第23話

 疫病神だと思っていた。

 イツキと一緒に住んじゃうと、ロクなことが起こらないと。


 むしろ逆だった。

 イツキが荷物をまとめて立ち去って以来、小さな不幸がサエコの身に降りかかるようになった。


 ワイヤレスイヤホンを失くしたのは痛かった。

 家ならまだしも屋外で落としたから発見は絶望的といえた。


 あと、スマホのWi-FiをOFFにしていた夜、大きなアップデートが走っていた。

 そのせいで10GB以上あったデータ通信量を一気にゼロまで食われてしまった。


 これじゃ、今月の仕事に支障をきたす。

 仕方なく800円払って、1GBを追加購入するハメになった。


 そして、爪が割れた。

 痛くはないけれども無性にイライラする。


 天罰なのだろうか。

 イツキが消えたことも含めて。


 バカだ、私は。

 こんなに胸が苦しいのに。

 イツキの顔を思い出して、ため息をついて、その繰り返し。


 マリンと会えないのも痛かった。

 しかも2週間連続で。


 別の日に埋め合わせするよ! とか調子の良いことを言っておきながら、候補日を提示できないまま、ズルズルとカレンダーの日付だけが進んでいく。


 仕事は嫌いじゃない。

 大変だけれども充実している。

 スキルだって順調に伸びている。


 だからこそ……。

 仕事に100%集中できない自分が嫌いになりそう。


「大島さん、もしかして失恋ですか?」


 ヒヨリに声をかけられて、


「そうなのよ〜、もう〜」


 ストレートに返してしまう。


「チョコ菓子あげますから。元気を出しましょうよ」

「ごめんね……ありがとう」

「どんな相手なのですか?」

「身勝手なクソ野郎」

「うわぁ……最低ですね」


 ヒヨリはお弁当を食べる手をストップさせて、渋面を向けてくる。


「どこまで仲が進展していたのですか? 何回かデートを重ねた関係ですか?」

「いや、1ヶ月くらい家に寝泊まりさせていた。急に音信不通になりやがった」

「あらま」


 予想の斜め上をいく返しに、ヒヨリの口から調子っ外れの口笛が飛び出す。


「大島さんって意外に積極的なのですね。だったら未練は断ち切って、クソ野郎のことは忘れましょうよ。次ですよ、次」

「いや、でも今回は私にも落ち度があったの」

「へぇ〜、どんな風にですか?」

「二股した。外で別の恋人と会っていた」

「えっ……ええっ⁉︎」


 こうして言葉にすると、サエコも中々のクソ野郎だと自覚させられて辛い。


「バレちゃったのですか? 現場を目撃されたとかですか?」

「う〜ん、携帯の中に入れておいた写真を見られた」

「あちゃ〜。それは油断が過ぎますよ」

「だよね……笑っちゃうよね」


 色々と勘違いしているヒヨリはドン引きしており、紙パックのミルクティーがズズズっと鳴っている。


「でも、2人を同じくらい好きだった、ということですよね」

「そうなのよ。それが辛いの。片方の子は知り合って9年目で、もう片方の子は知り合って2ヶ月くらい。でも、同じくらい好きなの。とても失礼な話よね。出会ってからの長さって関係ないのかな〜、とか思っちゃって絶賛メランコリー」

