第3話 見えざるもの
十五分ほど走ったところで、広場に紺色のランドクルーザーが入ってきた。運転しているのは、同じクラスでもう一人の軽音楽仲間、
『新一も大会に?あいつ、走るの大嫌いなのに』
はて、と首をひねったところで、窓ガラスに鼻を押しつけて、こちらをのぞいている二つの顔が見えた。良をこの大会に誘った
「なるほどね」
良はくすりと笑った。新一も、圭太の「お汁粉食べ放題だぜ」の誘いにのってしまったのだ。無類の食いしん坊の天秤は、あっさりと傾いたのにちがいない。
車は停まったが、二人は出てこなかった。今度は下を向いて肩を小突き合っている。満と同じくゲームをしているのだろう。
「あれ良の同級生だろ。ウォーミングアップしないと、途中でへたってしまうぞ」
「自分たちのことだよ」
心配そうな父の言葉に、良は小さく答えた。
実際、スポーツ万能の圭太はともかく、新一のことは気になった。体育の時のランニングではいつも歩いていた。そのぐらいのことでも苦しそうに喘いでいた。
『まあ、いつでも棄権できるし、開催スタッフには医者もいるはず』
そう思って良は心配を
広場のあちこちで同年齢の若者たちが軽く走っていた。運動部のユニフォームを着て、まとまって走っているグループもある。良は柔軟体操をしながら視線を飛ばしたが、二人の他には、知っている顔は見られなかった。
「あと五分で、新年トレイルラン大会、中学・高校生男子の部をスタートします。出場者はスタート地点に集まって下さい。一時間ほど前に地震がありましたが、ランニングコース見回りの結果、異常はありませんでした。ご安心ください」
大会役員の腕章をはめたおじさんが、ハンドマイクを片手に話した。
「どうだ、体は温まったか?」
「うん、ほかほかしてる。足がもう少し走りたいって
「そいつはいい」
良はウィンドブレーカーを脱いで、父に渡した。[32]青いゼッケンが、ジャージの腹と背中に縫われていた。
「じゃあ、行ってくるね」
「おお、しっかりやってこい」
軽く手を打ち合わせ、スタート地点に向かった。
五十人ほどはいるだろうか、背丈も学年も違う中高生が、ぞろぞろと集まってきた。各々の服のゼッケンの色は、中学と高校に分けられていて、オレンジと青の二色。さすがに中学生の人数は少ない。三分の二以上は、良と同じく高校生の青いゼッケンをつけている。走るコースは、道々に立っているゼッケンと同じ色の矢印に従えばよかった。
「うう、ぶるっとくるね」
骨ばった体がぶつかってきた。ひょろりと背の高い圭太が顔をのぞかせた。
「あそこで、お汁粉、配るんだよね」
横には良と同じぐらい、170センチほどの身長ながら、かなり太った新一がいる。背伸びをしながら、広場の端の白いテントを見ている。
「おかしい。まだ用意していないや」
「昼までまだ二時間もあるからな。それより大丈夫か。冬休み前より太ったみたいだぞ」
「ご心配なく。今もスマホゲームで【オリンピック完全制覇】をやってたんだ。たった五キロだから、大丈夫」
「それとこれとは違う」
良の気遣いをよそに、赤い頬は呑気に揺れていた。
「それより、おまえの父さん、力はいっているな。うちなんかまだ家で寝ているよ」
向こうにちらりと視線を走らせた圭太がいった。テントの横で父が腕組みしてこちらを見ていた。
「確かに。ちょっとプレッシャーかな」
良は肩をすくめた。
「コースA、B、係員配置オーケーですか…了解…間もなくスタートします」
役員のおじさんが、肩から吊した無線機で最終確認をした。
スタートラインの後ろに参加者がぎゅっと集まってきた。
「決して無理はしないように。調子が悪くなったら、近くにいる係員に申し出て下さい」
おじさんは煙のように息を吐きながら言い、ピストルを握った手を空に向けた。
「それでは、用意…」
パーーン!
