第4話
顔合わせの時間はあっという間に終わった。
20分早くスタートしたのだから、お尻も20分早めて良さそうなのに、マリンは枠いっぱいまで付き合ってくれた。
「はい、今回のお給料」
サエコが五千円の入った封筒を差し出す。
マリンは中身を確かめることなく、口元を三日月にして、封筒をカバンにしまってしまった。
えっ⁉︎
中身を確かめないの⁉︎
信頼されて嬉しいような、大学生の素直さを見せつけられたような、複雑な気持ちにさせられたサエコは、だらしなく口を開けてしまう。
サラリーマンは基本、相手をあまり信頼しない。
特に上司のいう『問題ないでしょ』と部下のいう『たぶん大丈夫です』ほどアテにならない言葉はない。
責任はすべてサエコに返ってくるのだ。
後でトラブルになっても『そんなこと言ったっけ?』と逃げの一手を打たれたら終わり。
もし封筒に入っているのが五千円じゃなくて三千円だったら……。
そういう心配をこの子はしないのだろうか。
清い……清すぎる……。
やっぱり大学生って成人しても子供なのね。
「今日はありがとうございました、サエコさん」
会計を済ませて店を出たところで、ぺこりと頭を下げられる。
「また連絡します。サエコさんもいつでも連絡してください」
「うん、またね、マリンちゃん」
とうとう名前で呼んでしまった。
心がポカポカで満たされて、今日からパパになったという実感が湧いてくる。
パパ。
悪くない響きだ。
26歳の女なのにパパ。
肩で風を切って歩くなんて慣用句があるけれども、今の自分がまさにそれだろう。
油断するとスキップしたくなる。
サエコが一度振り返ると、マリンはまだ店の前にいて、バイバイと手を振ってくれた。
『どういったデートをご希望されているか、具体的なリクエストを教えていただけませんか?』
あの質問の後、あれこれ迷った末、
『二人で海へ行きたい!』
と答えてしまった。
すぐに失敗に気づいた。
けれども出てしまった言葉は戻らない。
これじゃまるで『あなたの水着姿を見せろ』と要求しているようなものじゃないか。
違う!
新居浜マリンという名前が海っぽかったから!
そのせいで海という単語が出てしまった、恥ずかしいエピソードである。
もしかして嫌われた⁉︎
サエコが恐る恐る目を開けると、そこには赤面しまくりのマリンがいて、ペンを持つ手が小刻みに震えていた。
『そうですね。ご期待に添えるよう、ダイエットを頑張ってみます』
健気なセリフを吐くものだから、サエコも負けじと赤面してしまう。
『えっ⁉︎ いいの、海だよ⁉︎ 海水浴場だよ⁉︎』
『海開きまで時間がありますから。お腹周りを絞ってきます』
十分スタイルが良いのに。
ダイエットなんて不要だろうに。
サエコがそのことを指摘すると、
『だって、サエコさん、細身ですから! シェイプアップしないと恥ずかしくて横に並べません!』
冗談でもなくお世辞でもなく、本気で言っているのが伝わってきて、サエコの心臓は狂ったようにバクバクした。
『いやいやいや⁉︎ 私のは
『でも、手足とか細いじゃないですか〜。肌だって白いですし〜』
『まぁ……』
サエコの肌が白いのは太陽が出ている時間に仕事をしているせい。
デスクで昼食を済ませて一歩も外に出ないから。
美意識が高い女と思われちゃったが、社畜アピールするのもバカらしいので、笑って誤魔化しておいた。
いいな。
女同士で海か。
マリンちゃんがナンパされないよう私が守らないと……。
水着も新調するよね。
誘ったら一緒に選んでくれるかな。
『サエコさん、どっちの水着が似合うと思いますか?』みたいなシチュエーション、激しく希望なのだけれども……。
そんな感じで話が盛り上がった後、
『サエコさんはパパ活初体験ですよね。本当に私で良いのか、他の子とも顔合わせするのか、よく考えてから判断してください』
マリンは胸元のリボンに触れながら決断を迫ってきた。
忘れていた。
サエコは選ぶ側の立場なのだ。
近くのエリアだけでも何百というパパ活女子がいて、一人を指名しないといけない。
むしろ私なんかでいいのかな?
