第24話 ガラスに覆われた巨樹
良は割れ石が剥き出したガレ場のような斜面に投げ出されていた。
乳白色と暗がりが混じった不思議な空間……徐々に目の焦点が合ってきた。
「また洞窟の中?」
見回せば、そこは膝立ちをするのがやっとの広さの洞穴だった。三十メートルほど登ったところから光が射している。
大理石だろうか、白い結晶がぞろぞろと周囲の壁から突き出している。奥に目をやると、大人の
「ん…」
どこからか微かに水が流れるような音が聞こえていた。腕を伸ばして、すぐ横の壁の岩に手をかけると、雲母のように表面がはがれた。内側の亀裂から水が滲み出てきて、ぽたぽたと手に落ちて流れた。
「みんな無事か?」
ほどよい冷たさを手に感じながら、良は地面に伏せている三人に声をかけた。
「私たちの世界に帰ったのね」
人の姿に戻った蒼が、白いダウンジャケットの上で首を振った。圭太と新一も顔を上げた。
「まったくすごい迫力だった。癖になりそう」
「僕は、プールのスライダーで十分だよ」
いつも通りの圭太と新一だった。
『肌の色は元に戻っているけど…』
良は念のために顔と背中をまさぐった。もはや鋭い牙も翼も生えてはいなかった。もちろん、幻人の世界で破り脱いだ制服の上着とワイシャツは着ておらず、Tシャツの背中は破れたままだ。
「僕ら本当に帰ってきたんだ」
ほっと息をついた良だったが、急に喉が乾いていることに気がついた。壁からしたたる水に口を寄せた。
「うまい!」
思わず大声で叫んだ。
喉を流れた水はほんの少しだったが、体全体に行き渡り、手足の爪の先まで染み通るようだった。
「どれどれ」
他の三人も寄ってきて喉を潤した。
「水ってこんなにうまかったんだ」
少量では飽き足らず、代わる代わるに水を飲み、互いを指さしながら、四人はさんざんに笑った。なぜかおかしくてたまらなかった。腹の底から温かさが沸き上がり、喜びが溢れてきてしかたなかった。
ゴトッ…
笑い転げる良の腰から何かが落ちた。尾を噛み合う二匹の蛇が
「いけないっ」
良は、銀の衣の三郎太から託された新生の刀を大切に拾いあげ、腰のベルトに戻した
四人は突然、現実に引き戻された。
「僕たちは輝きの谷を抜け、この世界に戻った。そして、ここには育みの気の
良の言葉に、圭太が壁から滲み出てくる水を見つめた。
「もしかして、この水が?」
「きっと、そうよ。水を飲んで美味しいのはわかるわ。でも、お酒じゃあるまいし、体の内側から温まってくる水なんて聞いたこともないわ。この水こそが、私たちの世界に流れこむ幻人たちの祈り、育みの気そのものなのよ」
蒼はそう言ってダウンジャケットのチャックを下ろした。幻人の世界でジャンバーを脱ぎ捨てていた圭太と新一はほっと胸を撫で下ろした。
「その貴重な水を、あの大蛇みたいな根をもつ木が独占している。それが詰まりに関係しているんだ」
穴の奥に目をやりながら、良は言った。
「それ、きっと当たりだ」
圭太と蒼がうなずいた。
「とりあえずさ、ここを出ようよ」
相変わらずマイペースな、それでいて真っ当な新一の意見だった。
四人は光の射す方に、這い登っていった。
「あたっ」
良の目の奥に、痛いほどに眩しい太陽の光が射し込んだ。後から出てきた三人もしきりに目をしばたいている。
明るさに目が慣れたところで振り返れば、これまた眩しい光が目に射し込んだ。
空を突き刺さんばかりに
「すごい…」
良は感嘆するように塔を見つめた。
それはただの塔ではなかった。
送電線の鉄塔より三回りは大きい。太い鉄柱は数知れぬ枠で覆われて、その一つ一つにガラスがはめ込まれている。煌めく鉄塔は、一種の芸術品かモニュメントのようにも見えるが、そうではない。
塔の中には、一本の巨木が生えていたのである。高さはゆうに百メートルを超えているだろう。幹まわりは、ニ、三十人の人が手を繋がなければならないほどあった。
「セコイヤの木だ。でも、こんなに大きいのがあるなんて。しかもガラスの温室で覆われている。ここ、日本じゃないのかな」
新一の声を横に、良はあたりを見回した。
周囲は白く煙った山々に囲まれていた。四人がいるのは、山の中腹あたりか、凍りついた灰色の木々が後ろに伸びていた。そして向き直った視界の右半分は、深い谷、左半分は高層ビルのようなガラスの塔が占めていた。
塔の奥に目を凝らすと、向こう側に一筋の道が走っていた。深い谷を渡る幅四メートルほどの道…ダムの水門だった。その上を、数人の人が歩いている。塔との境目あたりに入口があるらしく、姿を消し、また現れていた。その歩き方や服装は、どう見ても日本人だった。
「ここは日本。僕らはどこかのダムの縁にいる。新一、セコイヤの木って、普通どのくらいの高さなんだ?」
良は聞いた。
「だいたい三十メートルぐらいかな。アメリカなら百メートルぐらいのもあるらしいけど。こんなに高かったら、とっくにギネスブックに載ってるよ」
新一は流暢に答えた。まったく図鑑物になると、大人顔負けの知識を披露する。
「ということは、あのばかでかい木が、育みの気を独り占めしているってことか」
圭太が唸った。
先ほどいた洞穴の深さは、セコイヤの木の根元近くまであった。木との距離は五十メートルほどはあるが、あれほどの太い根の持ち主は、他に見当たらなかった。
「そうだけどちがう。あの木は千年ぐらいは生きている。そんな前から事件は起きてないでしょう」
新一が反論した。
