第31話 潜んでいた鬼2


『心に光を思い浮かべるんだ。怒りに揺れる光じゃない、温かさに満ちた豊かなる光を』

良は自分に言い聞かせた。倒れる時に見えた黄金色こがねいろの朝日を心に描いた。


「友よ、離れるでない」

恐ろしい顔が、崩れた天井からのぞきこんだ。

良は鬼の顔を目がけ、胸の内に沸き立つ熱い物を吐き出した。それは地球の脈動、大地の奥底に流れる灼熱のマグマだった。同時に鬼もぶくぶくと何かを吐き出した。それは憎しみに満ちた人々の凍りついた顔、顔…。いてつく冷気に激突したマグマはたちまちに固まり、黒い岩となって砕け散った。


「わしを育て続ける人間の負の感情を侮るな。さあ、行くぞ」

鬼は穴の縁から飛び降りてきた。丸太のような腕を伸ばす鬼に向かって、良は鉤爪のついた翼を薙ぎ払った。

ザッ…

鬼の両腕の肩から先が切断されて宙に飛んだ。が、その切り口に黒い霧が生まれ、すぐにも新しい腕が伸びてきた。

「ははは、人の強欲の闇は深いのう。切っても切っても、欲の手は生まれる」

笑いながら鬼は突進し、良を突き倒すと、重機のような力で羽交い締めにしてきた。


「力を抜け、わしらは仲間だ」

良は身動きできなかった。横倒しになった竜の姿勢は、鬼との戦いにはあまりにも不向きだった。鬼の体がじわじわと重なってきた。

人の憎しみ、恨み、妬み…冷たい針が無数の低い声とともに体に侵入してくる。


『優しさを求める孤独な心の闇、そこに鬼は取り憑いている。探すのだ、人の心を』

竜の言葉が頭に響いた。細く伸びた波動を通して竜が語りかけたのだ。


『そう、自分はまだ竜と繋がっている』

その思いが、抵抗への諦めを打ち砕いた。良は重なりつつある鬼の体に、人の心を探した。

『そんなくだらんこと、やめちまえ。おまえは、仲間と一体化しようとする自分を破壊しようとしているのか』

耳の奥でキイキイという甲高い声が聞こえ、幾度も意識が遠退きかけた。


二つの巨体の胸部が重なった時だった。


『一緒に遊んでおくれよ』

いきなり声が聞こえた。


良は心の耳を澄ました。

『成り上がりのぼんぼん野郎、俺たちが遊んでやっているのは、おまえが金持ちだからだよ。遊んでほしけりゃ、小遣い持ってきな』

胸の奥に縮こまった欠片かけらがあった。周囲から辛い言葉を投げつけられている。

『俺だって、好きで金持ちに生まれたわけじゃない。畜生、見返してやる。おまえらを俺の足元にひざまずかせてやる!』

欠片は精一杯にののしった。


…その欠片こそは人の心…竜の声が響いた。


『…やあ』

良は、胸の奥に感じている欠片に声を掛けた。何をしてよいか分からなかったが、自然に心が開いていた。

『誰だ!奴らの仲間か』

鋭い声が返るとともに、小さな映像が見えてきた。


砂利だらけの道端に一人の少年が座っていた。泣き腫らした目で辺りを見回している。それは幼い頃の乱堂だった。

戦争成金で資金をため、経済界を操る影の顔となった乱堂一族の一人、乱堂金茂。その幼い顔には、先ほど見たあの憎々しさは張り付いてはいなかった。

血の通った友人との関わりを求め続け、結局、いつも裏切られ続けた孤独な少年…。悲しい経験が、人を憎しみきれない透き通った瞳に、次々と映っては消えていった。


『おまえは誰だって聞いているんだ!』

少年はどなった。

『僕は、君に会いにきた者』

良は映像の中の少年に、そっと心の手を差し伸べた。少年が求めているものを自分は持っている。そのことが分かっていた。


『良、俺らが付いている。踏ん張るんだ!!』

かすかに聞こえる友人の声に応じるように、心のてのひらの上に小さな灯火ともしびがついた。

『それを俺に?』

少年には良の手は見えず、灯火だけが見えたようだった。疑い深い目つきをしながらも、灯火に腕を伸ばそうとしている。


『坊や、そいつに騙されちゃいけないよ。温かそうに見えても、上辺うわべだけだ』

声が響き、少年は腕を引いた。その肩からアメーバのような黒い物体が流れ出ていた。それは鬼の顔となり、ゆらゆらと立ち上がった。


『この灯火は君にあげられる物ではない。でも、温かさを分かち合うことはできる』

鬼の霊体を無視して、良は思ったままを伝えた。言葉を飾りたてても、役に立たないことは分かっていた。

『途中で引っ込めたりしない?』

『うん、君が求めるなら』

『騙されるな。信じるほどに後で辛くなるぞ』

鬼の霊体が少年の耳元で囁いた。

『本当に引っ込めない?』

少年は吹き込まれる言葉を払うように、頭を振って必死に聞いた。ただただ灯火の近くから響く良の声にしがみつこうとしていた。

『僕は君を裏切らない!』

