第2話 トレイルラン大会
「うー、さぶ」
突き刺すように冷たい風が、ほんの三センチほど開けた窓から吹き込んできた。車中に淀んでいた暖気は、一瞬のうちに流れ去った。
「だめよ、
後の席で母が小さく言った。その横では、毛布を掛けられた弟の満が首をぐらつかせて寝ていた。
「なんか、目がショボついてしまって」
母の言葉に頷いた良は、パワーウィンドウのスイッチを押した。窓が閉まるのと同時に、乾いた熱風が顔を撫でた。目をしばつかせながら、ヒーターの吹き出し口を上に向けた。
「良、眠るなよ。大会がはじまる前に寝てしまうと、体は十分に動いてくれないからな。それに目がショボつくなんぞ、気合いが足らんということだ」
ハンドルを切りながら父が言った。
若い頃、陸上の短距離選手だったせいだろう、大会と名の付くものが絡むと途端に厳しくなる。
「わかっているよ。心に小さな炎を燃やしておくんだよね」
「その通り。小さくても熱い炎をな!」
喉の奥で唸りながら、父はにやりと笑った。
「
母が
「そいつは違う。小さな大会でもオリンピックでも同じだ。参加するからにはな」
強い口調で話し始めた父だったが、
「おっ、なんだ!」
急にハンドルを握る手に力を込め、車のスピードをゆっくり落として路肩に停めた。誰かが激しく揺すったかのように、大量の木の葉と雪のかけらが木立から落ちている。
「今の地震?グラっときたよね」
「ああ、そうだ。大きかったようだが…、うん、たいしたことはなさそうだ」
周囲に視線を走らせながら、父は再びアクセルを踏み込んだ。
いくつものヘアピンカーブを通過する間に、目の前を、板切れに書かれた案内が横切った。道の両脇には、雪がうっすらと積もっている。
[新年雪中トレイルラン大会へようこそ⇒]
分かれ道の中央に立つ松の木に、特大のプラカードが括り付けられていた。車はその矢印のさす方向に進んだ。
良は今日、大川原高原という標高千メートル近い山の上で開催されるトレイルラン大会に出場するのだ。
-トレイルランとは、舗装されていない山中を駆け抜ける競技で、単純に言えば、山登りと長距離走を掛け合わせたようなものである-
良の家は、ここから三十キロほど北東に下った所、四国の東側の徳島市という町にある。夏に阿波踊りが開催される所といえば、ピーンとくる人も多いかもしれない。
そこから、まだ正月気分まっさいちゅうの今日一月五日に、父の自慢の4WDに乗って家族揃って出かけてきたのだ。
「雪中トレイルランなんて、うまいこと狙ったよね」
良は道端に盛り上がった雪を、目を細めて眺めた。
徳島は西部や山間部を除けば、雪は滅多に積もらない。積もったとしても日を越えて残っていることは稀である。盛り上がった雪など、見ているだけで浮き浮きしてくる。
「雪を見ながらのランニングなんて、普通じゃ体験できないしな」
まるで自分が出場するかのように、父は肩を揺らした。
大会は、午前中に中高校生の部があり、午後からは成人の部がある。
良が出場する高校生のコースは、山の山頂、中腹間を五キロ走ることになっている。
「けど…」
想像していたよりも山の道は急だった。車のエンジンが高く唸っている。タイヤには小さなスパイクが生えているらしいが、カーブではズリッズリッと危うい音を立てている。
実際に走るコースは舗装はされていない。しかも、雪の積もったなかを五キロも走るなんて。うきうき感が薄れてきた。
…参加者は、お汁粉食べ放題なんだぜ、それも雪ん中で。最高だろ…
冬休み前に、高校のクラスメートで軽音楽仲間の
後悔という言葉が頭に浮かんだ。だが、今さら「きつそうだから出なくてもいい?」なんて言えそうもない。
この大会に出るといった時、父は「そいつはいい。出場を断念した僕の分も頑張っておくれよ」と本当に嬉しそうだったのだ。
父は、秋の町内運動会で捻挫してしまった。自治会対抗リレーに出て、カーブで曲がり切れずに派手に転び、ついでに足首をグキリとやったのだ。