「そうだ。事件の原因は木ではなくて、あの塔なんだ。あの木は、育みの気の原液を吸い上げて、気体のようなものにして僕たちの世界に放出してくれている。それをあんなガラスで覆ってしまったから、事件が起こったんだ」
良の言葉に、新一も納得したように頷いた。
「きっとガラスで覆われて、育みの気の循環が悪くなったからあんなに大きくなったんだ」
「問題は、誰がそんなことをしたかだ」
四人は聳え立つ塔を目を細めて見上げた。
「良ちゃん、今って一月だよね」
塔の下に目を向けていた新一が妙な質問をした。圭太は『当然だろう』というように唇をブゥと鳴らしたが、良は気になった。
ベルトに差してあった小刀を手に取って鞘を抜いた。三郎太の胸を貫いた時、その刃は一点の曇りもなく銀色に輝いていた。だがいつの間にか、薄く錆がついていた。
「どうしてそんなことを聞くんだい」
良は新一に聞いた。
「ほら、あの根元の周りに生えている木が花を咲かせている。ちょうど五、六月の季節みたいに」
確かに巨大な木の根元には、アセビやツツジのような灌木が、白い花を咲かせていた。
「そりゃ、セコイヤの放出するものが、他の木を元気にしているってことじゃないか」
口を尖らせる圭太に、良は小刀を差し出して見せた。
「ついさっきまで、この刀の刃は光っていた。それが数日たったみたいに錆が出ている。幻人の住む世界と僕らの世界では、時間の進み方が違うんだ。僕らはあちらに、たった二日いただけだけど、こちらでは何十日も日が流れていたんだ」
自分でも馬鹿なことを言っていると思いながら良はいった。
でも、否定しきれないことがあった。ずっと良に付き添っていた長老たちの波動の現れ、黒い魚、黒い影は、常識を超える速さで移動していた。空を飛んで海を渡った良にも、遅れることなくついてきていた。少しだけ止まって見えたのは、眠っていたからなのではないだろうか。
そして今、空に浮かぶ太陽は、冬の時期よりも高い位置で誇らしげに輝いている。
「そんなことって…まさか浦島太郎みたいに、何百年も経っていたなんてことはないよな」
「それはないと思うけど」
良は刀の刃についた錆の薄さを見ながら答えた。もちろん自信はなかった。
「犬神さんは、どう思う?」
蒼はさきほどから、黙ってあたりを見回していた。
「わからないわ。それより、私、長老様とお父さんを探しているの。二人の気配はあるのに姿は見えない。この近くにいるはずなのに」
「かくれんぼ…ってがらじゃないよな、あの二人は」
蒼は圭太の言葉には反応せずに、ガラスの塔の土台の一つが埋め込まれたダムの水門を指さした。
「あそこにいるような気がするの」
新一がほっとしたように肩をおろした。
「よかった。犬神さんのお父さんや、長老さんまでが生きているってことは、何百年も経ってるなんてことはないものね」
「まあ、な」
良はあえて反論はしなかった。ガラスの塔の中にいるなら、人間の寿命も伸びているかもしれなかった。しかし、それを口にするのは、あまりにも恐ろしいことだった。
「とにかく、あそこの人が出入りしている所。ガラスの塔の下、ダムの水門と重なっている所に秘密がある」
良は立ち上がり、ズボンについた土をはたいた。
「あそこにいるのは、善人、悪人?」
「それは行ってからわかることさ。もし、意図的に育みの気を独り占めしているなら、善人とはいえないだろうな」
新一と圭太も立ち上がった。
「お父さんたちの気配が弱いわ。体の力が奪われているみたい」
蒼がつぶやいた。
四人は凍りついた山肌を滑るように下りた。塔の土台にはすぐに行き着いたが、厚いガラスが行く手を阻んでいた。入口はどこにも見当たらなかった。
「みんな、ちょっと離れて」
良は大きめの石を掴んでガラスにぶち当てた。だが、鈍い音を立てて跳ね返されただけで、傷一つつかなかった。圭太と新一も試みたが結果は同じだった。
塔の中にたどり着くには、向こう岸に渡り、水門の上の入口から入るしか方法はないようだった。
「ねえ、セッコクがあんなに咲いている」
新一がガラスに鼻を押しつけて中に見入った。手を伸ばせば届くような所に、白い花びらをたれた蘭の花が咲いていた。小さなカタバミも可憐な黄色の花を咲かせている。ガラスの塔の中は自然の息吹に溢れていた。
「行こう」
圭太が太った体に手をかけた。悲しそうな顔をして新一は歩きはじめた。
右には、普段ならダムの水が流れ落ちている深い谷がある。そちらからは向こう岸に渡れそうもない。四人は左に進んだ。
ガラスの塔を過ぎてすぐに、巨大な人造湖が現れた。水はスケートリンクのように一面が凍りついている。
『やはり、あの洞穴の中の水は特別な力をもっている。あの周囲には、氷のひとかけらさえなかった』
良は思った。
ダムの岸辺の斜面を下って湖の前に出ると、一メートルほどの高さから氷の上に飛び降りた。氷はひびが入ることもなければ、軋みも聞こえなかった。
四人は湖の上を注意深く歩いた。百メートルはあっただろう。せり上がる水門の壁を横に見ながら、ダムの反対側の岸辺にたどりついた。
灰色に膨れた土の崖を登ったところに広場があった。しきりに車が訪れている。
「俺たちもお客さんになれるかな」
圭太がつぶやいた。
「お父さんたちはお客さん扱いされていない。でも、行かなくては」
蒼が大きな目を見開いた。不安そうな新一は何か言いたそうだったが、蒼の強い口調に唇を結んだ。
四人は水門の上を歩きはじめた。
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