冷たい空気に、張り手をくらわすようにピストルが鳴った。耳を塞いでいる者もいたが、それほど大きな音ではなかった。数羽の鳥が、近くの藪の中から飛びたった。
良たちは一斉に走りはじめた。
圭太はあっという間に、前を走る集団に姿を消した。
『あいつ、準備運動もしていないくせに』
予想はしていたことだが、まったく圭太には呆れた。
「良ちゃん、待ってぇ」
掠れ声が聞こえた。振り返ると、タプンタプンと体を揺すりながら、新一が走ってくる。情けないほどに遅く、すでにずーんと離れた最後尾にいる。
「オリンピック選手、お先に!」
良はにこりと笑い、前に向き直った。
足が雪に沈んだのは最初のうちだけだった。舗装されていない山道のコースはパワーショベルで踏み固められていた。だが、キャタピラの跡が凸凹していて、ひどく走りにくい。おまけに下り坂に差し掛かると、ガツガツと足裏に響いた。
良は自分の温かい息を、頬で切りながら前に進んだ。
すぐにも、目の前に綿毛のような物が飛び交いはじめた。
『雪…』
鼻の先に浮かんだかと思うと、すぐに横に飛び過ぎた。
息が切れはじめた時、ちらりと後ろを見た。山肌に途切れながら見えているコースに、太った友人の姿はもはや見えなかった。見知らぬランナーたちが、白い息を吹き上げながら追いかけてくる。
『バッファローみたいだ』
衛星放送で観た古い西部劇の一場面が、目の前を横切った。自分も野生に生きる動物の一匹。余計なことを考えずに前に進む。
スゥ ハッ ハッ
スゥ ハッ ハッ
破裂しそうな肺から吐き出される息、それとも雪か?白い世界に、青い矢印が点々と過ぎていく。
「お先に!」
逆さ
緑色の小さな塊が横に揺れ、通り過ぎていった。振り返ると圭太の後ろ姿が見えた。緑色の手袋を力強く振っている。早くも中間地点を過ぎて帰ってきたのだ。上り坂のはずなのに足取りは力強いままだった。
良はその後、他のランナーと抜きつ抜かれつを繰り返し、氷に浮いた砂利に滑りかかった所で、係員のおじさんに声を掛けられた。
「あと半分、頑張れ!」
渋い声の応援が、眠りかけていた思考回路に渇を入れてくれた。カーブしながら前に伸びる道は、登りに切り替わろうとしていた。すぐにも
『苦しい』
冬休みからはじめた1日3キロのジョギングでトレイルランに挑むなど、甘過ぎたのだ。白い風景がただゆっくりと流れていった。
と、斜め前から青いゼッケンをつけたランナーが降りてくるのが見えた。やっと さっき圭太と擦れ違ったコースのくびれ部分に至ったのだ。
『あれは…』
足を引きずりながらヨタヨタと降りてくるのは、新一だった。自分で歩くというより、坂道で勝手に足が前に出ているようだ。時折、目をつぶっている。
『おいっ?』
何を思ったのか、新一は急に左に折れた。その先には、葉の抜け落ちた黒い木々が並んでいる。そのまま林の中に歩いていく。
『そっちは違う』
近くに係員の姿は見えなかった。
良は頬を叩いて瞼を見開いた。灌木を跨いで下りコースに入り、新一の太った体を追って林の中に入った。凍りついた雪の砕ける音、枯れ枝を踏む音が足元に響いた。
「新一!」
目の前を泳ぐように進む友人に、掠れ声を投げた。
「ゴールだよ。ほら、神社の神主さんが来ている」
足を早めた新一が息も絶え絶えながら、喜びの声を漏らした。その目には、妙なものが映っているようだった。
「なに言ってんだ!」
喘ぎながら良はどなった。走るのを急にやめたせいか、頭がクラクラした。雪の積もった世界が、白黒に点滅している。
「やっ!?」
目の前に、新一が言った通りのものが見えた。白い着物をきた背の高い老人と男の人、もう一人は、たぶん同じ年ぐらいの少女か、三人は三角を描くように立っていた。
彼らは新一がなだれ込んでくるのを無視し、外側に向かって手を合わせている。何故か、囲まれている所は、木々は生えておらず、薄く雪を重ねた土が剥き出していた。大小の角ばった岩が転がっている。
「ど、どうなった?」
良は、頭を振って再び目を見開いた。新一が見えなくなるのと同時に、三人の姿も消えてしまったのだ。
『けど、間違いない、新一はあそこに進んだ!』
良はまっすぐに進んだ。少しふらつき、黒松の幹に体をぶつけた。
『おかしい』
確かにぶつかったはずなのに、なにも感じなかった。まるで擦り抜けてしまったみたい。手を伸ばしてみた。
『ない!ここに松の木なんかない。僕は何を見ている?』
そのまま突進した。
急に、地べたにへたりこんでいる新一の姿が横に見えた。そして先ほどの三人。
『さっき見えたのは本物だったんだ』
わけもわからず、足をもつれさせながら、辺りを見まわした時、不意に地面ががたついた。
「危ない!」
手を合わせていた少女が、こちらを向いて叫んだ。
「えっ、あっ」
体が落下する感じ…次の瞬間、強い衝撃とともに良の目の前は真っ暗になった。
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