あれから三ヶ月も経っているのに、真面目に走るとまだズキリと痛むらしい。
「けどって、なんだい?」
「いや、なんでもない」
良は、小首を傾げた父に気付かれないように溜息をついた。
山道が開け、雪に覆われたなだらかな斜面が間近に見えた。
何に使うのかはわからないが、大きなログハウスがぽつりと一件たっている。稜線に沿って十基あまりの風力発電のプロペラが空に伸びて回転している。
「さあ、到着だ」
熱い息遣いとともに、ハンドルが左に切られた。下からは見えなかったが、ログハウスのすぐ上に、学校の校庭ほどもある平らな土地が広がっていた。すでに二十台以上の車が停まっている。
水色に光るジャンバーを着込んだ男性の案内に従い、車は広場の奧に乗り入れた。
「ねえ、着いたの?」
薄い雪でおおわれた広場は、砂利が敷き詰められているのだろう、ビリビリと揺れる車体に、満が目を覚ました。
満は、良より三つ年下。中学一年だから、三キロのコースに出場できた。でも、しつこいほどに誘った結果が、
「せっかくの冬休みなんだから、のんびりしたいよ。それに兄ちゃんが出れば、家族も一杯はお汁粉食べられるんでしょ」というものだった。
これには「まあな」と苦笑いを返すしかなかった。
「外寒そう。僕、車の中で待っているよ。お汁粉の時間になったら教えて」
どこに忍ばせてきたのやら、満はゲームを取り出してピコピコとやりだした。外に立っている人が、体を縮めて足踏みしているのを見たのだろう。
「ほれ、あんなに雪が積もっている。ちょっとは出てみないか」
父が声を掛けた。そんな誘いに満が乗るわけがない。
「雪だなんて、小学生じゃあるまいし。犬だって小屋の中で丸くなっているよ」ときた。
「満が残るなら、私も車の中で待っているわ」
言いながら母はバッグからスマホを取り出した。きっと良が走っている間に、ママ友とラインのやりとりをするに違いない。
「付き合いって、本当大変」とぼやきながら。
「寒がり屋たちは、車に置いといて。さあ、行こう!」
顔をしかめながら父が言った。
「えっ、スタートの十時まで、まだ四十分もあるよ」
「ちょうどいい時間だ。ゆっくり体を温めてから走らないと、筋肉を痛めてしまうし、すぐにバテてしまう」
父は手袋をはめ、外に出た。ゲーム画面を見つめる満のぬくぬく顔を恨めしく思いながら、良はドアを閉めた。
「ぬぅー」
思わず声が漏れた。吐き出す息がやたらに白い。余裕があれば、煙草を吸う真似をしてへらへらと笑っていたところだが、そんな気持ちにはなれない。風はほんのそよ風ていどだったが、耳の付け根にピリピリと滲み込み、奥の方が詰め物をされたように重くなった。
足を踏み出すと、凍り付いた雪がザクリと沈んだ。元旦にやっていた特別番組[南極からおめでとう]を思い出した。良にとって、山上の雪原は、南極にも等しい極寒の地だった。
「そういや、天気予報で山間部は雪が降るかもって言っていたな」
父が空を見上げて言った。一時間ほど前、家を出た頃には、こちら方面には雲一つ見当たらなかったが、今は、厚い灰色の雲が一面に広がっている。
「雪が降ってもやるのかな」良は聞いた。
「少しぐらいならな。冬山に雪が降るのは当たり前だろう」
「そりゃ、そうだけど」
もしかしたら中止になるかもという儚い望みは、あっけなく打ち砕かれた。
「つっ立っていたら凍ってしまう。ウォームアップをはじめよう」
父は早歩き程度のスピードで走りはじめた。左足を少し引きずっているが、振り返った顔は晴れ晴れとしていた。
良も後を追った。フォームはしっかりしているが、体育の授業でタラタラ走るのと同じぐらいのスピードだ。これなら本番がはじまる前に、へたってしまうことはないだろう。
ウィンドブレーカーのシャカシャカと擦れる音が、嫌な気持ちを消していった。耳の痛みはかなりひどくなっていたが、やがて何も感じなくなった。
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