第22話
夕暮れ時。
「サエちんの方から飲みに誘ってくるなんて珍しいね。しかも学生ウケしそうな格安の居酒屋なんて」
サエコの目の前には、ビール、焼き鳥、メンチカツ、ポテトサラダ、冷やしトマトといった料理が並んでいた。
バイト終わりのイツキを捕まえて、晩飯の代わりに連れてきたのである。
お客さんの入りは2割くらい。
それもそのはず、開店と同時にのれんを
天井のスピーカーから10年前のヒットソングが流れてくる。
あまりに懐かしくて、サビの部分を口ずさんでしまった。
「このチェーン店、大学生の頃はよく通ったわよね」
「値段が変わらないのはびっくり。量を減らしたのかな。まあ、消費税分が値上がりしているけれども」
イツキは枝豆をおいしそうに食べている。
サエコも分けてもらったが、塩味の物足りなさは5年前から変わっていない。
「昔さ、ビールがぬるいぞ、てお店にクレーム入れたの覚えている?」
「そんなこと、あったかしら?」
サエコは中身が半分になった中ジョッキをくるくる回した。
「うん、店長呼んで来い、と僕が店員さんにいった。すると、本当に店長さんが謝りに来たよね。申し訳ないことをしたけれども、ビールがぬるかったのは本当なんだ。僕はビールがぬるいと怒っちゃう人間なんだ」
ファミレスのパスタでも似たようなことがあった。
サエコが頼んだカルボナーラを一口あげたら、
『おい、これ、麺が柔らかすぎるだろう!』
と店員さんにクレームを入れたのである。
調べてもらったら新人スタッフが調理時間を間違えていた。
そういう女なのである。
貧乏人のくせにお店の味にはうるさい。
「サエちんはビールがぬるくても我慢する人間だよね。そういう部分、尊敬するな」
「変なの。面倒くさいからクレームを入れないだけよ。冷たかろうがぬるかろうが、胃袋に入ったら一緒でしょう」
「確かに。どっちも翌朝には黄色いおしっこになるしね」
「こらこら、居酒屋でおしっことか言わない」
イツキは足をバタバタさせながら笑う。
注意されたのに喜ぶなんて変なの。
「それで? イツキのバイトの調子はどうなの? もう慣れた?」
「まあね。元々ネカフェで働いていたしね。勝手を知っているから、初日は一通りレクチャーを受けて、次の日から即戦力だよ」
「ふ〜ん、たくましいな〜。あのイツキがねぇ」
「筋金入りのフリーターですから」
ネカフェはネカフェで大変な部分があるらしい。
金曜と土曜の夜なんか、ホテル代わりに利用する人でいつも満席になって、バイトの面々もピリピリしているのだとか。
「深夜とかさ、男女のアレが禁止なんだよね。でも、個室でコソコソやる人もいるだろう。そういうのを注意する瞬間は……」
「イツキでも緊張する?」
「いや、ウケる。声が漏れてますよ〜、ここはラブホじゃないんで〜、とド直球でクレームを入れてやる」
「ぷっ……」
男女が慌てふためくシーンを想像して、サエコは吹き出してしまった。
「でも、疲れている利用者もいるんだ。お客同士のケンカに発展するよりマシだろう」
「言えてる」
同じタイミングでビールが空になったので、お代わりをオーダーしておく。
仕事中のイツキはどんな感じだろう。
店長や他のスタッフと上手くやっているのかな。
若い女の子と仲良くなったり……。
ありそう。
隠れて様子を観察しに行っちゃおう、とサエコは身勝手なことを考えてしまう。
「今日のサエちんは上機嫌だよね。マリンちゃんとの仲が進展したの?」
「まあね〜。今日も楽しかったよ〜」
「好きなだけ話しなよ。僕が聞き役になってあげるからさ」
サエコは一個だけ残していた冷やしトマトを口の中に放り込んで、ごくり、と喉を上下させる。
「まずは
携帯をテーブルに置いて写真をパラパラめくる。
「何この太極図みたいなお鍋?」
「あ、そう思う? 仕切り鍋といってネット通販でも売っているのよ」
