第14話

 けっきょく仕事は午前半休を取ることにした。


 ナオヤに電話したら、無理せず一日休めと言われたけれども、定時に帰ることを条件に午後は出社する許可をもらった。


 わざわざ頭を下げて仕事する。

 大した社畜メンタルだな、と我ながら呆れてしまう。


 サエコが一日働こうが休もうが、プロジェクトの大勢たいせいには影響ない。


 そんなの知っている。

 いわばサラリーマンとしての意地。

 休んだら負けだと思っている。


「熱はないんだな。部長が大島のことを心配していた。俺の方から上手い具合に説明しておく」

「すみません、お手数をおかけします」

「気にするな。先輩を頼るのは後輩の特権だろう」


 優しい。

 だからこそ辛くなる。

 もしナオヤが嫌味ったらしい上司なら、迷うことなく休めたのに。


 はぁ……。

 良い子ちゃん気質って、26歳になっても抜けないのね。


 携帯を投げ捨てたサエコがベッドに寝転がると、すかさずイツキが寄ってきた。


「弱っているサエちん、可愛い。仕事中毒のサエちんも会社を休む日があるんだね」

「言っとくけれど、入社して初めてだから」

「それも僕のせい?」

「まさか……」


 イツキは犬みたいにお座りしている。

 サエコと目が合うと、ハッと何かを思い出して、冷えたスポーツドリンクを額に押し付けてきた。


「24時間営業のドラッグストアで買ってきた。コンビニや自販機より安いと思って」

「へぇ〜。イツキでも値段とか気にするんだ」

「するよ。一文無しだし」


 開封したら、プシュ、の炭酸の抜ける音がして、サエコは顔をしかめる。


 まさかのスパークリング。

 嫌がらせ? ……な訳ないか。


「ごめん、わざとじゃないんだ。一番安いやつを買ってきたんだ。特売で50円くらいだった」

「イツキって、よく裏目に出るよね」


 炭酸が喉につっかえて、飲むのに苦労する。

 けれどもイツキの好意はムダにしたくないから、なんとか半分は胃袋に入れた。


「ノーマルのスポーツドリンク、買ってこようか?」

「いいわよ。それよりも……」


 もっと私の近くに寄りなさいよ。

 そう言いかけて口をつぐんだ。


 ダメダメ。

 それじゃ、サエコが甘えん坊みたい。

 いや、優しくされたいのは事実なのだけれども、自分からアピールするのは負けという気がする。


 一体どれほどの時間が無言のまま流れただろう。


 ちょこん。

 イツキが犬みたいに前脚……じゃなくて右手をベッドにのせてくる。

 そして甘えるような視線を向けてくる。


「どうしたの? 私と一緒に寝たいの?」

「うん。サエちん、一回も一緒に寝てくれない。弱っている今がチャンスだと思う」

「そういうこと、本人に向かって言うかしら。もっと別のセリフがあるでしょう」

「でも、無理やり襲うよりは同意の上がいい」


 気づいた時にはイツキの端正な顔がそこにあった。


「ここで僕の機嫌を損ねちゃうと、午後は会社に行けなくなっちゃうよ」

「物騒なことは言わないで。それで? 何がイツキの望みなの?」

「そうだな。たまにはサエちんの仕事の話が聞きたい」


 柔らかな胸がサエコの肩に触れてくる。

 マリンも大きかったけれども、イツキとどっちが巨乳かしら、と不埒ふらちなことを一瞬考えてしまった。


「仕事って言われても漠然としているな〜」

「最近、忙しいの? 毎月どのくらい残業するの?」

「そうね……」


 サエコは当たりさわりのない話をした。

 イツキは部外者だから、M銀行のプロジェクトで忙しい、と話せないのがもどかしい。


「どうしてそんなに忙しいの? 上司のせい? 会社のせい?」

「普通なのよ。新しいプロジェクトが始まると問答無用で忙しくなるの」

「ふ〜ん。サエちんって周りから期待されているんだね。僕なんかとは大違いだ」


 イツキに耳元でささやかれると、だんだん気持ち良くなってくる。


 声のせいだ。

 サエコが好きなミュージシャンに似ている。


「午後の仕事、休みたくなった?」

「少しはね。私がお願いしたら、今日はずっと優しくしてくれる?」

「どうかな。僕がサエちんの体に意地悪するだけの気がする」

「あなたって人は……」


 しまった。

 あなたと呼んでしまった。

 夫婦みたい、まあいいか、昨夜の傘は素直に嬉しかった。


 興奮のあまり、しゅん、と鼻が鳴ったけれども、イツキは何も指摘してこない。


 久しぶりにキスしたいな。

