第10話 謎の転校生
一月九日、三学期初日の朝。
紺色のブレザーを羽織った良は、弟の満と玄関を出た。満は制服の上に厚いジャンバーを着ている。山間部は別として、ずっと晴れの日が続いていた。
しかし、気温はまったく上がらなかった。跨った自転車の下に壊れている霜柱は、先日からのものがそのままに残っていた。
「そいじゃ」「ああ」
交差点で満と別れて高校に向かった。途中の道々で街路樹の葉先の氷を叩き落としたり、道にはりだした薄氷をパリパリと割って進んだり、寒さで身を縮こまらせない分、様々な楽しみを発見した。
高校が近づくにつれ、他の生徒達の姿も多く見られるようになったが、みな一様に防寒着を着ていた。
「動きずらそう」
良は顔をしかめてつぶやいた。軽快に動ける快適さのおかげで、自分だけが薄着という違和感はなくなっていた。
駐輪場に自転車を置き、校舎に入って階段を駆け上がった。二階の教室に入った良を迎えたのは、クラスメートたちの歓声だった。
「奇跡の生還、おめでとう」
皆、口々に話しかけてくる。普段は話をしない女子までもが、「すごいわ、暗い山道を一人で歩いたんだって」とにっこりしながら寄ってきた。
「へ?」
佐那河内村で起こった山火事のことは、新聞やニュースで大きく取り上げられていたが、良がトレイルラン大会で行方知らずになったことは、一部の人しか知らないことである。
『さては二人が…』と、良は既に登校していた圭太と新一を睨んだが、二人とも「何も言っていないよ」とばかりに肩をすくめた。
理由はすぐにわかった。一人の生徒の父親が、村役場に勤めていて、それで噂が広まっていたのだ。
ヒーローのような扱いに、くすぐったいような感じがしたが、悪い気はしなかった。
やがて、チャイムが軽やかに鳴った。たった二週間だけの冬休みだったが、懐かしく胸に響いた。生徒はそれぞれの席についた。
「ねえ、今日って、席替えがあるよね」
隣の席の田代みすずが、目をぱちくりさせながら聞いてきた。
「新学期だからね」
「残念だけど、今日でお別れね」
「ああ」
良は苦笑いを浮かべた。
『まったく、そんなことよく言える。本音は圭太と離れたくないってことだよね』
みすずは圭太に憧れている。斜め前に座るスラリとした青年に向けたトロリとした視線が、何よりの証拠だ。スポーツ万能で話も面白く、おまけにスタイルもいい圭太に憧れている女子は多かった。
建てつけの悪い引き戸をガタつかせながら、担任の末本先生の大きな体が、ぬうっと入ってきた。新学期なのに、いつものよれよれのジャージ姿。それがパンパンにふくれている。中に厚いセーターを着込んでいるのだろう。
「皆さん、新年、あけましておめでとうございます」
スポーツ刈りの頭を丁寧すぎるほどに下げた。
「どうしちゃったの、そんなよそむけの挨拶して」
ひとりの女子が茶化した。ずぼらな先生がしっかり挨拶するなど、四月の担任紹介以来だったのだ。
「新年ともなれば、僕だって気を引き締めるさ。それに、今日は新しいクラスメートの紹介もあるしな」
先生は頭をするりと撫でて笑うと、おもむろに廊下に顔を向けた。
「こちらにどうぞ」
高校で転校生があるなど、ひどく珍しいことである。皆がえーとばかりにのぞきこむ中、一人の生徒が教室に入ってきた。
その長い黒髪の女生徒は、教壇に立つと深く頭を下げた。その動きは、まるで猫のようにしなやかだった。そしてゆっくりとあげた顔に、大きな瞳が黒く輝いていた。
「あっ!」
中央の列の一番前に座る新一が声を出し、圭太と良に振り返った。小さく前を指さし、祈るような手の形を作った。
新一が言おうとしていることはすぐにわかった。圭太も気付いたようだ。
『トレイルラン大会で見た女の子、この
今度は圭太が振り返った。
『本当かよ、良』
良は曖昧に首を捻った。しかし見覚えはあった。家のすぐ近くに引っ越してきた女の子だった。
