第5話

 マリンとの顔合わせから数日後。

 その日はどういう訳か朝から絶好調だった。


 同僚の計算ミスにすぐ気づいた。

 お金に関わる大切な資料で、サエコが指摘しないと事故になるところだった。


『部長、その日は予定がバッティングしていませんか?』とフォローする一幕もあった。

 本人は完全に失念していたみたいで、いけね、と少年みたいに苦笑していた。


 恩を売りたいとか、そういう下心がある訳じゃない。

 でも『ありがとう』と言われるのは何歳になっても嬉しい。


「大島さん、ちょっと雰囲気が変わりましたか?」


 派遣スタッフのヒヨリから声をかけられて、心臓がドキッと跳ねる。


 そんなに露骨に変化しただろうか。

 確かに美容院へ通ったが、服装も眼鏡も以前のままだ。

 お風呂上がりに保湿クリームを塗るようになったとはいえ、数日で効果が出るとは思えない。


「そう見えちゃう?」

「最近、顔色がいいので」

「ああ……」


 それなら納得。

 マリンと出会ってから夜の寝付きが良くなって、苦手な朝だってスッキリ目覚められている。


「熟睡の秘密でもあるのですか?」

「どうかな。最近、過ごしやすい天気が続いているでしょう。そのせいじゃないかな」

「な〜んだ」


 ヒヨリが目に見えてガッカリするから、サエコはパソコンを操作する手を休める。


 聞けばヒヨリは不眠が続いているらしい。

 ずっと仲の良かった友達と疎遠気味なんだとか。


「向こうに彼氏ができた途端、メッセージの返信が遅くなったのですよ! 絶対に気づいているくせに、中々返してこないんです! 軽んじられているみたいで私はショックです!」


