第28話

 楽しい時間ほどすぐ終わる。

 あれは紛れもない真実だ。


 マリンと二人きりで開く鍋パーティーなんて、何年後かに振り返ってみたら、ほんの数秒くらいに思うのだろう。


「あれは私が8歳くらいの頃かな〜」


 中身が少なくなった缶チューハイをちゃぷちゃぷ揺らしながら、ほろ酔いのサエコは少女時代のことを語り始めた。


 草むらに小さなヘビがいた。

 可愛らしいと思って指を近づけた。


 すると娘を威嚇いかくしているヘビに気づいた父親の手が伸びてきて、頬っぺたを一発ぶったのである。

 知らない生き物に気安く触るんじゃない! と。


 若干ではあるが、毒を持っているヘビだった。

 本当に危ないヘビに噛まれたら命を落とすかもしれない、と父は伝えたかったのだ。


「普段は温厚な父だったから、悲しむよりも驚いちゃってね。でも、お父さんも私を叩きたくて叩いたわけじゃないんだな〜、てこの歳になったら理解できる。一命をとりとめても、後遺症が残る場合もあるし、娘の将来のことを考えて手を出したんだな、と。あれが正しい選択だと父なりに判断して……」


 マリンの反応がなかったので、サエコは飲みかけの缶チューハイを置く。


「マリンちゃん?」


 あどけなさの残る顔に緊張が走っている。

 瞳の焦点が定まっておらず、小刻みに震える腕で頭部をガードした。

 恐ろしい爬虫類はちゅうるいから身を守るみたいに。


「……ないで……」

「どうしたの、マリンちゃん? 寒いの?」

「お願い……ぶたないで……」


 呼吸が荒い。

 唇だって青ざめている。

 エアコンのリモコンを落としたサエコは、席を立ちマリンの隣に腰を下ろした。


「私はぶたないわよ。それに毒ヘビもいない。だから落ち着いて」

「お願い……ぶたないで……お願い……」

「…………」


 泣きそうなマリンにハンカチを握らせてから、背中をナデナデしつつ優しくハグした。


 下心があるわけじゃない。

 急に少女に戻っちゃったマリンを純粋に守りたかったのだ。


「ぶたないで……お父さん……」


 地震の前に波が引いていくように、サエコの頭から酔いがいっぺんに吹き飛んだ。


        ◆        ◆


 ベッドをソファ代わりにしたサエコたちは、クーラーがよく効いた部屋の中で、一枚の夏用布団をブランケットのように羽織っていた。


 あれから20分くらい泣いて、マリンはようやく落ち着きを取り戻した。

 いくら美しく着飾ったところで、中身は大学生なんだよね、と当たり前のことに気づかされる。


「泣いたら喉が渇いたでしょう。飲みなさい」

「……ありがとう……ございます」


 イツキが買い置きしてくれたミネラルウォーターが思わぬシーンで役に立つ。


「今何時ですか?」

「まだ10時前よ。電車があるから安心しなさい。何ならタクシーを呼んであげるから」


 それとも今夜は泊まっていく?

 サエコが第三の選択肢を出そうとしたら手を握られた。


「サエコさん、ごめんなさい、私……」

「どうしたのよ。マリンちゃんが謝る必要なんてないのに」

「私、そんな資格ないんです。サエコさんとお付き合いする資格なんて」

「え〜と……」


 悲しそうに甘えてくるマリンが可愛くて、不謹慎と分かっていても、これはマリンを自分のものにする絶好のチャンスなのでは? と余計なことを考えてしまう。


 結婚してぇ〜!

