第20話
ぽくぽくと優しい音を奏でる鍋から、二種類の匂いが立ち上っている。
一つは豆乳ベース。
もう一つはピリッと辛い
こっちは
白と赤のコントラストが目にも優しくて、太極図みたい、と小学生みたいなことを考えてしまう。
「はい、どうぞ」
マリンが取り分けてくれたので、ありがとう、と礼を述べてから一口食べた。
ぷりっとしたラム肉がおいしい。
普通、羊の肉は臭みが強いから、強烈なハーブやスパイスで誤魔化したりする。
けれども、このお店はまったくクセがない。
「すごい! ラム肉じゃないみたい!」
「ですよね。臭みがないから、食べやすいのです。それで女性に人気のお店なのです」
「へぇ〜。知らなかった〜」
さっきは豆乳だったので、今度はピリ辛の方も食べてみた。
すると自然に笑みがこぼれてしまう。
「本格的な辛さなので注意してください」
「うん。でも、おいしい」
イツキに申し訳ないな。
朝の9時から夕方の5時までネカフェでバイトらしく、100円のカップ麺をカバンに入れて出発していった。
今ごろ休憩室でふ〜ふ〜しているだろう。
まあ、いいや。
平日はサエコの方が頑張っているわけだし、美人と鍋を囲みながら談笑する、なんてご褒美があっても許されるはず。
「サエコさんって、里芋は好きですか?」
マリンがお箸に突き刺した里芋を近づけてくる。
周りから見えないのを良いことに、好きよ、と答えてから食いついた。
ゆっくりと時間をかけて飲み下すサエコを、マリンはじぃ〜と観察してくる。
「それで? 話す気になってくれましたか? 例の元カノのことを」
「そうだな〜」
仕事のクセで眼鏡の位置を直してしまう。
「本当に聞く? つまらないよ、多分」
「いやいや、大学時代も同棲していたなんて、絶対におもしろいに決まっていますよ」
サエコは、なるほど、と返してからお水に口をつける。
「私、大学1年の時からカフェでバイトしたんだよね。出会いはそれがきっかけ。私がホールスタッフで、向こうがキッチン担当。普通、若い女の子はホールスタッフになることが多いお店だったけれども、本人が志願したし、店長もそっちが良いと思ったんだってさ」
けっきょくサエコは大学卒業まで在籍していた。
イツキはそろそろ3年というタイミングでクビになった。
「バイトをクビって、よっぽどですよね。人間関係とか、そういうトラブルですか?」
「いやいや……」
そういや、イツキってなんでクビになったっけ?
客の料理にイタズラしたのは覚えているが、その背景が思い出せない。
「たしか……」
外国人のお客だった。
仲間内でわいわい騒いでうるさかったからサエコが注意したのだ。
でも、効果はなかった。
日本語だから通じないのかな、と思ったサエコは5分後、つたない英語で注意してみた。
『静かに本を読みたい人もいるんです。だから、お静かに』
他の先進国だって、このくらいの注意は当たり前にするだろう。
すると向こうが失笑した。
『お前の英語は下手くそだな』と。
加えてサエコの容姿を侮辱してきたと思う。
料理が出たのはその直後だ。
タバスコをたっぷり染み込ませたサンドイッチやらハンバーガーやらを、イツキが自分でテーブルまで運んだのである。
なぜ忘れていたのだろう。
イツキが怒ったのは、サエコが傷つけられたから。
子供っぽい理由だけれども、やり返さないと気がすまなかったから。
うわ〜!
イケメンすぎる!
男とか女とか抜きに、サエコが出会ってきた人間の中で、イツキが一番格好良かった。
だから惚れたのだ。
もはや不可抗力に近かった。
そのくらいあの日のイツキは輝いていた。
「サエコさんがその人のことを好きなのは、感情のままに生きている人だからですか?」
マリンの一言にハッとしてお箸を落としてしまう。
すぐにスタッフが駆けつけて、新しいお箸を用意してくれた。
「うん、そうだね。私は昔から我慢することが得意で、そのことで親とか先生から褒められて、少しねじ曲がっちゃったかな。上手くガス抜きできないんだ。お酒とかギャンブルで、ぱあっとストレス発散できる人が羨ましい。借金するほどのめり込むのは問題だと思うけれども……」
テレビやスマホのゲームもそう。
ゲームは悪いものと教えられて育ってきた。
だから、電車内でゲームするサラリーマンのことを小バカにしつつ、自己啓発本なんかに目を通していた。
本当はサエコが思っているよりゲームは楽しいのかもしれない。
節度ある楽しみ方、1日30分だけとか、お金を使うのは月に3,000円までとか、ルールを守れば人生を豊かにしてくれるかもしれない。
少なくとも、よく知らないものを否定するのは正しくない。
実はこの前、ナオヤがスマホのゲームで遊んでいた。
気になって質問したら、
『このゲームを開発している会社の仕事をうちが狙っているんだ。どんなサラリーマンだって、自分のところの製品やサービスを褒められたら嬉しいだろう』
と話していたのを思い出す。
ああいう貪欲さ、興味のアンテナ、考える力、そういう一切合切が自分には欠けているような気がして胸が痛んだ。
真面目すぎる……のかもしれない。
世間一般では悪いことだとされている。
「私はそうは思いません。真面目な人が損をするのなら、それは社会のあり方が間違っているのです」
「ありがとう、マリンちゃん。私のために怒ってくれて」
不覚にも涙がこぼれそうになった。
◆ ◆
「その子のアパートで水漏れが起こってね、オーナーから移転料をもらえるし、新しい家に二人で住もうか、という話になって……」
同居の経緯まで話したところで、マリンは満足してくれた。
サエコの頬っぺたが熱いのは、きっと薬膳鍋のせいじゃない。
どうしよう。
マリンがその女性に会いたいと言い出したら。
う〜ん。
イツキとマリンって性格が真逆だからな。
会話が弾まなそう。
よって会わせるのはナシ。
イツキが意地悪したら困るしね。
「その方って、サエコさんのことを何と呼ぶのですか? やっぱり、サエコと呼び捨てでしょうか?」
「いいや、違うよ」
ふとゲームを思いつく。
「もし当てられたら、ここのデザートを注文しようか」
「むむむ……絶対に当てます」
サエちゃん?
サエぽん?
サエサエ?
「可愛いな。けれどもハズレ」
「う〜ん……サエっちですか?」
「ちょっと近い」
マリンが真剣な面持ちで考え込んでいる。
「サエたん?」
「少し離れたかな」
「あ、分かりました。サエちんですね」
「当ったり〜」
マリンは嬉しそうに肩を揺らして、
「サエちん、サエちん、サエちん」
と連呼してくる。
約束通りデザートのメニューを渡してあげると、ようやく揺れが収まった。
「好きなのを頼んでいいよ。私の分も決めてくれると助かるかな」
「ありがとうございます。このお店の鉄板デザートは杏仁豆腐なのですよ。一つはそれにしましょう。もう一つはやっぱりパフェですかね。デザート目当てで来店するお客さんもいるくらい人気のパフェがあって……」
マリンは急に押し黙り、自分のお腹をスリスリした。
脂肪分を気にしていると分かり、サエコは苦笑する。
「お鍋はヘルシーだから、
「えへへ……」
マリンの手元にあるグラスの氷が、からん、と気持ちいい音を立てた。
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