「お家でサエちんとやりたい。これ、一個買おうよ」
「でもなぁ〜」
「欲しい、欲しい、欲しい」
イツキが腹ぺこの犬みたいな視線を向けてくるから、その場でネット通販をポチってしまった。
「言っとくけど、調理するのはイツキの係だからね」
「は〜い、任せて」
パパ活デートの説明に戻る。
「これがマリンちゃんの手元の写真。爪が可愛いでしょう」
「んん? ネイル? なんか海っぽいね」
「いや、どう見ても海でしょう」
「ああ……こっちが貝殻でこっちが真珠ね……なるほど」
「とっても可愛いでしょう」
「はいはい、可愛い」
イツキのリアクションがいい加減だったので、サエコは少しムッとする。
「次がデザート。杏仁豆腐と宇治抹茶パフェね」
「うまそう。食べたい」
「イツキが良い子にしていたら、連れて行ってあげなくもない」
「いやいや、バイトの給料が入ったら、さすがに一人でいけるよ」
「むぅ〜、可愛くないなぁ〜」
「……連れて行ってください、サエコ先生」
「うむ、よろしい」
アルコールが回ってきたせいか、サエコはますます
「イツキに一番見せたかったのはこれ。今日のマリンちゃん。可愛すぎて、もはや可愛いの
「今日のサエちん、可愛いしか言わないね。どれどれ……巫女さん?」
「そう、神様にお仕えする巫女なのです」
イツキが手を滑らせて、甲高い音が響いた。
「あ、ごめん」
テーブルから拾い上げた携帯を、イツキは目の高さまで持ってくる。
その口が金魚みたいにパクパクと動いた。
気持ちを言葉にしようとして失敗するみたいに。
もしかして、酔ったのかな?
イツキにしては珍しい。
バイトの疲れでアルコールの回りが早いのかもしれない。
「思ったより大人っぽい子だと思ってね。僕が驚いてしまったのはそのせい」
「でしょ〜。マリンちゃんの色気って、大学生らしからぬものがあるよね」
「そうだね。僕たちが大学生の頃は、もっと子供だった」
返してもらった携帯をサエコはうっとりと見つめる。
そのせいでイツキのグラスが空になっているのに気づくのが遅れた。
「私はウーロン茶を頼むけれども、イツキは何をオーダーする?」
「僕か。そうだな。梅酒のロックをちょうだい」
たまたま通りかかった店員さんに注文してから、サエコはテーブルに頬杖をついた。
「私が仕事でアンラッキー続きという話をしたらね、マリンちゃんが神社を提案してくれたんだ」
「気が利く子だね。僕なんかと違って」
「お祓いには決まった段取りがあるの。あの子、ちゃんと覚えているんだよ」
「そっか。僕の頭じゃ難しそう」
梅酒のロックが運ばれてきたので、鼻先に近づけてあげると、イツキは少しためらってから一気飲みした。
氷だけになったグラスが乱雑に叩きつけられる。
「サエちん、さっきの写真、僕にも……」
「ん?」
「いや、何でもない」
イツキの頬に赤みがさしている。
アルコールのせいだとしたら、やっぱり珍しい。
「イツキもウーロン茶を飲む?」
「……うん」
結局、イツキが何を言いたかったのか、最後まで分からずじまいだった。
◆ ◆
それから数日後だった。
サエコの前からイツキが
職場から帰ってきたら置き手紙があって、
『さようなら。探さないでください。ごめんね』
と家出少女みたいなことが書かれていた。
あまりに腹が立ったので、クシャクシャに丸めて壁に投げつけてやった。
こんなの裏切りと変わらない。
私が何をしたっていうのよ!
これじゃ、5年前の焼き増しみたいじゃない!
悲しいを通り越して、涙も出てこない。
消えたら消えたで、今でもイツキのことが好きなんだな、という残酷な真実だけが残される。
「あんたが欲しいって言うから買った仕切り鍋、届いちゃったじゃない」
サエコは生まれて初めて悔しさのあまり床に突っ伏した。
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