第6話

 3日も続いた大雨の翌日。

 カラッと晴れた青空の下、サエコは腕時計をチェックして、近くにマリンの姿がないか探した。


 よかった。

 サエコの方が先に着いたらしい。

 予習のための時間が確保できたと安堵あんどして携帯に触れた、その時……。


 ポンポンと肩を叩かれる。

 振り返ろうとしたサエコの頬っぺたに、ぐにゅり、と指先がめり込んで、うはっ、と変な声が出てしまった。


 この小学生みたいな悪戯いたずら

 まさか、あのマリンが?


「サエコさん、お久しぶりです」


 愛犬みたいにニコニコした顔を近づけられて、サエコの視線は釘付けになってしまった。


 マリンだ。

 仕事でも経験したことのないパニックに陥る。

 そのくらい好きな人からの不意打ちはダメージが大きい。


「コンビニに居たのですよ。今日は暑いですから。本でも物色しようと考えていたら、改札から出てくるサエコさんの姿が見えたので、嬉しくなってダッシュしてきました」


 ちくしょ〜〜〜!!!

 死ぬほど可愛い〜〜〜!!!


 天使のふりして小悪魔な技を使ってくるマリンに一本取られて、地団駄じだんだを踏みそうになった。


 このあざとさ。

 この無邪気さ。

 サエコが生まれ変わっても勝てない自信がある。


「前回といい、随分と早いのね。まだ待ち合わせの時間まで20分あるでしょう」

「電車移動ですから。車両トラブルが発生しても遅れないよう、余裕をもって家を出てきました」


 種明かしされたサエコは、一歩引いてマリンのコーデをチェックしてみる。


 花柄のワンピースだ。

 髪をバレッタで留めており、毛先をカールさせているから、サエコのために気合いを入れてオシャレしたのが伝わってくる。


 褒めないと失礼だよね?

 でも、一体、何と言葉をかければいいのか……。

 あれこれ悩んだ末、サエコの口をついたセリフというのは、


「そのヘアスタイル、とっても似合っているわね」


 社交辞令と呆れられても仕方ない言葉だった。


 失敗した、と側頭部を押さえる。

 どうして好きな人の前だと気の利いた発言ができないのか。

 いくらサエコがファッションに無頓着むとんちゃくな女とはいえ、もっとマシな言い回しが何個でも思いつくだろうに。


 けれどもマリンは、うふふ、とほがらかに笑った。

 サエコの不器用さをバカにしたというより、本心から歓喜している風の笑い方だった。


「ありがとうございます。何パターンか手持ちのヘアスタイルがあるのですが、一番自信あるのが今回のやつです」


 とっておき。

 それを初デートに投入してきた。

 立て続けに種明かしされたせいで、サエコの頬がじわじわと熱くなる。


 いけない。

 私は金ヅルなのに。

 そう言い聞かせて崩壊しそうな理性を支える。


「サエコさんの髪飾りもステキですよ」

「うっ……」


 そうなのだ。

 サエコもオシャレしてきた。


 知り合いの結婚式に参列するため買ったフラワーモチーフのヘアピンがあって、しばらく眠っていたのを身につけてきた。


 無難そうなデザイン。

 どう転んでも『似合わないことはない』のは知っていた。


 それでも嬉しいのは相手がマリンだから?


「先週は仕事ができそうな女性って雰囲気だったのに、ヘアピン一本でここまでイメージが変わるなんて、サエコさんは反則ですね」


 ちくしょ〜〜〜!!!

 真に受けてしまう〜〜〜!!!


 向こうはアルバイト感覚でパパ活しているわけだから、絶対お世辞に決まっているのに、頬っぺたのニヤケが止まらない。


 ヤバい。

 これは沼だ。


 しかも手をつないで歩きたいと思っていたら、マリンの方から手を握ってきて、デキる女の仮面は微塵みじんに吹き飛ばされてしまった。


「手をつなぐの、ダメでしたか?」

「いや、ダメじゃないけれども……むしろ、いいの? 私だって手汗かくのよ」

「大丈夫です。私も手汗かきますから。おあいこですね」


 26歳のサラリーマンが21歳の大学生にリードされる。

 どちらの恋愛経験値が上なのか、一発で分かるシーンに自分でも笑いそうになった。


「あなたって他人のテリトリーにぐいぐい入っていける人間なのね」

「そんなことありませんよ。相手がサエコさんだからです。波長が合うっていうのですかね」


 この人たらし。

 心の中でクレームを入れたけれども、もちろんマリンには届かない。


「どんな一週間でしたか?」


 マリンが当然のように質問してくる。


「そうね。仕事、仕事、仕事かしら。雨が続いたせいで、洗濯物が溜まっていたから、今日まとめて洗ってきたわ」

「私もです。部屋干ししているのですが、たくさん雨の日が続くと困っちゃいますよね」


 マリンは薄い雲を見上げて、うっとりと目を細める。


「だから、今日は晴れてくれて嬉しかったです。天気予報で晴れなのは知っていましたが、実際に朝起きて、カーテンを開けないと信じられないじゃないですか」


 この人たらし。

 そう返す代わりに手を握る力を強める。


 マリンの肌は柔らかい。

 指だってモチモチして若さに満ちている。

 別の言葉で表現するなら、おいしそう。


「サエコさんってIT系のお仕事ですよね」

「そうよ。SIerエスアイアーといって、IT土方どかたとも言われる泥臭いお仕事よ」

「でも、システムエンジニアって格好いいです。頭いい人しかなれない印象です」

「それは世間の勝手な幻想。たしかに外資系で働くようなエンジニアは格好いいでしょうけれども」


 街頭ビジョンに民放のニュースが流れており、


『M銀行、今年で5回目のシステム障害』

『窓口業務が止まる異常事態に……』


 サエコは目をキュッと細めた。


 M銀行のシステムを請け負っているのは、サエコの会社のライバル企業だ。

 現場のエンジニアは、文字通り、眠れない夜を過ごしているだろう。


 明日は我が身かも。

 そう思うと他人のミスを笑えない。


 マリンに肩をちょんちょんされた。


「20分早いじゃないですか。ということは、お店の予約まで20分あるということですよね」

「ああ……そうね。言われてみれば……」


 普段のサエコなら絶対に失念しないことを忘れていた。

 どうやら恋は人のIQを下げるらしい。


「ちょっと寄っていきませんか」


 マリンが指さした施設を目にして、サエコの心拍数が上がる。

 だってそこにはゲームセンターがあり、若い人たちで賑わっていたのだ。


 UFOキャッチャーに並んでいるのは知らないキャラクターのフィギュア。

 時代が変わったのだ、もう自分は若くない、と痛感する。


「私ってもう26歳で、そろそろ27歳よ。恥ずかしくないかしら」

「そんなこと全然ないですよ」

「でも……」


 またリードされてしまう。


「行きましょうよ。ゲーセンを最後に利用したのは何年前ですか?」

「4年前か……5年前か……古い記憶だから覚えていないわ」

「だったら尚更なおさらですよ。入ってみましょう」


 迷いが抜けきらないサエコの反応を楽しむように、マリンはクスリと笑った。


「マリンちゃんって、今日はまだ呼んでもらっていません。その埋め合わせなのです」

「あなたって本当に愉快なのね、マリンちゃん」


 いたな。

 5年前にも。

 サエコの手を引っ張って『ねぇ、サエちん、ちょっと寄っていこうよ』と誘ってきた悪友に、マリンは少し似ている。

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