良は力強く頷いた。掌の灯火が一回り大きくなった。

少年は再び腕を伸ばし、灯火に手をかざした。

『これ、すごく温かいや』

顔をほころばして無邪気に笑った。


ギィーーーオボエテオレーーー

朽ちて倒れる古木の軋みのような声が響いた……揺れ動いていた鬼の霊体はどこかに飛び去った。


目を開くと、隣に乱堂の冷たい体が横たわっていた。その顔は静かに微笑んでいるように見えた。首を回したが、鬼の姿はどこにもなかった。良は元の姿に戻っていた。


眩しい光が辺りを包んだ。波動の輪郭をまとった輝く竜が、翼を広げてこちらをのぞきこんでいた。中空には、妖精のように透き通った乱堂少年が浮かんでいた。ゆっくりと上昇していく。

「我が元に」

低く発した竜は、ひなを抱く母鳥のように少年を迎えた。少年は満ち足りた表情を浮かべ、光の中に消えていった。


良は長く息をついた。傷付いていた少年の心は癒されたのだ。そして鬼はどこかに消え去った。

「でも…」

やりきれない思いが残った。乱堂の言葉が胸に引っかかっていた。


…人は、不安の中で、この瞬間に生きているというありがたさを実感し…自分を支えてくれるものへの祈りを捧げるようになった…他人と手を取り合い、日々を真剣に生きはじめた…。


鬼の霊体に取り憑かれていたあの男は、根っこの所では、人の心の温もりを求めていた。やり方や目的は歪んでいたが、人々の心をあるべき方向へと揺さぶり、祈りというものも復活させたのだ。幻人の世界では、輝きの島は光を帯びはじめていた。


『畜生!他に彼を導く方法はなかったのか…人々を導く方法はなかったのか…』

心の声が聞こえたかのように、見下ろす竜の緑色の目がじっと見つめた。

『おまえは一人ではない。傷ついた仲間には我が光を与えた。さあ今、できることに目を向けよ』

竜と結ばれている波動が短くなり、良を上の階に引き上げた。


すでに蒼たちは人間の姿に戻っていた。皆、しっかりと立っている。

「本当にあいつはいなくなったの」

新一が不安そうにあたりを見回した。

「鬼は霊体として乱堂の心の闇に潜んでいた」

長老が口を開いた。

「そして、乱堂の心が闇を払った時、鬼は居場所を失った。しかし、いなくなったわけではない。消え去った鬼の霊体は、やがて再び取り憑く人間を見つけるじゃろう。人の心は闇を抱きやすく、鬼の言葉にたやすく応じてしまう。それに世には、人に取り憑いている鬼の霊体が何匹もいるはずじゃ。油断はできん」

しゃがれた声は、皆の胸に重く響いた。


「行かなくては!」

良の口から強い言葉が漏れた。

「僕ができることを待っている人々がいる。何ができるかなんてまだ分からない。でも、行かなくては」

「我が波動を共有する者よ。おまえが行くなら、わしも行くということ。さあ、わしを、おまえを運ぶ翼とせよ」

竜は良をその背に迎えるように首を低く垂らした。


「まて、良」

圭太が足を踏み出した良の肩を叩いた。

「俺たちも乗せてくれるか、聞いてみてくれ」

「えっ、俺たちって?」

新一の顔がこわばった。

「当然、俺とおまえだよ。良一人を行かすわけにはいかないだろう」

「そりゃそうだけど」

「私もよ。波動を守る者を忘れてはいけないわ」

蒼が首を突っ込んできた。


「僕の友人たちが、こう言っていますが…」

良は竜に尋ねた。

「美しい光は互いに求め合う。オォーウ、それを邪魔だてするものは何もない」

竜は巨体の輝きを強めながら答えた。


「じゃあ、友人たちも遠慮はいらないってことですね」

良は滑らかな竜の背に登り、硬く突き出した背びれの一つに手をかけた。

「さあ、みんな」

「ほれ、親友が呼んでいるぜ」

べそをかきはじめた新一の太い体を圭太がせっついた。最後に蒼が座った時、白い巨体は首を上げ翼を大きく広げた。


「安西君、わしらは暫くここに残る。今回の件で、邪悪な鬼の霊体には、わしらが敵として刻みつけられたはず。今後、奴らと戦う時のためにも、乱堂が企てていた陰謀の全体像を調べておかないといかん。それに彼の体の埋葬もしてやらんとな」

長老が言った。

その隣で、蒼の父が腫れの引いた頬を撫でながら、もう一方の手の親指を上に突き出した。

「犬神さん、あれって俺へのいやみかな?」

「違うわ。頼んだぞって言っているのよ」

圭太と蒼の声を聞きながら、良は長老に頭を下げ、目の前の滑らかな首を撫でた。

「では、竜よ、お願いします」

「承知!」

翼が打ち下ろされた。


「良ちゃん、どこにいくの!?」

巻き起こった風に、新一の震える叫びが混じった。

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