第9話 図書館の老人

翌朝、洗面所で顔を洗おうとした良は驚いた。

左手の甲に、四本のあざのような赤い筋があったのだ。痛みはなく、注意しなければ気づかないほどに薄い。そこは昨日の晩に、鬼のような顔をした男に握られたところだった。

「やっぱり、想像ではなかった」

つぶやきながら後ろの体重計に乗った。

47キロ。体調はすこぶるよかったが、昨日より更に2キロも減っていた。

「ねえ、大丈夫?」

「うん、体重は減ってないよ」

洗面所をのぞいた母に明るく答えた。余計な心配をかけないための嘘だった。家の皆は元気そうだし、もちろん他の誰か病のある人に近づいた覚えもない。体重が減った原因はよくわからない。思い当たることといったら、夜に奇妙な散歩遊びをしたこと。その流れで不思議な男と話をして、手を握られたことだった。


満があんぐりと口を開けて見つめるなか、良は厚切りの食パン六切れをあっという間に平らげた。父は今日から仕事初めで、すでに会社に出かけていた。

昨日は、新一の家に行こうと思っていたが、予定を変えた。

『それどころじゃない。僕は鬼にりつかれてしまったのかも。鬼のことを調べなくては』

焦る気持ちを押さえながら満とゲームをし、九時になるとそそくさと玄関に走った。

「どこに行くの?」

「ちょっと図書館に」

台所からの母の声にこたえ、ドアのステップの横に停めてある自転車に跨った。ペダルを踏み出してすぐにブレーキを握った。

誰か引っ越してきたのだろう。三十メートルほど走った先の空き家の前で、家具屋のトラックが道を塞いでいた。自転車を降りて横の用水に落ちないように注意して押した。


「ごめんなさいね」

明るい声に顔を上げれば、二階の窓から同じ年ぐらいの女の子がのぞいていた。落ち着いた雰囲気からは、大学生のようにも見える。

『はて、どこかで会ったような…』

なんとなく引っかかったが、小さくお辞儀をして自転車に跨った。


風がひょうひょうと頬をなでていく。天気のよい春の日のサイクリングのように気持ちがよかった。

商店街の中道通りに出た。福袋を持った人がいっぱいいる。抽選の回転盤をまわす音がジャラジャラと響いている。町は正月の活気に溢れていた。

図書館は立ち並んだ店を抜けた先にある。くねくねとハンドルをさばいて進んだ。

「まあ、あの子ったら」

幾人かが、良を見つめて目を丸めた。

「僕、トレーナーしか着ていない」

良は、自分の服装がおかしなことに初めて気がついた。

人々は、厚いコートやジャンバーを着込み、ほとんどが手袋をはめている。一方、良ときたら、薄手のトレーナーとジーパン、それに裸足にサンダル姿である。

いつも自転車に乗る時にしていた耳当てもすっかり忘れていた。そんなことに気がつかないほど、体は寒さを感じていなかった。

服装の見かけなど気にする柄ではなかったが、いぶかしむような視線で突つかれるのはよい気持ちがしなかった。

商店街を抜けて、図書館の自動ドアが開いた時、ほっと息をついた。


入口近くの閲覧コーナーのソファーで、おじいさんが三人、雑誌を見ていた。奥の方、本棚の間や学習コーナーに人はいなかった。カウンターの向こうでは、係員が居眠りをしていた。

「えーと、鬼は…」

さっそく検索用のコンピューターの前に座り、「鬼」とキーワードを入力した。

画面にずらりと<鬼>と文字が入った題名が並んだ。ほとんどは子ども向けの絵本や童話だったが、中には鬼の歴史や鬼の民族学など、大人が読むような専門書もあった。

「うーん、難しそう」

溜め息をつきながら、メモ用紙に本を探す記号[721ーオ]とタイトルを書いた。係員に探してもらおうとしたが、あいにく目は閉じたままである。小さく舌を鳴らして、700~と数字の書かれた棚に向かった。


「おっ、これだ」

検索したタイトルの本を見つけ、期待を膨らませて手に取って開いてみたが、

「うーむ」

また溜め息が出た。

ルビの多い難読漢字が並んだ文中に、銀の衣の三郎太と名のった者に関連しそうな内容を探そうとしたが、圧倒的な知識不足もあって、それらしいものを見つけることはできなかった。


