第8話
マリンとの初デートはつつがなく終わった。
ゲーセンへ寄って、お寿司を食べて、カフェでくつろいで。
20分早めにスタートしたのだから、20分早めに切り上げても良さそうなのに、マリンは時間いっぱいまで付き合ってくれた。
『いいのですよ。サエコさんが私を選んでくれましたから。この20分は感謝の気持ちなのです』
そして眠る前の『おやすみ』メッセージもくれた。
いくつか写真が添付されており、サエコの驚いた顔や、二人の手元をアップした一枚が含まれていた。
『また来週もお会いしたいです』
これでいい。
正しいお金の使い方だ。
サエコはこの世で一番マリンが欲しくて、マリンもまた生活費を必要としている。
相互扶助。
体の関係がない分、そこら辺の援助交際なんかより何倍も清らかな自信がある。
『サエコさん』
朝のオフィスでマリンの声がよみがえり、ハッと声を出してしまった。
始業まで30分ある。
社員の姿はほとんどない。
じゃあ、なんでサエコが出社しているのかというと、純粋に朝早くに目が覚めたから。
二度寝する気になれず、シャワーを浴びて、家を出てきた。
パパ活日記はつけている。
マリンと会えるのは週に1回だけれども、寝る前に読み返すことで、毎晩幸せになれる。
昨夜なんてデートの夢を見たくらいだ。
夢の中のマリンも可愛くて一万円くらい儲けた気分といえよう。
「ちょっと、大島さん」
奥の会議室が開いて、部長が手招きしてきた。
なんだろう。
サエコは手帳を片手に離席した。
「お待たせしました、部長」
難しそうな顔で腕組みしていた上司は、ここに座りなさい、と椅子を引いてくれた。
「M銀行のシステム障害の件、知っているよね」
「はい、時々民放のニュースで見かけます」
「うちの営業が猛アプローチしていて……」
この20年、M銀行のシステムは国内最大手のSIerが独占していた。
戦前、同じ財閥から生まれた会社なので、血を分けた兄弟のような間柄なのだ。
そんな蜜月関係も5回のシステム障害には耐えられなかったらしい。
銀行とSIerにかつてない隙間風が吹いているそうだ。
「M銀行の上層部もSIerの選定を見直す方向に傾いているようだ」
「ということは……」
部長の言わんとすることは一瞬で理解できた。
「電子決済システムのリプレース案件をうちの営業が取ってきた。額はそれほど大きくないから、我々に対する腕試しみたいなものだろう。これを無難にこなせば、もっと大きな仕事をM銀行は発注してくれる」
ゆえに採算度外視でトライする。
エース級の社員だけを関連会社から集めて、是が非でも成功させるつもりらしい。
「うちの部門からも何人か出す。ぜひ大島さんにも入ってもらいたい。もしかしたら最年少のメンバーになるかもしれないし、相当なプレッシャーがあるだろうが、引き受けてくれるか?」
サエコは即答した。
こんな大チャンス、サラリーマン人生で何回も出会えない。
「しかし、本当に私でいいのでしょうか? 人選に不満を持つ人が出てきませんか?」
「いや、その心配はない。みんな大島さんの優秀さは知っている」
太鼓判を押してもらったのは嬉しいが、
「今年で入社5年目だろう?」
サエコはうなずく。
「分かれ道だぞ。順調にキャリアを積んでいくか。一生を平のままで過ごすのか。うちの会社も女性の幹部社員を増やす方向で動いているが、大島さんのようにクレバーな人間が選ばれるべきだと俺は思う」
部長からここまで期待されるのは、もしかしなくても初めてで、ドーパミンが一気に吹き出してくる。
マリンに褒められても嬉しい。
でも、それとは違ったタイプの興奮。
「一点、質問させてください。私が抱えている案件はどうなりますか?」
「そうだな。別の担当者に引き継いでもらうか。入社2年目の彼がいいだろう。レクチャーがてら、教えてやってくれ」
「分かりました」
心の中でガッツポーズを決める。
プロジェクトのメンバーに選ばれた。
それも最重要プロジェクトだ。
残業代が増えるだろうし、次の
パパ活が仕事のモチベーション。
自分をそう納得させた。
「M銀行の社内システム大型リプレースは3年後だ。うちらが取るぞ」
「はい、力を尽くします」
エンジニアの顔になったサエコは、左手で眼鏡の位置を直した。
◆ ◆
夜の8時を回ったオフィス。
サエコは手元のプリントに目を通しつつ、首の関節をポキポキと鳴らした。
作っているのは引き継ぎ資料。
後輩に仕事をレクチャーするための教科書のようなものだ。
派遣スタッフのヒヨリはとっくに退社している。
なんでも、気前のいいパパと1か月ぶりに会えるらしい。
「精が出るじゃないか」
肩に硬いものが触れた。
視界に入ったのは缶コーヒーで、伸びる腕をたどっていくと、がっしりした体つきの上に
「モモ先輩、お疲れ様です」
係長の
サエコより5歳年上だから、入社10年目のエース級社員だ。
サエコの部署でもっとも男前な社員といえば、誰しも百瀬ナオヤを挙げる。
学生時代、アメフトで鍛えたという体つきは健在だから、証券会社のセールスマンといっても通用する。
左手の薬指に結婚指輪はない。
仕事のやりすぎで彼女にフラれた……とお酒の席で話していたのを思い出す。
「今日は直帰じゃなかったのですか?」
「大島がまだ残っていると思ってな」
まさかM銀行の案件で?
サエコの心臓がトクンと跳ねる。
「部長から話は聞いたか?」
「ええ、始業前に。私を次のプロジェクトにアサインする予定だと」
「M銀行の件、プロジェクトマネージャーを務めるのは課長だが、現場の指揮は俺が執る。誰をメンバーとして欲しいか
「あ、ありがとうございます!」
興奮のせいで、言葉が滑ってしまった。
ナオヤは間違いなく課長、部長へと昇進する人だ。
この人に認められている限り、サエコの未来だって明るい。
「大島、悪かったな」
「何がですか?」
「手がけている案件。お前が必死にプレゼン資料を用意して、お客を口説いたやつだろう。俺が取り上げてしまったみたいだ」
「いえ、そんな⁉︎ 山場は超えており、いちおう最後まで見届けますから!」
ナオヤは一瞬キョトンとしたが、すぐに人懐っこい笑顔をくれた。
「さすがだな、期待している」
「こちらこそ。周りの皆さんの足を引っ張らないように気をつけます」
「大島なら大丈夫さ。むしろ、気負いすぎて体調を崩さないように気をつけろよ。これからが本当の体力勝負だ」
缶コーヒーがサエコの机に置かれる。
「モモ先輩、私がいつも飲んでいるのは微糖ですよ」
「そうだったのか。てっきり無糖かと」
仕事ができるくせに抜けたところがある。
人望の厚いナオヤのことが、サエコは人として好きだった。
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