 そう願ったら、偶然だろうが、イツキの唇が頬っぺたに触れてくる。


「ごめん、キスしちゃった。でも、隙だらけのサエちんが悪い」

「なにそれ。責任転嫁のつもりかしら」

「僕が言いたいのはね、このシチュエーションをたとえるなら、七面鳥を抱きしめるライオン、あるいはカツオの燻製くんせい肉を前にした猫なんだ」

「そういう回りくどい表現、イツキらしくない」

「つまり、サエちんを脱がしたい」


 食べられる⁉︎

 鋭い目つきに射抜かれた瞬間、サエコの体を貫いたのは、恐怖というより愉悦ゆえつに近かった。


 サラリーマンが仕事をサボっている。

 昔の恋人とベッドの上でイチャついている。

 この上なく背徳的で浅ましい。


「やめて」


 サエコは生き残っているプライドをかき集めて、イツキに背中を向ける。


「そんなの、午前中にする話じゃないわ」

「午後ならいいの? 今日は残業しないんだよね。サエちんのこと、好き放題しちゃうよ」

「だ〜め。翌日の仕事に障るでしょう」

「ちぇ〜。じゃあ、金曜か土曜は? サエちんの体、予約してもいい」

「ダメダメ。流されないわよ。安い焼肉でよければ連れていってあげるから、それで我慢してちょうだい」

「やった!」


 お肉で諦めるのか。

 こういう部分、大学生の頃から変わっていないな。


「サエちん、大好き」

「はぅ……」


 薄いTシャツ越しにイツキの胸がぐいぐい触れてくる。


 マリンだ。

 マリンの胸だと思え。

 そう考えると一万円くらい得した気分になれるではないか。


「あれあれ〜。サエちん、もしかして僕の胸で喜んでいるの?」

「あのね……」


 サエコはくるりと向き直り、悪友の鼻先をつまんだ。

 軽くやったつもりだが、痛いっ! と叫んでイツキは涙目になっている。


「ごめん、痛かった⁉︎ そんなつもりはなかったのに」

「イタタタタ……お鼻がとれるかと思った」

「いい焼肉に格上げするから。許して」

「やった。サエちんになら10発くらいお腹をグーパンされてもいいや」

「やめなさい。気持ち悪いから」


 サエコが嫌そうな顔をすると、なぜかイツキは笑う。


「ねぇ、イツキ。本当に恋人と復縁しなくていいの?」

「サエちんなら理解しているでしょう。僕がそれほど甲斐性かいしょうのある女に見えるかい? 欠点は欠点で、もう直らないんだ。そして彼女は絶対に欠点を受け入れてくれない」

「だったら、そもそも何で付き合ったのよ」

「分からない。血迷ったのかな」

「そう……なら無理ね……」

「サエちんは物分かりがいいよね。そういうところ、大好き」


 イツキの体は温かい。

 女にしては筋肉が多いからだと思う。


 冬場は湯たんぽ代わりにして寝たな。

 懐かしい、大学最後の1年間が。


 もしあの頃に戻れるのなら、イツキが真人間として生きられるよう、もう少し上手にフォローできるだろう。

 ただ、21歳のサエコには難しかった。

 あの頃は本当に不器用だった。


「昨日一緒にいた男の人って、会社の同期?」

「どうしたのよ、急に」

「仲良さそうだったから」


 イツキの目って節穴ね、と声に出さないように笑う。


「あの人、私の5歳上よ。同期はないでしょう。うちのエース社員の百瀬さんといって、現場の指揮を任されている優秀な人なの」

「そうなんだ。あの人、左手に指輪はめてなかったよね」


 目ざとい。

 数秒でそこまでチェックしたのか。


「もしかしたら、百瀬さん、サエちんのこと好きかもよ」

「ないない。絶対ない。それはありえない」

「でも、僕がいなかったら、サエちんを家まで送っていきそうな勢いだった」

「それは……」


 否定できない。

 でも、それはナオヤが部下想いだから。

 サエコの体調不良に責任を感じていたから。


「もしかして、横槍入れちゃった?」

「どうしたのよ。嫉妬しているの?」

「まあね。少しはね。でも、それ以上に……」


 イツキの吐息がサエコの耳を直撃してきて、背中のあたりに震えが走る。


「サエちんって意地悪だよね」

「はぁ?」

「日記だよ。わざと僕に見つかる場所に置いたでしょう。しかも、パパ活の日記。絶対に中身を見ちゃうじゃん。あんなの読まされたら嫉妬するに決まっているでしょう」


 イツキの指先が強すぎるくらいに食い込んできた。


「ちょっと……痛いって……」

「僕の心も同じくらい痛いんだ」

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