 この場で押し倒して、キスして、キスして、キスして、私が一生養ってあげるから! とプロポーズしたい。


「ごめん! ちょっとストップ!」


 サエコはトイレに駆け込んで、壁に思いっきり頭突きを食らわせておいた。

 本来の理性を取り戻したのち、ずり落ちた眼鏡を直してから手を洗っておく。


 マリンが困っている。

 それは分かっている。


 鏡に映る自分に向かって、あんたが支えになってあげるのよ! と鼓舞こぶしておいた。


「お待たせ、マリンちゃん。さっきの話の続きなのだけれども、もしかしてお父さんと仲が良くないの?」


 軽く質問したつもりだが、マリンの背中が電気ショックを受けたように跳ねる。

 次の瞬間には、外敵から身を守るアルマジロみたいに布団でガードを固めてしまった。


「父とは10年くらい会っていなくて……」

「ご両親が離婚されたってこと?」

「そうです」


 マリンは母親の実家で育てられたらしい。

 しばらく会っていない父は、やはりというべきか、DV男のようだ。


「お父さんに叩かれたことがあるの?」


 マリンがぶんぶんと首を振る。


「母親がいじめられていて、よく泣いていました」


 マリンも被害がなかったわけではない。


 大声で怒鳴られたり、夜のベランダに締め出されたり。

 ムシャクシャしている日の父は恐怖の対象でしかなかったらしい。


 マリンが受けた虐待の中で一番辛かったのは、大切にしていたアクセサリーを勝手に捨てられたこと。

 友達からもらったやつで、マリンが泣き止まないでいると、父は手近にあったコップを床に叩きつけて割ったという。


『遊んでばかりのお前が悪い』

『テストの点数が悪かったから』


 サエコは今までの人生で最大限の怒りを覚えたが、それが何のなぐさめにもならないことは痛いほど分かっている。

 それにマリンと父はすでに絶交しているのだ。


「でも、それ以上に辛かったのは……」


 続きの話を聞いたとき、怒りを通り越して、おぞましい悪寒が湧いてきた。


「私には姉がいて……」


 知っている。

 万華鏡をくれた、と以前に話してくれた。


 姉とは5歳離れているらしい。

 マリンが小学6年生で、マリンの姉が高校1年生だった日に、その事件は起こった。


 マリンが小学校から帰ってくると寝室の方から声がした。

 ドアが開いており、そこには一組の男女のシルエットがあった。


 マリンも思春期だ。

 自分が生まれたのはコウノトリの仕業ではなく、お父さんとお母さんがそういう行為をやった結果だと、知識としては知っていた。


 でも、お母さんはパートのはずでは?

 無垢むくすぎる疑問はすぐに氷解する。


「父が嫌がるお姉ちゃんを……無理やり、レ……お……手籠てごめにしていて……。お姉ちゃん、泣いていて、それが悲鳴に変わって、途中から何もしゃべらなくなって、死んだみたいに動かなくなって……」


 一方的になぶり続ける父のセリフははっきりと覚えている。


『お前が進学校に入れなかったから』

『お父さん、職場で恥をかいたじゃないか』

『これは親から子へのしかるべき懲罰ちょうばつだ』

『誰が食わしてやっていると思っている』


 小学生だったマリンは動けなかった。

 止めることも、逃げることも、助けを呼ぶこともしなかった。

 鉄臭い血の匂いが鼻をついて、姉がだんだん壊されるのを、ひたすら見守るしかできなかった。


「私、お姉ちゃんを見捨てたんです。あんなに好きだったのに裏切ったのです」

「でも、マリンちゃんが悪いわけじゃないでしょう」

「一緒です。私も悪い人間です。同罪です」


 暴走する父を止めるにはマリンの母はあまりに弱かった。

 10年以上も恐怖で支配されたせいだ。


 せめてマリンだけでも守らないと。

 そのために下した決断というのが……。


「離婚するにあたって、父は一つの条件を出してきて」


 マリンの親権は母方にゆずる。

 その代わり姉の親権は父方にゆずる。


「ッ……⁉︎」


 サエコが絶句したのはこれで何度目か。


 日本には兄弟不分離の原則がある。

 親が離婚したとしても、兄弟までバラバラにするなよ、という縛りだ。


 マリンのような姉妹の場合、まとめて母方で育つか、まとめて父方で育つのが一般的。


 姉妹をバラバラにする手段はそう多くない。

 たとえば、子供の年齢が15歳以上であるケース。


 このくらいの年頃になれば、自分の意思をはっきり主張できるとされており、母方にいくか、父方にいくか、子供に決めさせる例がないわけではない。


「あなたのお父さんが、バラバラになるよう、お姉さんに強要したってこと?」

「そうだと思います。その件について、母親に質問しようものなら発作を起こして気を失っちゃいます」


 もう10年以上会っていない。

 新居浜家において、マリンの父と姉の存在は、なかったことにされたのである。


「私たち、お姉ちゃんを見捨てたんです。自分たちが助かるために。生贄いけにえに選んだのです」

「そんなこと……」


 あるはずない。

 でも、マリンが欲しい言葉はそうじゃない。


 サエコにはずっと疑問だったことがある。


 なぜマリンがパパ活をやっているのか。

 何のためにお金を必要としているのか。


「それじゃ、マリンちゃんがパパ活を続けているのは……」

「街の探偵さんを使って、お姉ちゃんの消息を調べてもらっています。昔に住んでいた土地は遠いですし、とっくの昔に引っ越しているみたいで……」


 1回の調査に5万円から10万円が必要らしい。

 一定の成果はあり、5年前に父が肝臓の手術を受けた病院までは突き止めたそうだ。


「だんだん近づいてきたのですが……いざ会う日のことを想像すると怖くて……。ただ自分が救われたいだけじゃないか。むしろ、お姉ちゃんからずっと恨まれたままの方がいいんじゃないか、とか」

「そんなこと」


 あるはずない。

 サエコは悔しさのあまり唇を噛む。


 もっと軽薄な理由だと思っていた。

 遊ぶお金が欲しいとか、実はそこそこの借金があるとか。

 せめて海外留学したいとか、学生らしい理由であってほしかった。


 ひたすら胸が痛い。

 痛くて痛くて痛いのに、マリンはこの何十倍も痛い。


 30万円でも50万円でも出してあげるよ。

 そう言いそうになる自分がたまらなく嫌いだ。


 それじゃ、マリンの半生を否定してしまう。

 物分かりのいい自分がますます嫌いだ。


「ごめんなさい。うまい言葉が思いつかないの。でも、きっと、お姉さんもマリンちゃんに会いたいはずよ。だって唯一の姉妹なのだから。絶対に恨んだりしないから」

 

 サエコは涙で片頬をらしながら、会ったことのない神様に尋ねてみる。

 このパパ活が終わる日は近いのですか、と。

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