第19話

 そして日曜日。


 鳴り出した携帯をバッグから引っこ抜いたサエコは、ディスプレイの文字に目を通すと、やれやれと首を振りながら『通話』をタップした。


「はい、大島です」

「お休みのところ申し訳ないね。今ちょっと話せる? もしかしてお出かけ中?」

「残念ながら話せます」


 相手は部長である。

 サエコの言い方がおもしろかったのか、くっくとはとが鳴くような笑い声が返ってきた。


「M銀行のマスタスケジュールを見たいんだけどさ、ファイルにパスワードがかかってんだよね。大島さんなら知っていると思って……」


 部長から偉い上司に報告するらしい。


「それなら数字8桁で、19930515、ですよ」

「へぇ〜、もしかして誰かの生年月日なのかな。平成5年くらいだよね」

「私も詳しくは知りませんが、Jリーグのリーグ戦が開幕して、ヴェルディ川崎対横浜マリノスの試合が組まれた日らしいですよ」

「ああ、Jリーグね。懐かしいな、ヴェルディ川崎って。俺もテレビでその試合を観たわ」


 パスワードを『19930515』にしようと言い出したのはナオヤだ。

 決まって『何かの記念日だっけ?』という話題になって『Jリーグの開幕ですよ』とサッカーファンの社員が語り出す。


 いわば会話の糸口。


 こういう部分、スポーツに詳しくないサエコには真似できない芸当である。

 すごすぎて嫉妬する気にもなれない。


「休日に電話しちゃってごめんね」

「いえいえ、部長の方こそご苦労様です」

「ほら、俺って幹部だからさ。百瀬くんや大島さんと違って、残業規制の対象じゃないんだよね〜」

「あはは……」


 サエコが電話を切ると、それまで黙っていたマリンが心配そうな目を向けてきた。


「もしかして、急な呼び出しですか?」

「いやいや、軽い確認。本当に平気だから」


 おどけたように笑うサエコの脳裏に、先日のやり取りがよみがえってくる。

 ナオヤから『ありがとう。だったら、日曜日の午後2時くらいに現地入りしてくれ』と命じられたやつ。


 サエコは半狂乱になり『うぎゃあ⁉︎』と叫んでしまった。

 するとナオヤの口から、


『落ち着け。日曜といっても、次の日曜ではなく、次の次の日曜だぞ。もしかして、先約があったのか?』


 当たり前のように質問されて、死ぬほど恥ずかしい思いをした。


 バカすぎる。

 職場で大声を出すなんて。


 いや、SEの仕事をやっていると、パソコンに向かって『シネシネシネシネ』と連呼する人や、いきなり過呼吸におちいる人をリアルで見るのだが、あの日の、


『とうとう大島もぶっ壊れたか』


 という視線は実に痛かった。

 あのヒヨリですら、


『どうしたのです⁉︎ 机の引き出しにでっかい虫でも住んでいたのですか⁉︎』


 と心配してきたくらいだ。


 はぁ〜。

 辛すぎる。

 こういう黒歴史、平気で10年くらい残るんだろうな。

 そう考えると死にたくなって、マリンと恋人つなぎしている手に力が入る。


「ねぇ、マリンちゃん、最近死ぬほど恥ずかしい思いをしたことってある?」

「ええっ⁉︎ 最近ですか⁉︎ 1年くらい前なら、ふわふわのスカートを履いたまま自転車に乗っていて、風で思いっきりめくれた経験がありますが……」


 何それ。

 メッチャ可愛い。

 というか、お金払うから生で見たい。


「サエコさんの方で何かあったのですか?」

「実はね……」


 サエコが早とちりした、という話を聞かせると、マリンはクスリと笑った後、お腹を抱えてキャッキャと笑った。


「ちょっと〜、そんなに笑われると傷つくな〜」

「だって、サエコさん、私とのデートを楽しみにしていた……そうですよね。嬉しすぎます」


 マリンの指先から力が伝わってきて、好きです、と言われた気がした。


「そりゃね。唯一の楽しみなんだよ。デートが流れたら落ち込むな〜」


 そんな会話をしているうちに緑色の看板が見えた。

 今日のために予約しておいた薬膳鍋のお店であり、期待に胸を膨らませながらドアを開ける。


 異国情緒あふれる店内には、木彫りの人形だったり、オリエント風の鏡が設置されていた。

 一個一個のテーブルが高い壁で仕切られているから、個室にいるような気分になれる。


 メニューを開く瞬間が一番わくわくする。

『これいいね』『こっちもおいしそう』と話すのが好きだ。


「マリンちゃんは何回か来ているんだっけ?」

「はい。といっても今回が3回目です」


 いいな〜。

 そんなことを考えるサエコの視線はマリンの指に釘付けである。


「あれ? 私の指に何かついています?」

「ネイルが新しくなっていると思ってね」

「ああ……砂浜をイメージしてみました」


 これが真珠、これが貝殻、これが波打ち際。

 マリンが楽しそうに話すからサエコも楽しい。


「可愛いな〜。最高にマリンちゃんに似合っている」

「本当ですか⁉︎ ありがとうございます!」

「うん、派手すぎないのがいい」


 手元の写真を撮ってもいいかな?

 サエコがお願いすると、むしろマリンは喜んでくれた。


「ほら、きれいに撮れた」

「なんか自分の指じゃないみたいです」

「マリンちゃんって、手元も美人さんだよね」

「あぅ……」


 やっぱり囲うなら少しキラキラした女子がいい。

 イツキなんて平気で『爪にそんなの付けてると、タバコ吸う時に邪魔くさい』とか言いそう。

 あと『缶ビールのプルトップ持ち上げる時に折れそう』とかぬかす。


 そういうやつなのだ。

 美容よりもビール、焼き鳥、ハンバーガーに興味がある。


 そのくせ肌はきれいだから少しムカつく。

 スタイルが良いのはもっとムカつく。


「サエコさんって、最近ずっと激務ですよね。部屋のお掃除とかお洗濯とか大丈夫ですか?」

「ああ、それはね、私のツレが……」


 途中まで言ってから、ハッと口をつぐんだ。

 ツレなんて表現すると、恋人と同棲しているみたい。


「あれ? 一人暮らしじゃないのですか?」

「え〜とね、友達が一時的に上京してきていて……」

「それって……」


 マリンの顔が近くなり、サエコは同じだけ距離を開けた。


「この前に話していた大学時代の友人ですよね。元カノでもある」

「いや〜、その言い方は正しくないような……」

「でも、一緒に寝たりするわけですよね」


 マリンの視線にたっぷり含まれる嫉妬に気づいて、サエコはリアクションに困ってしまった。


 これも演技なのかな?

 でも、穏やかなマリンらしくないような……。


「前にも言った通り、私はサエコさんのことが知りたいのです。でも、言えないことは言えないでかまいません。嘘をつかれるのが一番悲しいだけなのです」

「うっ……」


 気持ちは嬉しい。

 でも、こんなお店じゃ言えないよ〜!

 マリンとのやり取りをパパ活日記に記録しているとか、それをイツキに読まれちゃったとか、いけない妄想のアレコレとか。


 好き。

 マジで。

 お願いだから、そんなに悲しそうな顔はしないでほしい。


「サエコさんがパパ活に手を出したのは、つまり、私をその女性の代わりにしたかった、というわけですか?」

「いや⁉︎ 違うの⁉︎」


 ランチ帯のお店で大声を出しちゃったのは、きっとマリンの指摘が一部正しいから。

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