第15話

 サエコが洗面台のところで化粧していると、後ろからイツキが抱きついて肩にあごをのせた。


「今日も荷物が届いたりする?」

「届かないから。自由に出かけてちょうだい」

「ヤダヤダヤダ。行かないで、サエちん。僕とお仕事、どっちが大切なの〜」


 せっかく整えた髪をクシャクシャにされる。

 いつもは温厚なサエコだが、強めにデコピンしておいた。


「仕事が大切に決まっているじゃない。その質問が出てきた背景を教えてほしいわ」

「鬼〜! 悪魔〜! サイコパス!」


 うるさいイツキの口を封じてからナオヤに電話した。


「……はい、これから家を出ます。二度寝したら、だいぶ元気になりました。ご心配いただき、ありがとうございます」


 これで船は燃やした。

 あとは会社に向かって進むのみ。


「今夜は焼肉に行くから。イツキのリクエストなんだし、絶対に忘れないでよね」

「は〜い。お腹を空かせてサエちんの帰りを待ちます」


 玄関まで見送りに来たイツキに頭ナデナデしてあげると、少女のような笑みをくれた。


 か……可愛い。

 一瞬でも胸をときめかせた自分を殴りたくなる。

 イツキなんて貧乏神みたいな存在なのに。


「サエちん、愛してる」

「やめて、昔のアメリカ映画みたいなセリフは」


 今日は中から鍵を閉めてくれた。


 行きの電車はいつもより空いており、サエコは普通に座れた。

 ひざの上にカバンを置き、がっくりと項垂うなだれる。


 失敗した〜!

 パパ活日記、誰にも読ませたくなかったのに!


 わざと見せた、は真っ赤な嘘である。

 じゃないと、サエコのプライドが耐えられそうになかった。


 あれは黒歴史。

 小学生の頃に描いていた下手くそな漫画と一緒。


 よりによってイツキに見つかるなんて……。

 電車の窓から飛び降りてしまいたい。


「ダメだわ……今年で最大のミスね」


 自分の頭をコツコツ殴っていると、携帯にメッセージが届いたので、すぐにチェックした。

 どうせイツキかと思いきや、マリンだったので心が弾む。


『おはようございます(ギリギリ朝ですよね)。マリンです。昨夜はひどい雨でしたが、サエコさんの体調は大丈夫でしょうか。私はちょっと喉が痛いです。エアコンを除湿にして寝たら、裏目に出ちゃったみたいです』


 思わず笑ってしまう。

 返信の文章を考えていると追加でメッセージが送られてきた。


『ロールケーキ、手作りしてみました。練習中です。上手に作れるようになったら、サエコさんにも食べてもらいたいです』


 いいな、マリンの彼氏は。

 こんなに可愛い彼女がお菓子を作ってくれるのか。

 

 そもそもサエコやイツキにとって、お菓子とは食べるものであり、作るなんて発想がない。


『おはよう。実はちょっと体調が悪いかも。少し雨に濡れちゃって。マリンちゃんも災難だったね。ロールケーキ、おいしそう。画像を見たら元気になったよ』


 慣れないスタンプをペタペタと貼り付けておく。


 自分でやっておきながら違和感がある。

 まるでSNSに不慣れなおじさんみたい。


 まあ、いいか。

 実際、マリンのパパだし。


『嬉しいです! お仕事中なのにサエコさんがすぐ返信くれるなんて珍しいですね!』


 やっちまった。

 アハハと笑ったサエコのことを、隣の若い男性が変な目で見てくる。


『次の日曜日なのですが……』


 天気が悪そう、から始まって、あれこれデートの予定を話し合った。

 マリンから複数のお勧めスポットが送られてきて、順番に目を通していく。


『私の友達がこういうのに詳しくて。どれも満足できると思います』


 本当かな?

 マリンが彼氏と実際に出かけたのでは?