「なんだ、知り合いか」
末本先生が首を突き出し、ぎょろりと新一を見た。
「いや、どこかで会ったかなぁと思っただけです」
新一は恥ずかしそうにうつむいた。教室に笑い声が溢れた。
「慌てん坊の新一はさておいて、転校生を紹介しよう。佐那河内村の分校から転校してきた
「犬神 蒼です。よろしくお願いします」
再び深く頭を下げた女生徒に、皆は盛んに拍手を送った。転校生、犬神蒼はしっかりと顔を上げ、にこやかに微笑んだ。
「うっ!」
良は思わず声を立て、椅子からずり落ちそうになった。
ほんの一瞬だったが、蒼と目が合ったのだ。その瞳は青白く光り、口は耳元まで大きく切れ込んでいた。長い黒髪には、大きな耳が突き出していた。その容貌はまるで狼だった。
先生が呆れた顔を向けるなか、良は目をしばたいた。今見たのは錯覚か、先生の大柄な体の横に立っているのは、自分より少し小柄な可愛らしい女生徒だった。
「どいつもこいつもといったところだが」
苦笑いを浮かべた先生が、教卓の下に置いていた模造紙を取り出した。黒板に広げながら丸磁石で留めていく。教室がざわついた。
「皆が年末にくじ引きした席替えの結果だ。ようく見て、席を移動しなさい」
隣の席のみすずは、茹で上がったタコのような赤い顔になっていた。ついに憧れの圭太の隣になったのだ。良には目もくれずに、ふらりと立ち上がり、机を引きずって廊下側に移動していった。
良の席は窓際の一番後ろになった。隣はおらず、一人だけはみ出している。
「良、寂しがるなよ」
腰を下ろしたところに、先生が教壇の横にあった机を高々と持ち上げながらやってきた。後ろには椅子を運ぶ転校生の姿があった。
「おまえの隣は
こそりと耳打ちし、先生は教壇に戻った。良は体がカチンと固まってしまった。隣に座った転校生には目を向けず、じっと窓の外を眺めた。
『よく覚えていないけど、僕が落ちた穴の近くにいた女の子。一瞬だけだったけど、狼に見えた女の子。その
いや、穴に落ちる時、「危ない!」と叫んだような気もする。すると、悪いものから僕を守ってくれるためにやってきたのか』
「あのう」
澄んだ声がした。良は首の筋肉を
「私、町の学校のこと、あまり知らないの。いろいろ教えてね」
愛らしい話し方に、心にほんわかと温かいものが広がった。
『いかん!うわべの可愛いらしさに油断してはダメだ!とにかく、この
廊下側の席でみすずにうっとりと見つめられている圭太が、チラチラとこちらを見ていた。また列の先頭になってしまった新一は、気掛かりなように首を揺らしていた。
「いいか皆、これは大切なことだぞ」
末本先生の声が教室に響いた。
たぶんこれからの行事予定や、新学期のお決まりの話をしているのだろう。心が騒いでいるせいか、何を言っているのか頭に入ってこなかった。
やがて、黒板の上のスピーカーからくぐもった声が聞こえはじめた。いつもなら体育館でする始業式だが、あまりの寒さに教室で校長の話を聞くことになったのだ。
末本先生の大きな体が良の横を通った。
「背筋、伸ばしてな」
丸まっていた背中を、大きな手で叩かれ、良はよけいな思いを振り払った。
その後、冬休みの課題を各教科の係に提出して、生徒たちは各々の掃除場所に散っていった。良は玄関掃除だった。席が隣なので、当然、転校生の蒼は同じ場所だった。
掃除を終えて教室に戻る時、圭太と新一が走り込んできた。
「良ちゃん、転校生、何か言ってこなかった?」
「うんや、なんにも」
「でも、可愛いいよな。新一の女の子を見る目もなかなかのもんだ」
「それほどでもないよ」
珍しく圭太に誉められ、新一はにたりと頬を
良は二人の脳天気さを分けてもらおうと、無理矢理にニカニカと笑った。
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