 自分のことじゃないのに、みぞおちの辺りが痛んで、そっと手で押さえてしまう。


 そうよね。

 20歳を過ぎちゃうとね。

 10代の頃のような友情をキープするのは難しいかも。


「大島さんって凄いですよね。振られた仕事は断らないし、この会社の誰よりも働いていますし」

「誰よりも、は言い過ぎかな」


 口では否定してみたが、使い勝手のいい社員、という自覚はあった。

 学生時代の良い子ちゃん気質が抜けていない。


「私も大島さんくらい仕事できたらな……友達のことでウジウジ悩んだりしないんだろうな……自尊心が低すぎて泣けちゃいます……」


 お昼休みを知らせるチャイムが鳴る。

 小銭入れを片手にコンビニへ行こうとするヒヨリを呼び止めたのは、きっと同情したせいもあっただろう。


「ねえ、北原さん、良かったら私とお昼ご飯を食べに行かない?」

「えっ……」


 ヒヨリは狐につままれたような顔をした。

 そりゃ、毎日デスクで栄養補助スナックを食べているような女が『一緒に外でランチでもどうかしら?』と誘ったら、誰だって耳を疑うだろう。


「え〜と……」


 ヒヨリは不安そうに財布を見つめる。


 そっか、給料日の直前か。

 ヒヨリが金欠とこぼしていたのを知っているサエコは、


「ランチ代は私が持つから」


 嫌味らしくならないよう笑いかける。


「いいのですか⁉︎」

「新しい洋食屋が先月オープンしたでしょう。前から気になっていて。ほら、ああいうお店って女一人じゃ利用しにくいし」

「行きます! 行きます! 実は私も気になっていたのです!」

「なら決まりね」


 エレベーターを待つ間、他愛のない話をする。


 ヒヨリもパパ活女子の一員。

 ランチに誘うのに一万円くらいするはず。

 それが千円のおごりでノコノコ着いてくるなんて、滑稽こっけいというより、奇妙という気がした。


「最近、仕事の調子はどう?」

「作業量が減ったのはいいですが、ヒマができたらできたで一日が長いです」

「それじゃ、私の仕事を手伝ってもらおうかしら」

「え〜、お手柔らかに頼みますよ」


 一階に着いたサエコは、ちょっと待って、とヒヨリを呼び止める。


「髪に糸くずのようなものが」

「えっ……」


 指先で取り除いてあげる。

 すると上目遣いを向けられて、日曜に会ったマリンの顔がフラッシュバックするみたいに脳裏のうりをかすめた。


 おかしい。

 ヒヨリとマリンは似ても似つかないのに。

 これじゃまるで人肌のぬくもりに飢えた女みたいだ。


「ありがとうございます!」

「ううん、行きましょうか」


 ガラスに映るサエコの顔は、恋する女のそれだった。


        ◆        ◆


 ノスタルジックな雰囲気の洋食屋で、サエコたちはランチ限定のオムライスを注文した。


 お客さんの七割くらいが女性客だ。

 知っている顔がないことを念入りにチェックしてから、サエコはおしぼりの封を切った。


「ものすご〜く腹が立つパパがいて」

「もしかしてセクハラされた?」

「そうです!」


 ヒヨリがグラスの水をおいしそうに飲み干す。


「ボディタッチがやけに密なんですよね。こっちは明らかに嫌がっているのに。本当は嬉しいんでしょ〜、とか言って触ってくるのですよ。ああいうパパは、軽い女に慣れていて、頭のネジが緩んじゃっているのです」


 こちらが頼まなくてもヒヨリはパパ活の話をガンガン聞かせてくれた。


 よっぽどストレスが溜まっているらしい。

 そしてサエコが思っていた以上に、ヒヨリはサエコのことを信頼している。


「あ、すみません、私が一方的にしゃべって」

「いいから、続けて」


 驚いたことにヒヨリはパパを5人もキープしていた。

 その内、2人のセクハラが嫌すぎて、縁を切りたいのだとか。


「ボディタッチは控えてください、てはっきり伝えるの?」

「遠回しにですかね〜。お金を出してもらっている立場ですからね〜。正直いうと会う回数を減らしたいです。一回体を許しちゃうと、ズルズルいって、向こうがストーカー化しそうじゃないですか。そうなったら責任の半分は私にもあるっていうか」


 へぇ〜。

 責任の半分、か。

 子供っぽいヒヨリの口からそんな言葉が聞けるとは意外だ。


「パパ活する子って、パパを何人もキープするのね」

「人によりますかね。私の場合、リスクヘッジってやつです」


 ヒヨリの口から投資用語が出てくるなんて、パパの中に金融関係者がいますよ、と告白するみたいで面白い。


「太っ腹のパパに限って、仕事が忙しいとかで、月に1回しか会えないのですよ」

「やっぱり月に2、3回は会いたいのかな」

「私は会いたいです。じゃないと、いきなり関係解消されそうで怖いです。こんな私でもプライドはあるじゃないですか」


 ふ〜ん。

 パパ活女子の間でも優良パパの取り合いがあるらしい。


 マリンはどうなのかな。

 サエコの他にも3人くらいパパがいるのかな。


 他の男といるシーンを想像して、その男が『マリンちゃん』て呼びかけるのかと思うと、サエコの心臓は針で刺されたみたいに痛くなる。


「私が思う良いパパの条件はですね、こちらの気持ちを引き出すのが上手なパパですかね」

「気持ちを引き出す?」


 サエコはグラスに伸ばしかけた手を止める。


「立場は私の方が下ですから、四六時中ニコニコする訳ですよ。本当は嫌いな料理でも、おいしい! て大げさに喜んだり。行きたくない場所でも、無理やりテンションを高めたり。デキるパパはこっちのリクエストをさりげなく聞き出してきます。AとBならどっちがいい? みたいに選択肢を出されたら、私も本音で答えちゃいますから」

「なるほど、ね」


 一回のランチのおごりで、こちらが欲しい情報を次から次へと流してくれるから、またヒヨリにご馳走しないとな、と現金なことを考えてしまう。


 会話が途切れたタイミングでオムライスが運ばれてきた。

 ふわふわの卵にナイフを入れると、チーズみたいに黄味がこぼれて、ヒヨリを笑顔にさせる。


「本当に食べちゃっていいのですか⁉︎」

「もちろんよ。そのために北原さんを誘ったのだから」

「ありがとうございます! 大島さんの会社で働けて良かったです!」


 私も北原さんと働けて楽しいわ、とサエコは心の中で返しておいた。

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