 まあ、いいや。

 週末の天気を気にしてくれたマリンの心遣いは素直に嬉しい。


『そうだね。どれも楽しそうだけれども、あえて一個選ぶなら……』


 電車のアナウンスを耳にして慌てて席を立つ。

 もう少しで乗り過ごすところだった。


        ◆        ◆


 マリンが連絡をくれた恩恵か、職場での調子は良かった。

 まるで朝の気だるさが嘘みたい。


 時間ぴったりにナオヤがやってきて、はい、大島は終わり、とノートパソコンの電源プラグを引っこ抜く。


「今夜は早めに寝ろよ。夜の10時には布団に入れ」

「分かっていますよ」


 入社5年目でこの言われようは恥ずかしい。

 ナオヤの姿が見えなくなると、すぐにヒヨリが顔を寄せてきて、


「大島さんが残業しないなんて、明日は雪ですかね」


 と冷やかしてきた。


「そこまで珍しいかな」

「派遣の私より先に帰るなんて、たぶん初めてですよ」


 言われてみれば確かに。

 今日はサエコの方から、お先に失礼します、と告げておいた。


「はい、お疲れ様です」


 ヒヨリはにっこり笑って嬉しそう。


 携帯をチェックする。

 未読メッセージが10件ある。

 いずれもイツキからで、『肉肉肉肉』といった具合に怪文書のような文言が送られてきていた。


『はいはい、今仕事が終わったから。落ち着きなさい、この食いしん坊』


 ポチッと送信。

 エレベーターのボタンを押そうとしたら、軽く肩を叩かれて振り返る。

 誰かと思いきやナオヤだ。


「すまん、少し話せるか?」


 何だろう。

 誘われるがまま無人の給湯室へ向かう。


 仕事の話……じゃない気がする。

 それならオフィス内で告げるだろう。


 他の可能性について考えた時、イツキが口にしていた、


『もしかしたら、百瀬さん、サエちんのこと好きかもよ』


 というセリフを思い出した。


 ないない。

 そう信じているが、確かめたわけじゃない。


 ワーカホリックだからワーカホリックを好きになる?

 その可能性は1%あるかも、なんて考えたら急に怖くなった。


『俺は仕事熱心な女が好きだ』


 どうしよう……。

 そう迫られたら断りにくい。


「大島に一つ、どうしても確認しておきたいことがあるのだが」

「え〜と……今日じゃないとダメですか?」

「ダメだ」


 ナオヤが真剣そのものの目つきを向けてくるから、サエコは大いに焦ってしまう。

 この流れ、もしかしなくてもデートのお誘い?


「昨夜、女が駅まで迎えにきていたよな?」

「ええ、そうです」

「本当に友達なのか?」


 ぎくり。

 もしかして元恋人だとバレた?


 だよね……。

 サエコが頼んでいないのに傘を持ってくるなんて、深い関係だと思われても仕方ない。


 どうしてナオヤがイツキを気にする?

 もしかして、レズビアン疑惑を持たれたか?


「あのですね、あの子は大学の同期で、今生活に困っているというか……」


 仕事を失くして住む場所がなかった。

 サエコがそう続けようとしたら、ナオヤに主導権を持っていかれてしまう。


「あの女、堅気かたぎの人間じゃないのでは?」

「はい?」

「悪い人間じゃないのか? 女ヤクザみたいな。大島の知人を疑いたくないが、まともな人間のオーラが出ていなかった。職に就かずぶらぶらして、大島にお金を無心しにきたのではないか」

「まぁ……近からずも遠からずですが……そこまで悪い人じゃないですよ」


 言葉にしてから、イツキを悪人にカテゴライズしたことを反省した。


「本当か?」

「ええ、もちろん」

「そうか。大島がそういうなら本当だろうな。だが、お金をせびられて困っているなら俺に相談してくれ。向こうのバックに男がいるなら、俺が話をつけにいってやる」


 要するに、悩みは一人で抱えるな、と言いたいらしい。


 余計な心配を招いてしまった。

 これもサエコの体調不良に原因がある。


「ありがとうございます。ですが、大丈夫です」

「分かった。時間を取らせてすまない。お疲れ様」

「はい、お疲れ様です」


 イツキが女ヤクザか。

 サエコはエレベーターの中で小さく笑った。

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