第18話

 職場にて。

 サエコは片手でパソコンを操作しながら、もう片方の手でプロジェクトメンバーに電話をかけていた。


 資料が届いていないのだ。

 今朝に送ってもらえる予定のやつが。


 昨日、対面で話した時は『大丈夫っすよ』みたいな口ぶりだったので、心配したくないが、ど〜も嫌な予感がぬぐえない。


「こちら帝斗システムの大島です。M銀行を担当いただいているxxxさんはご在席でしょうか?」


 ちょっと待ってください、と若い男性社員の声が言う。

 20秒くらい待っていると、バタバタと戻ってきた。


「お待たせしました。弊社のxxxなのですが、実は今朝、出社している最中に事故を起こしてしまい……」


 なななななっ⁉︎

 嫌な予感が的中してしまったショックで携帯を落としかける。


「それって人命に関わる方の事故ですか⁉︎」

「え〜と……申し上げにくいのですが……」


 自転車で出社していた。

 するとれたマンホールのふたでスリップしてしまい、電柱に激しくぶつかり、そのまま病院へ運ばれたそうだ。


 詳しい結果は検査を待たねばならない。

 本人いわく、脚の骨が折れたかもしれない、とのこと。


「今日明日の出社は難しいかと。帝斗システムの大島さんですよね? 必要でしたら本人から連絡させますが……」


 いやいやいや⁉︎

 骨折じゃねぇ〜よ⁉︎


 そう口走りたくなったが、この社員に文句を言っても仕方ないので、ぐっと我慢しておく。


「大丈夫です! うちのプロジェクトマネージャーに相談してみます! ご確認ありがとうございます!」


 くそっ……。

 内心で毒づきながら電話を切った。

 この半月くらい、仕事でロクなことがない。


「どうした、大島?」


 髪の毛をかきむしっていると、ナオヤに肩を叩かれてビクッとした。


「え〜とですね……また悪いニュースが」

「そうか。起こったことを教えてくれ」


 資料のデータが届いていない。

 担当者が病院へ運ばれた。

 この2点を伝えた。


「それはマズいな」


 優秀なナオヤの口からマズいという言葉が出るってことは、相当にマズいってことだ。

 悪いことをしたわけじゃないのに、サエコの鼻がしゅんと鳴る。


 3秒くらい沈黙した後……。


「やれることをやろう。今日中に締め切りなのは、例の資料一点だ。俺の方で完成させる。昨日会話したら、9割はできているみたいだった。中間成果物さえ手に入ったら、何とかなる」


 ナオヤは顔色一つ変えずにサクッと断言する。


 やっぱり強いな、この人は。

 リーダーが落ち着いているとサエコも安心できる。


「どうした、大島、他にも心配事か?」

「いや、プロジェクトが始まって1ヶ月ですよ。なのに、災難ばかりです。この先大丈夫なのか心配になります」

「メンバーが多いからな。その分、不確定要素も多い。トラブルが起こる前提で動かないとな」


 待望のM銀行の案件ということで、周りから期待されてスタートした。

 ところが蓋を開けてみれば、毎週何かしらのトラブルが発生している。


 この前は重要メンバーの一人が牡蠣かきにあたって一週間ダウンするというイレギュラーが起こったばかり。


 信じられない。

 このクソ重要な時期に生牡蠣を口にするなんて。

 そもそも大島家では、牡蠣は生で食うな、と指導されているくらいなのに。


 そんな穴をナオヤとサエコが必死でカバーした。

 すると今度は自転車の事故である。


 アホ〜!

