちらを見つめた。考え事をするように首をひねっている。と、急にタバコを落として駆け寄ってきた。

「君、もしかして、安西君?」

「はい」

良はこっくりと頷いた。


『そう、僕は安西良』

人とのやりとりのおかげで頭がすっきりしてきた。ヴェールが払われたように、周囲の物音が聞こえはじめた。道路を走る車、街灯のジーという微かな音、それに遠くでなっているサイレン…鐘の音が混じっているので消防車だろう…。

くっきりと色が戻った視界の前には、レンガ調の大きな建物がたっていた。

佐那河内村さなごうちむら役場】…庭園用の大石に文字が刻まれている。

『僕はとにもかくにも洞窟から脱出し、山の麓まで歩いてきたんだ。けど、どうやって?』

意識ははっきりしているのに、記憶の一部にかすみがかかっていた。


「まあ、よくここまで辿り着いたね。さあさ、皆さんお待ちかねだよ」

男性が良の肩を抱きながら建物の中に案内した。

ドア口の古い置き時計は、午前四時をさしていたが、昼間のように人が溢れていた。橙色の消防隊の服を着た人も数人いる。

青いゼッケンのついたジャージを目にした人は、皆、口をあんぐりと開け、目を見張った。

「安西良君、ただいまゴールしました」

男性が高らかに言い、居並ぶ人々の中に拍手が沸き起こった。フロアの奥から、母が髪を振り乱して走ってきた。

「良、良…」

それだけ言い続け、体を抱きしめると、床に膝をついて泣きだした。

「安西さん。なんともまあ、よかったですな」

無線機を首に吊した恰幅のよい男が、顔をほころばして息をついた。

「ええ、ええ、村長さん、ありがとうございます」

「こんなところでは風邪をひいてしまう。静養室で休みなさい」

ついで 優しそうな若い女性が現れ、村長室の隣にある部屋に通された。しゃくり上げながら母もついてきた。


十分に暖房のきいた部屋の隅にはベッドが二台あり、一つには満が眠っていた。

「相変わらずマイペースだな。兄ちゃんが大変だったっていうのに」

生意気な弟の寝顔がこんなに可愛らしいなんて、思ったこともなかった。

「満、さっきまでフロアで起きてたのよ。大好きなゲームもやらずに」 

「ごめん、心配かけたね」

良はそっと言った。ソファーに腰を下ろした母の目から、涙がボタボタと床に落ちた。


ほどなくお盆をもった女性と、先ほどの村長がやってきた。

「良君だったね。ジャージの背中が破れているが、大丈夫かね」

村長の言葉に、顔をあげた母が背中をのぞき込んだ。

「まあ。ナイフで切り裂かれたみたい!」

そのまま手を突っ込み、背中をまさぐった。くすぐるような乾いた手に、良は思わず身をねじった。

「中のTシャツも破れてるわ。でも、傷はないみたい。平気なの」

「うん、ぜんぜん」

そんなこと、まったく気づかなかった。

「それより、父さん…」

聞きかけたところで、向かいのソファーに村長がズシンと腰を下ろした。

「ほんにまあ、山火事にも巻き込まれず、よくここまで辿り着けたもんだ」

「山火事?」

「おお、三時間ほど前に、いきなり山の中腹から火の手があがったんだよ。麓から目撃した人の話では、巨大な火炎放射器が吹き上げたみたいだったそうだ。

ちょうど君が走っていたトレイルコースから二キロほど下の一帯だよ。知らなかったのかい」

良は首を振った。どこかで見たようだが、映画だったか、夢だったか。


「冷めないうちに召し上がれ」

ソファーの前にあるテーブルに女性がお盆を置いた。二つのどんぶりにウドンとお汁粉が入っていた。熱そうな湯気をもくもくと立てている。

「トレイルラン大会の残り物だが。さあ、食べなされ。何も口にしていないんだろう」

村長がそっとお盆を押して勧めてくれた。と、突き出した腹の上の無線機から、くぐもった声が飛び出した。


…こちら山林火災消防隊…

「おう、こちら村長、どうした」

…報告いたします。火災はおさまりました。雪のおかげで被害範囲は少なかったようです。負傷者はいません…

「山火事の鎮火、了解した。ご苦労様」

無線機を手にした村長は、良を見つめて微笑んだ。

「それと、そちらにいる安西さんに伝えておくれ。息子さんは無事ゴールしましたと」

…それはよかった。承知しました…

弾んだ声が返ってきた。


「父さん、まだ、山にいたの?」

「そう、あなたが見つかるまで、絶対下りてこないって。自分は山火事で燃えてしまっても構わないって」

母はまた顔を押さえて泣きだした。

「お母さんの涙のほうが、山火事を早く消せたかもしれんな」

村長は目を赤くにじませ、横に立つ女性と頷き合った。

「さあ、わしらはここを出よう。村長などが前におったら、ゆっくり食べられんだろう」

良の肩をぽんぽんと叩き、村長と女性は部屋を出ていった。


「うはあ、これ最高」

熱々のウドンとお汁粉は、感動的というほどに美味しかった。とっかえひっかえ四回もお代わりしたが、まだまだ食べられそうだった。

母は、良が食べ終わる度に、お代わりを取りに行っていたが、さすがに四回目は少し恥ずかしそうだった。それがなかったら、あと五回はいっただろう。


食事の後くつろいでいると、消防隊員と一緒に、片足を引きずった父が帰ってきた。すすけた黒い顔に、白い筋が二本残っていた。

「正月早々、大きな厄払いができたよ」

良の無事な姿を見た時、そんなことを言って天井に顔を向けた。

「嬉しい時には、子どもの前でも泣いていいのよ」

母がからかい半分に言ったが、父は顔を上げたまま小さく手を振った。



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