「君、探しものは見つかったかね」

「…」

いきなりだった。

ほとんど人はいないのに、近づいてくる気配を感じなかった。ぎこちなく振り返ると、仙人のように白い顎髭をのばした老人がいたずらっぽく笑っていた。今時珍しく着物を着ている。線香の匂いがかすかにした。

「ええ、まあ」

知らない人に、自分が探している本について話すなどできなかった。何しろマニアックな鬼についての本なのだから。

「ほほう、鬼か」

良が手にしている本をのぞきこんだ老人は、興味深そうに髭をさすった。

「そうなんですけど」

「で、その中に、お目当ての鬼はいたかね」

ポイントをついた質問だった。

『少し気味が悪いけど、もしやこの人は何か知っているかもしれない。えい、聞いてしまえ!』

良は老人の正面に向き直った。

「僕、鬼に取り憑かれた知り合いを助ける方法を探しているんです。ご存じないですか」

「なんと!」

老人はすっとんきょうな声をあげた。係員がぎくりと目を覚ました。

「知り合いが、鬼に取り憑かれてしまったと?」

声を落とした老人は、目尻を下げて良を見つめた。

「そういうことなんです」

「その解決策の書かれている本は、たぶん、ここにはないじゃろう。で、その人は鬼にどんなことをされて、どうなったのかね?」

「悩み事を相談されて、手を握られて、それで体重が減ってしまったんです」


老人は首を傾げた。

「はて、鬼が悩み事を相談したとな…。鬼とは、人の心の闇に取り憑く邪悪な霊体、あるいはそれが具現化したもの。じゃからに、鬼がすることは、暗く、嫌らしく、破壊的であると聞いておるが…。その鬼とやらは、どんな様子だったのかな」

良は説明した。

老人は考え事をするように上を向いて髭をしごいた。

「おそらく、それは幻人まぼろしびとじゃろう」

「まぼろしびと?」

「そう。今でこそなくなったが、昔はよく神隠しというものがあった。この世でない世界に行ってしまうことじゃが。現代の言葉で置き換えるなら、パラレルワールドとも言えるかもしれんな…そこから帰ってきた者は、幻人に会ったと話したもんじゃ。鼻が高いから天狗、歯が牙のようだから鬼という人もおったがな。話からすると、幻人との出会いは、体重が減ったこととは無関係じゃ」


良は思わず目を開いた。

『この人は父さんと同じようなことを言っている。でも、こちらの方が本格的だ。何か特別な研究をしている人なのだろうか』

「じゃあ、体重が減ったのはどうして?」

調子に乗って聞いた良に、老人はウインクをするように片目を細めた。

「体重が減るということは、体のエネルギーを消費したというわけじゃが。その人は何か特別なことをしたのではないかね。例えば不思議な力を持つ波動、まあ、影みたいなものを使ったとか」

「不思議な力をもつ波動、影みたいなもの?あっ!」

昨日の晩は、自分が想像した影を町に伸ばしていた。それに病院では、自分の体を患者たちの近くに寄せていた。

『僕は不思議な波動を身にまとっていて、それで患者さんの病気を治したのか。そして昨日の晩のことといい…僕の体重が減ったのは、その波動の力を使ったからなのか』

老人のくぼんだ目は、良の心の奥を見すかしているようだった。

「ピーンときたようじゃの」

「はい。ご存じなら教えて下さい。どうしたら体重が減らないようにできるのですか」

自分のことであることは、とっくにバレているようだった。それならそれでいいと、良はすがるように聞いた。

「波動にもたくさんの種類があるが…おそらく君が語っているのは光の波動じゃ。それは光から発生したエネルギー体。ということは、波動の栄養は、光。体重が減らないようにするには、心に豊かな光を描き、それが体に充満することを祈ればよい」