 罵倒ばとうしてから横っ面を叩いてやりたい。


「これをやるから。ファイトだ、大島」

「ありがとうございます」


 ナオヤから微糖の缶コーヒーを受け取る。

 一口飲むとほんのり甘くて淡いため息がこぼれる。


 あ〜あ。

 マリンに会いたいな〜。

『サエコさん、大変でしたね』とねぎらいの言葉をかけてほしい。


 イツキは相変わらず居候いそうろうしていて、もう1ヶ月になるけれども、あの悪友はいやしとはちょっと違う。


 そういえば……。

 この前……。


 一回だけイツキがマリンの真似をしてくれたな。

 焼肉をたらふく食べた日で、サエコはベロベロに酔っていた。

 すると眼鏡を取り上げられて『サエコさん、サエコさん』とイツキが連呼してきたのだ。


 何だったのだろう。

 ちょっと楽しかったが、あれ以来、イツキがマリンの真似をしてくることはない。

 サエコからお願いするのも少し違う気がする。


「大島、ちょっといいか」

「はいっ⁉︎ 何でしょうか、モモ先輩⁉︎」


 仕事の手が完全にストップしていたせいで、サエコの頬っぺたが熱くなる。


「すまないが、俺の仕事を一部引き受けてくれないか」


 事務処理だった。

 これなら誰がやっても変わらないので二つ返事でOKしておく。


「ありがとう、大島。お前をプロジェクトメンバーに推薦して正解だった」


 サエコは一つ深呼吸してから、目の前の仕事に没頭した。


        ◆        ◆


「あれ? 大島さん、恋人からメッセージですか?」


 派遣スタッフのヒヨリが冷やかしてきた時、外はすっかり茜色に染まっていた。


「いや……これは……」


 送り主を確認するとマリンだった。

 前回のメッセージを既読スルーしていると気づき、心の底がチクリと痛む。


「ごめん、ちょっとお手洗い」

「は〜い」


 本当はいけないと知りつつ、トイレの中で携帯をチェックしてしまう。


『すみません、サエコさんがお忙しいと思い、私の方でデートプランを立ててみました』


 ダメだな。

 以前は二人で相談していたのに。

 最近はデートコースをマリンに丸投げしている。


 これじゃ、彼女の質問に対して、

『俺は何でもいいから』

『お前が自由に決めなよ』

 と返すダメ彼氏と変わらない。


『サエコさん、今週もお疲れですよね。でしたら近場で薬膳やくぜん鍋を食べませんか。おいしいラム肉を提供してくれるお店があって、きっと精がつくはずです。鍋ならお野菜もたくさん食べられます』


 マリンの優しさに触れて、不覚にも涙が出そうになる。


『それと最近はお仕事でアンラッキーが続いているといってましたよね。でしたら有名な神社でおはらいしてもらいませんか? 私の友達が利用したことあって……その子の場合、男運の悪さを解消するのが目的でしたが……とにかく、何か手を打った方がいい気がします!』


 ありがと〜!

 マリンちゃん!

 そんな気持ちを素直に言葉にしておいた。


『ごめんね、次の日曜もけっこう愚痴ぐちるかも……実はね、今日も信じられないような事件があって……』


『かまいません。サエコさんのお話はおもしろいので』


 にぱぁ〜。

 密室なのを良いことにサエコがデレデレしていると、打ち合わせのため社外に出ているナオヤから電話がかかってきた。


 あわわわわっ〜!

 大急ぎでトイレから飛び出す。


「はいっ! 大島です!」

「ん? 大丈夫か? コーヒー休憩中だったか?」

「いえ、何でもありませんから!」


 サエコは自分の頭をゴンゴン殴っておいた。

 電車のアナウンスが聞こえるから、ナオヤは駅のホームから話しているらしい。


「今日の打ち合わせ、どうでしたか?」

「ああ、例の資料か。お客さんからはOKをもらったよ。とりあえず、無事に乗り切った感じだ。大島のお陰だな」

「それは良かったです」


 サエコが席に戻ってくると、メモ書きが置かれていた。

 ヒヨリの可愛い筆跡で『xxxさんからお電話です。折り返しください、とのことです』と書かれている。


「大島の今月の残業時間、どのくらいだ?」

「え〜とですね……」


 おおよその数字を答えておく。


「そうか。実はプロジェクトメンバーの誰かに、データセンターまで足を運んでもらう必要がある。大島は何回か行ったことあるよな」

「はい、群馬県ですよね」


 ここからだと片道2時間半くらい。

 データセンターというのは、研究所みたいな施設にサーバがずら〜っと並んでいる、本当にそれだけの場所である。


「本来なら俺が行くべきなのだが、どうも予定が合わなくてな。そこで大島が代わりに行ってくれないか。現地での作業は簡単だし、俺が電話で指示するから」

「はぁ……かまいませんが……」


 作業日はいつだろうか。

 予定をメモすべく手帳を開いたサエコは、


「ありがとう。だったら、日曜日の午後2時くらいに現地入りしてくれ」


 というセリフを耳にした瞬間、オフィス内に頓狂とんきょうな声を響かせてしまった。

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