「あらららら……」


 この手の話が大好物のヒヨリは、相談に乗るフリをして、サエコから情報を引き出そうとしてくる。


「よりを戻したい、ということですよね」

「うん、友達でいいから会いたい。あいつがご飯を食べる顔を見るのが好きなの。あと、時々でいいから私の愚痴に付き合ってほしい」

「なるほど……なるほど」


 サエコは眼鏡を外してティッシュでぬぐった。

 視界がボヤけて号泣したみたいになっている。


 泣きたい。

 泣かないけれども。

 でも、心が晴れるのなら何時間だって泣きたい。


「一緒に捨ててきますよ」


 ヒヨリは妙につやっぽい目を向けてくると、サエコの手から丸まったティッシュを取り上げて、また席まで戻ってきた。


「恋愛って爆発なのですよ」

「んん? 爆発するのは芸術じゃなくて?」

「はい、恋愛は爆発です。大島さんも爆発しましょう」


 根拠のないヒヨリの後押しが、この日ばかりは嬉しかった。


        ◆        ◆


 深夜のネカフェへやってきた。

 よしっ! と自分に気合いを入れてから入口のドアを通り抜ける。


「いらっしゃいませ〜」


 カウンターの女性は視線をモニターに向けたまま、料金表をサエコの方に3センチくらい寄せてきた。


「どのタイプの席をご利用になりますか?」

「そうね、個室は空いているかしら」

「はい、空いて……」


 会員カードを受け取った女性スタッフが限界まで目を見開く。

 ワンテンポ遅れて、個室は空いています、と返ってきた。


 イツキだ。

 少しだけ前髪が伸びている。

 感情をあまり感じさせない二つの瞳が、まずはサエコのラフな服装を、それからサエコのトートバッグを気にした。


「どうして来たの?」

「ネカフェを利用したいからに決まっているじゃない」

「職場からここまで直行……て感じでもなさそうだよね」

「一回帰ってシャワーを浴びてきたわ」


 週の真ん中だからお客さんの姿はまばらである。

 受付カウンターの周辺にもイツキ以外のスタッフは見当たらない。


「ここのバイト、続けていたんだ?」

「うん、貴重な収入源だからね。それに夜間だと割りがいい」


 何が『さようなら。探さないでください』だ。

 調べてみれば最寄りのネカフェに在籍しているじゃないか。

 あ〜あ、心配して損した。


「ごめん、サエちん、細かい話は……」

「後でね、と言いたいのでしょう。分かっているわよ」


 サエコは壁のメニュー表に視線を走らせて一点を指さす。


「カルボナーラって、注文したら部屋まで運んでくれるの?」

「はい、当店のスタッフがお客様の部屋までお持ちします」

「当店のスタッフじゃない。あなたが運ぶのよ、やしろさん」

「えぇ……」


 苗字で呼ばれたイツキが露骨に嫌そうな表情を浮かべる。


「部屋から内線で注文するのでしょう。別のスタッフに要求しましょうか。社さんに運ばせて、と」

「いいよ。普通に注文してくれたら。鳴るのはこの電話。僕が取るから」


 丁寧な口調になったり、砕けた口調になったり、コロコロ変わるのがおもしろい。


「はい、これが個室の鍵ね。何かご不便があれば、いつでもスタッフにお声かけください」

「ありがとう、や・し・ろ・さ・ん」

「まいったな……」


 困り顔のイツキを尻目に、サエコは小さく笑った。


 さっそく店内を一周してみる。


 思ったよりきれいだ。

 ファミレスで見かけるドリンクバーがあり、ちゃんと清掃されている。


 サエコが持っている会員カードは、同じ系列のお店(会社の最寄りにあるやつ)で発行してもらったが、あっちは店内の空気がよどんでいた。

 客やスタッフの質もこっちが良さそう。


 ジャスミン茶のティーバッグを取り出して、紙コップに垂らし、上から熱湯を注いでおく。


 雑誌コーナーの前で足を止めた。

 少し迷ってから経済誌ではなくファッション誌を手に取る。

 途中、ブランケットの棚があったので、寝る時用に1枚もらっておいた。


 カードキーで個室のロックを解除する。

 シングルベッド一個分の空間にマットが敷かれており、突き当たりの壁にパソコンとラックが置かれていた。


「完全防音……てほどじゃなさそうね」


 サエコは小柄だから、この広さなら楽に寝られる。

 大柄な男性だと、やや窮屈かもしれない。


 とりあえず横になってみた。

 ビジネスホテルと比べても遜色そんしょくないくらいリラックスできる。


 楽しいな。

 自分の家じゃない場所で夜を明かすのは。


 そうだ。

 忘れないうちにカルボナーラを注文しないと。

 フロントに電話をかけると、ワンコールで応答してくれて、真面目くさった悪友の声が返ってきた。


「カルボナーラを一つちょうだい」

「かしこまりました。5分から10分ほどお時間をいただきます」

「ねぇ、麺の硬さって指定できる?」

「はぁ? 麺の硬さですか?」

「私、麺が柔らかいカルボナーラは許せないの。だから硬めで出して」


 イツキの返事を待たずに切ってやった。

 まったく……とボヤく姿を想像して、つい笑ってしまう。


「ネカフェって落ち着くな〜」


 いや、イツキの職場だから落ち着くのか。

 マットに寝転がったまま、近くにあった黒いクッションを抱きしめる。


 なんか悔しい。

 家にいるイツキはダメ人間なのに、職場ではデキる女みたい。

 お客さんとか、バイトの子とか、イツキに惚れないかちょっと心配。


 サエコが手を伸ばして、天井の照明にかざしていると、ドアをノックする音が聞こえた。


「お待たせしました。ご注文いただきました、カルボナーラの麺硬めです」

「ドア、開いているわよ」

「うわっ……人使いが荒いなぁ……」


 ゆっくりとドアが開いて、申し訳なさそうな顔のイツキが首から上をのぞかせる。


「いちおうね、知り合いの客が来ても他人のフリをするのがルールなんだ。ごめんよ、サエちん」

「そうなんだ。ますますイツキを困らせたくなったわ」

「意地悪だな〜」


 膝歩きで近づいたが、カルボナーラは受け取らない。

 代わりにイツキのユニフォームの胸元をつかんだ。


「あんたなんか、バイトで失敗したらいいのに。そうしたら私がなぐさめてあげるのに」

「ッ……⁉︎」


 油断しているイツキの唇を無理やり奪ってやった。

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