「心に豊かな光を描いて体に充満することを祈る。それだけ?でも、どうして、そんなことを知っているんですか」

「さてな。では、不思議な波動をもった知り合いによろしく」

そう言うと老人は、クッと喉を鳴らして手を振り、ドア口に歩いていった。


良は慌てて後を追って外に出たが、既にその姿は見えなかった。なんという素早さだろう。向こうの曲がり角までは、五十メートル以上もある。

いきなり現れたかと思えば、察しのよすぎる話をしたり…

『もしや、外見だけではなく、本当に仙人だったのでは』

ありえないこととはいえ、老人が空を飛んでいるかもしれないと、良は上空の雲の間に目を凝らした。

と、自転車のベルがけたたましく鳴った。


「おお、ビリケツ良ちん」

「山から帰ってきたら、ただいまぐらい言ってよ」

二つの陽気な声がした。長身の鈴木圭太と、太っちょの三田新一だった。

「ごめん、いろいろあって。それより今、髭をのばしたおじいさんを見かけなかったかい」

二人は顔を見合わせた。

「あの着物姿の?」


「見かけたっていうか、角の自動販売機の前で、友だちを大切にって愛想よく声をかけてきた」

「で?」

「なんもないよ…そのままボチボチ歩いていった」

圭太の答えに少しがっかりしながらも、良は首をひねった。

『やはりあのおじいさんは普通の人間だったのか。でも何故、二人に声かけを?』

「なんでもいいけど、こんな所にいないで中に入ろうよ」

新一が体を縮めながら鼻水をすすった。


良は図書館に戻った。

学習コーナーに腰を下ろした圭太と新一は、こわばった体をもぞもぞと動かした。

「それにしても寒いよな。天気予報では温かくなるっていっていたのに。大はずれだよ」

「良ちゃん、ジャンバーは?そんな薄着で寒くないの」

圭太に続いて、良の服装を見た新一が首を傾げた。

「うん、ちっとも」

良は寒さを感じない自分がおかしいことを改めて知った。これも、不思議な波動とやらに関係があるのだろうか。ということは、こんなことでも力を使っていることになる。


「それで、ここに何をしに?図書館なんて二人には似合わないよ」

良はちらりと掠めた疑問を振り払いながら聞いた。

「読書感想文。冬休みの宿題だよ。家にいても、弟たちが喧しくて集中できないからな。新一もやっていないっていうし」

圭太が笑いながら、隣の太った肩を抱きしめた。


「良ちゃんは?良ちゃんだって図書館は似合わないよ。やっぱり宿題?」

「ブブー。宿題は大晦日までにやったよ。ちょっと調べ物があったんだ」

「先にやってしまうなんてずるい」

「そうだそうだ。良、俺たちに心配かけた分、感想文みせろ」

圭太がテーブル越しに長い首を突き出した。新一はにんまり笑っている。

「それを言われてしまうとなぁ。でも感想文だよ。同じだったら、まずいのでないの」

頭の中に、担任で現国担当の末本先生のフグのような顔がちらついた。宿題を写したのがバレたら、どんなペナルティを課せられるか…

「いけるって、全部写すわけじゃないし」

圭太の自信満々な顔に、良はしぶしぶ頷いた。

「やったー」

新一が喜びの声を出した。


「静かに!」

居眠りから覚め、棚に本を返しにきた係員が、テーブルを指で小突きながら通り過ぎた。三人はクッと忍び笑いした。

「さて、感想文は良の家に行って書かせてもらうことにしてと。調べものは済んだのか」

圭太が声をおさえて聞いた。

良は首を振った。

「探していた本が見つからなかったんだ」

「俺たちも探してあげるよ。せっかくここまで来たんだから」

「そうしようよ。もうちょっと、ここでぬくぬくしていたいし」

圭太がいい、新一が頷いた。

「ありがとう。でも、もういいんだ。さっきのおじいさんが、いいことを教えてくれたし」

「なんだい、そりゃ」

二人は良の顔をのぞきこんだ。


幻人まぼろしびとって、知ってる?」

良は昨日の晩に経験したことを話し始めた。はじめ、二人は顔を寄せて話を聞いていたが、途中から身を引くように椅子に背をつけた。

「何か気味悪いよ。禁じられた食べ物ってなに?第一、それって夢ではないの」

「証拠はあるんだ。ほら」

良は、ほとんど見えなくなっている左手の赤い筋を二人に見せた。二人はそれを怖々と見つめ、顔を見合わせた。もちろん良は、父親に言われたように、病気を治す力のことは省いて話した。そんなことまで知ったら、二人は余計に気味悪がるに違いなかった。