サエコが不安に陥っていると、マリンは手を重ねてきて、
『私はサエコさんがいいです。またお会いしたいです』
熱のこもった視線を向けてきた。
そうよね。
ここでサエコが指名しないと、マリンは新しいパパを探すわけであって……。
そんなの嫌だ!
子供じみた理由だけれども、一切の迷いが吹き飛んだ。
『あなたより良い子に巡り会えるとは思わないわ』
サエコがくしゃりと笑った瞬間、二人の間で契約が結ばれた。
◆ ◆
「ふぃ〜、楽しかったな〜」
玄関のドアを抜けたサエコは、ジャケットを椅子の背もたれにかけて、そのままベッドに寝転がった。
テレビのスイッチをオンにしてみたが、ニュースの音声はまったく頭に入ってこない。
こんなに楽しい経験、いつ以来だろうか。
緊張したせいで疲れたけれども、これは心地いい方の疲れである。
携帯を握りしめる。
この中にマリンの連絡先が入っている。
ピタッとおでこに押し付けるだけで、口の中にコーヒーの味がよみがえってきて、幸せな気分に浸ることができた。
メッセージ、送っちゃおうかな。
『今日は楽しかった、ありがとう』とか。
そのくらいなら不自然じゃないよね。
途中までメッセージを打ったけれども、送信ボタンを押す段になって
がっつくみたいで嫌だ。
5年も先輩なのにサエコが求めているみたいで、いや、実際に求めているのだけれども、まずはマリンの出方を見ていたい。
「求められてぇ……マリンちゃんから求められてぇ……久しぶりにお茶しませんか、とか誘われてぇ……体調お変わりないですか、とか心配されてぇ……」
気が狂いそうだと思ったサエコは、カバンからメモを取り出す。
マリンの筆跡で料金メニューやデート時のお願いが書かれている。
ヤバい。
会いたい。
こんなの絶対に中毒になる。
「最初のデート、どうしよっか」
やっぱり食事だよね。
好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、話題に困らなさそう。
映画館デートも悪くないけれども、上映中はお話しできないから、そっちは後回しでいいや。
ショッピングもしたいな。
『はい、これ、マリンちゃんにお土産』とかいって
あとは夜のお散歩。
夜景がきれいな公園で手をつないでみたり。
世の中にはビギナーズラックという言葉があるらしい。
ギャンブル好きの男性社員が口にするのを見かけるが、大島サエコにとってのビギナーズラックは新居浜マリンだと思った。
「そうだ!」
実家から送られてきた荷物の中に、どういうわけか新品のノートが入っていたのを思い出した。
派手な花柄の表紙で、とてもじゃないが職場に持っていける気になれず、本棚の隅っこで眠らせていたのだ。
日記にしよう。
名付けてパパ活日記。
マリンとどんな会話をしたとか、その日の出費はいくらとか、後から振り返れるよう記録しよう。
じゃないと怖い。
パパ活に100万円くらい突っ込みそうで。
生き残っている理性を総動員させたサエコは、何とかベッドから抜け出した。
お気に入りのペンを握り、マリンと知り合った経緯とか、顔合わせのやり取りを文字として残していく。
作業に集中したせいで、携帯の通知に気づくのが遅れた。
マリンからだ。
受信が10分前と分かり一安心する。
『コーヒーご馳走様でした。今日はサエコさんとお話しできて楽しかったです。緊張でドキドキしましたが、サエコさんが聞き上手なので、ついつい話しすぎちゃいました。軽く反省しています……。マリンちゃんと呼んでもらえたのは素直に嬉しかったです。次の日曜日、会えるのを心待ちにしています。(追伸:きれいな飛行機雲が見えたので写真を添付します)』
文と文の間に絵文字が入っていて、若いな〜、と画面に向かって話しかけてしまう。
写真が好きなのかな。
ちょっと意外かも。
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