第3話

 おえぇぇぇぇ……。

 可愛すぎて吐くかと思った……。


 ちょっとお手洗い! といって離席したサエコは、洗面台に手をついて、苦しそうにはぁはぁと吐息をこぼした。


 この姿を他人が見たら、酔っ払いのサラリーマンに見えるだろうが、サエコの心臓が破けそうになっているのは興奮によるせいだ。


 可愛い。

 いや、死ぬほど可愛い。

 あの天使ちゃん、私を昇天させる気か。


 鏡に映っているサエコの顔は病的なまでに赤面している。


 どうしよう。

 こんな姿、マリンの前にさらしたら、風邪じゃないかと心配されるだろう。

 実際、耳の付け根あたりが火傷やけどしたみたいに熱い。


 とにかく頭を冷まさないと。

 職場での苦々しい経験(飲み会でお尻を触られるとか、チョコ菓子を上司につまみ食いされるとか)を思い出してクールダウンしたサエコが戻ってくると、注文しておいた水出しコーヒーが2人分、双子みたいに並んでいた。


 マリンは待つ間、手帳にペンを走らせていた。

 落ち着きのあるカーキ色のカバーがついている。


 携帯をいじらないのは好感が持てる。

 サエコの会社の新人は、10秒でも隙があればSNSやWEBニュースをチェックしたがるが、あれは好きじゃない。

 自分が軽視されているみたいだから。


「あ、大島さん」


 サエコに気づいたマリンが笑顔をくれる。

 

 何を書いていたのだろうか。

 やっぱりサエコの情報だろうか。


『美人っておだてたら真に受けやがったぜ〜』

『アラサー独身女ってチョロすぎ〜』

 なんて書かれていたらショック死しそうだが、マリンに限ってそれはない気がする。


「その手帳カバー、ステキな色合いね」

「そう思いますか?」


 あろうことか、マリンは手帳を180度ひっくり返して、サエコが読みやすいようテーブルに置いた。


 似顔絵がある。

 その横に『S・Oさん、26歳、美人で仕事ができそう、芸能人でいうと〇〇似、左手の人差し指に指輪を付けている』といった情報が並んでいる。


 芸能人って⁉︎

 いい歳した大人のくせに、喉をひゅっと鳴らしてしまった。


「私って忘れっぽいので。失礼のないよう記録に残しているのです」

「うふふふふ……」


 いいな、似顔絵。

 女の子っぽい特技だし、きっと手先が器用なのだろう。

 文字だって丸っこくて愛らしいし、これだけでも性格の良さが伝わってくる。


「大島さん、ミルクとガムシロップは必要ですか?」


 いつもはブラックで飲むくせに、マリンの気配りが嬉しくて、


「1個ずついただこうかしら」


 と手を差し出してしまった。

 受け取るタイミングで肌が触れてしまい、サエコの心拍数がさらに上昇する。


 なんか、いい。

 同僚の女の子にドキドキした経験はないけれども、マリンの場合、この子と手をつなぎて〜! と内心で吠えてしまう。


 こんな経験、何年ぶりかな。

 きっと大学生以来だろう。


 あの頃は恋とか分からなくて、相手のペースに流されちゃったけれども、26歳になった今なら断言できる。


 私はこの子を独占したい。

 いつまでも近くで眺めていたい。


 この感情は間違いなく恋だ。


「そのネイル、きれいね。友達の間で流行っているのかしら」

「はい、午前中にネイルサロンへ行ってきました。塗りたてほやほやです」

「デザインは自分で決めるの? それともプロの店員さんにお任せしちゃうの?」

「ベースとなる色は自分で決めて、細かい柄は相談しながら決めますね。たくさんサンプルを見せてもらう瞬間が、宝石箱をのぞくみたいで楽しくて……」


 マリンは爪にタッチしながら説明しているが、サエコの視線はぷるっとした唇に釘付けだ。

 話だって半分理解しているか怪しい。


「あ、すみません! 私の話ばかりしちゃって!」

「ううん、とても楽しいわ」


 サエコはテーブルの下でこっそり指輪をこすった。


 ここまでは前振り。

 顔合わせの目的、フィーリングが合う合わないをこれから確認する。


「このカフェは良く利用するのかしら」


 先輩らしくサエコが先制パンチを放つと、マリンはにこっと笑ってから、グラスの氷をカラカラと鳴らした。


「ここ、私のお気に入りなのです。一人で来たり、友達と来たり。パパ活の待ち合わせで利用するのは、今回が初めてですね」


 サエコが女性だから特別扱いってことかな?

 よくよく見れば、照明や壁の絵がメルヘンチックなので、スーツを着たおじさんが来店すると、やや不格好に映るかもしれない。


 この近くに住んでいるのでは?

 伸びそうになる鼻の下を手で隠す。


「パパ活を利用されるのは初めてですか?」


 隠すことじゃないので、そうよ、と答えておく。


「私は不慣れだから、気配りの上手そうな子がいいと思ったの。あなたの写真を見つけて、すぐに指名したわ」


 変なことを言ったつもりはないのに、マリンの頬がぽっと赤らんだので、まともに直視できなくなってしまう。


「ありがとうございます。選ばれた理由を教えてもらえると嬉しいです。人間誰しも理由があって選ばれたいじゃないですか」


 さっきからサエコの心臓がドンドンとうるさい。


 この音がバレたらどうしよう……。

 生娘きむすめみたいなことを想像して、またトイレに立ちたくなる。


「あなたのパパ活歴ってどのくらいかしら」

「ほぼ1年です」


 これは嘘じゃなさそう。

 マリンはリラックスしている様子なのだ。

 そして受け答えが事務的という感じもしない。


「どのくらいの頻度で会うことを考えていますか?」

「そうね。週に1回、月に4回かしら。仕事がバタバタして土日に会えない時は、平日にご飯でも食べて、あなたの収入が安定するよう工夫するつもり」

「ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げられると、胸の奥がチクッとする。

 頭では理解しているが、サエコは金ヅルの立場だということを突きつけられた気がした。


「無理に答えなくてもいいけれども、あなたってお付き合いしている彼氏はいるの?」

「はい、います。同い年の大学生です」


 がっかりはしなかった。

 こんなに美人な子、世の男子が放っておかないだろうし、むしろサエコも割り切ってお金を出せるというやつだ。

 下手な嘘をつかれるより百倍くらいマシである。


「もしよろしければ、どういったデートをご希望されているか、具体的なリクエストを教えていただけませんか?」


 マリンはカーキ色の手帳を開いて、花柄のペンのお尻を一回プッシュした。


 ダメだ、この視線。

 そんなに直視されると脳みそがショートしたみたいに言葉がまとまらなくなる。


「そうね……あなたを連れて行くなら……」


 たくさんありすぎて困る。

 映画館、ショッピング、大学生じゃ手が届かないレストラン。


 日帰りのバスツアーも行きたいな。

 フルーツ狩りとか、カニのしゃぶしゃぶとか。


 温泉はどうだろう。

 一緒に入っちゃうわけだから、追加料金を払うのがマナーなのかな。


 好きなアーティストのライブは……さすがに重いか。


 時間を稼ぐためにコーヒーを吸い込む。

 ストローの先が水面に触れてズズズズッと恥ずかしい音を奏でたけれども、マリンは少しも笑わなかった。


「あなたと二人で出かけるなら」


 のぼせ気味のサエコが口にしたセリフというのは……。

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