「新一、聞こうと思っていたんだけど、トレイルラン大会の時、変なもの見たんだよな。ほら、神社の神主さんが来ているって」

良の質問に、新一の小さな目が見開いた。

「うん、見たよ。白い着物を着た三人の人が立っていた。そこに良ちゃんが飛び込んできて、急に消えてね。気がついたら一人でコースを歩いていた。あれって本当だったの。あとで探したけど、そんな人たちいなかったし、僕、夢でも見ていたんだと思っていた」

「僕も見たんだ」

良はいった

「俺はぜんぜん、気づかなかったぞ」

仲間外れにされたように、圭太がむくれた。

幻人まぼろしびとに会ったりとか、変なことが起こったのは、あれがきっかけみたいなんだ。だから聞くんだけど、新一は大丈夫か。なにか奇妙なことは起こっていないか?」

「いや、何もないよ。でもよかった。夢じゃなかったんだ。他の二人は忘れたけど、僕、あの時に見た女の子の顔、今でもはっきりと覚えているんだ。すごく可愛くてね」

新一は遠くを見つめるような目をして、だらしなく口を開けた。


もしや、新一にも何かの力が宿っているのでは?という期待が外れ、良は小さく肩を落とした。その一方で、圭太が目を丸くして首を伸ばした。

「へえ、新一って、女の子に興味あったのかよ」

驚くのも当然だった。新一の話題といえば、もっぱら、ゲームのことか、百科事典で仕入れた妙な知識ばかりだったのだから。

「そりゃ、クラスには、ちょっといない感じのだよ。なんていうか、お姫様みたいっていったらいいかな」

「その娘、良も見たのか」

「うん。ちらっとだけだけど」

「畜生。走りに夢中になってて損した。こらっ新一、もっと詳しく思い出せ!」

圭太が太った友人の脇腹をくすぐった。ヒーヒー言いながら、体をよじった新一は、派手な音を立てて椅子から転げ落ちた。


「何度言ったらわかるんですか。おしゃべりは外でしなさい!」

眉をつり上げた係員が、つかつかと寄ってきた。


図書館を追い出された三人は、そのまま良の家までいった。

圭太と新一が感想文を適当に写した後、秋の文化祭から放っておいたギターをいじったり、満も交えてゲームをしたりして解散した。

『全部じゃないけど、二人に話してよかった』

良は重荷をおろしたように、ほっと息をつき、遠ざかる友人の後ろ姿を見送った。


その夜、良はまた奇妙な散歩をしてしまわないかと、ビクビクしながらベッドに入ったが、何も起こらなかった。

次の日の朝、こっそり体重計に乗ると体重は減っていた。やはり、前日の寒さを感じない薄着での外出が影響しているだろう。母の目を盗んで、非常袋の中のカンパンやチョコレートをむしゃむしゃと食べた。

その日は一日中、家でごろごろしていた。体重が減らないようにするには、心に豊かな光を描いて体に充満することを祈ればいい。図書館で会った老人は言っていた。でも実際、どうやればよいのか分からなかった。

せめてもと、ベッドを日のあたる窓際に引いていき、パンツだけになって光を浴びた。寒さを感じないことに首をひねりながらも、瞼の裏に広がる朱色の光が体の隅々に広がるように祈った。

満や母がやってくる気配がすると、慌てて布団を被った。

「冬休み最後だから、のんびり昼寝」

のぞき込んだ二人に言った。

母は心配そうな顔をしたが、良の明るい顔を見て安心したようだった。


夕食の前に体重計に乗ると、冬休み前の重さに戻っていた。ご飯も茶わん一杯で腹一杯になった。

光への祈りは、しっかり効いたのだ。

このことは、両親そろった時に報告したかった。それで夜遅く、父が帰ってきた物音を聞きつけて一階におりた。居間のドアを開けると、ガサガサとなにかを隠す音がした。

「へっ、なに?」

父の後ろに回り込むと、非常袋が倒れていた。二十本以上ものチョコレートがこぼれ出ている。

「ほれ、災害への準備は怠るなというだろう」

「時々入れ替えないといけないから、食べてもいいわよ」

見え見えの取り繕いだった。良が非常袋の中身に手をつけていたことは、バレていたのだ。

「ありがとう。で、とりあえずだけど…」

良は、光への祈りについて二人に報告した。

はっきり解決したわけではないが、問題が取り組めそうなことがわかった両親は、「お祝いだ」とチョコレートにむしゃつきながら喜んでくれた。

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