第13話

 楽しい時間ほどすぐ終わる、とはよく言ったものだ。


 平日の朝。

 持ち主がいなくなったベッドでゴロゴロするイツキを尻目に、サエコは身支度を整えていた。


「くんか、くんか……サエちんの匂いがする〜」

「犬みたいな真似はやめなさい。それで? 今日の予定は?」

「バイトの面接の結果待ち〜。手応えはあったから安心してよ。何なら高級なお寿司を買ってきてくれてもいいよ〜」

「まったく、甘え上手なんだから」


 イツキだって留守番くらいはこなせる。

 これを利用しない手はないと思い、何個かネット通販を注文しておいた。


「荷物の受け取り、忘れないでね」

「は〜い。いってらっしゃ〜い」


 手の代わりに足を振ってくる。

 それがイツキという女だ。


「まったく……家の鍵くらい中から閉めてくれたらいいのに」


 電車に揺られて、オフィスに顔を出した。


「おはようございま〜す……て、一番乗りか」


 照明のスイッチを入れてから席へ向かおうとしたら、何かにつまずき、サエコはギョッとした。

 足元にあったのは赤色の寝袋。


 係長のナオヤだ。

 不注意とはいえ上司を蹴飛ばしたショックで顔から血の気が引いていく。


「なんだ……もう朝か……」

「うはっ⁉︎ モモ先輩⁉︎」


 変な声を出してしまったサエコの前で、ナオヤは脱皮するみたいに寝袋から出てきた。

 ぐわぁ〜、と欠伸あくびする様子なんか、冬眠から目覚めたクマのそれである。


「泊まり込みですか?」


 もちろん、見れば分かる。

 サエコが問いたいのは、そんなに仕事があるのなら一部を回してくれたら良かったのに、という半ば文句のようなもの。


「熱中していたら終電を逃してしまった。ラッキーなことに着替えならロッカーに眠っている」

「仕事に熱中するなんて、少年みたいですね」


 サエコは手で口元を隠しながら笑った。


 多くの女性に共通する願望として、いざという時に家族を守ってくれる男性と結婚したい、が挙げられるだろう。


 ナオヤなら大切な人を絶対に裏切らない。

 ワーカホリックなのが玉にキズだが……


 それすら不倫にうつつを抜かすヒマがないと解釈すればメリットではないか。

 男性に興味がないサエコであるが、ナオヤを捨てた元カノは実に勿体もったいないことをしたな、と呆れてしまう。


「仕事は進みましたか」

「まあな。深夜のオフィスはいい。上司の邪魔が入らないし、電話が鳴ることもない。一番はかどる」

「いえてます」


 デスクの上に散らかっている資料に視線を落とした。

 その中の一つに『大島に作業依頼する』という付箋ふせんが貼られており、心がポカポカする。


 ちゃんと期待されている。

 気持ちが目に見えるのは嬉しい。


「俺はホテルの日帰り風呂を浴びてくる。後で少し時間をくれ。大島に振りたいタスクについて説明する」


 ロッカーからリュックサックを取り出したナオヤが消えた後、サエコはさっそく自分のパソコンの電源を入れた。


 まずはコンビニで買ってきた缶コーヒーを一口飲む。

 それからメールをチェックして、二通に返信を書き、一通はナオヤに転送しておいた。

 

 部長からのメールを処理しようとした手が止まる。

『今月の残業見込み時間について教えてください』か。

 これもナオヤに確認だな。

 よって保留、と。


「大島、いいか」


 早い⁉︎

 20分くらいで帰ってきた!


 びっくりしたサエコは新人みたいに取り乱しながらナオヤの待つ打ち合わせスペースへと移動する。


「手短に伝えるぞ。まずダイコク・サービスさんに追加発注してくれ。前回の発注分だと今週までの作業となっている。あと、マスタースケジュールを俺の方で作成しておいた。念のため印刷して、不整合がないことをチェックしてから、帝斗システムの関係者に回してくれ。それから……」


 依頼されたタスクをメモしつつ、必要な時間を見積もっていく。

 10時間くらいかかりそう……。

 早めに出社して良かった〜。


「お前、名刺は大丈夫か?」

「はぁ……名刺ですか?」

「これから大量に配ることになる。手元にありません、じゃ格好悪いだろう。早めに総務に依頼しておけ」

「はいっ!」


 忘れていた〜。

 サエコは顔が赤くなるのを自覚しつつ、手帳に『名刺』の一行を書き加える。

 部下の名刺の枚数まで気にかけるなんて、この人はどこまでも仕事ができるな。


「俺からは以上だ。何か質問はあるか」

「え〜と、優先順位について知りたいのですが……」


 そんな質問にもテキパキと答えてくれた。


        ◆        ◆


 その日、サエコの脳みそはフル回転していた。


「最近、百瀬係長と仲良いですよね」


 ヒヨリの軽口にも、仲が良いんじゃなくてこき使われているの、と思ったままを返しておく。


 机にはToDoリストの付箋ふせんを貼っている。

 一個片付けたかと思いきや、新しい作業が発生して、これじゃまるで鏡の国のアリスに出てくる赤の女王だな、と自虐じぎゃくっぽいことを考えてしまう。


 ナオヤは普通のペースで仕事しているつもりだろうが、サエコはてんてこ舞であり、頭が真っ白になりそうだ。


 向こうはエース社員。

 同じペースで仕事できないのなんて当たり前。

 頭では理解しているつもりだが、自分の不甲斐ふがいなさには腹が立つ。


「大島、少しいいか」

「資料ですよね! あと、10分でできますから!」

「いや、そうじゃなくて」


 肩に触れたのは空のペットボトル。


「もう夜の10時だ。今日は切り上げるぞ。残りは明日だ」

「ですが、私はまだやれます」

「そうじゃない。10時を過ぎると割増の残業代が発生するだろう」


 そうだった。

 部長からも注意されていた。

 コンプライアンス強化月間とかで、普段より労務のチェックが厳しくなるのだ。


「役員から目をつけられたら厄介やっかいだ。それに深夜は大雨が降るらしい。早く帰ろう」

「……はい」


 サエコが修正中のファイルを保存すると、バッテリー残量が10%です、というポップアップが表示される。

 危ない、電源コードが抜けているのに全然気づかなかった。


「どうした? 帰りたくないのか?」

「そういうモモ先輩こそ、まだ仕事したそうな顔ですが」

「なるほど、俺たちは同じ穴のムジナというわけか」

「私のことを何だと思っていたのです?」

「う〜ん、週末にデートを満喫してそう」


 サエコは一瞬ハッとして、あはは、と笑っておいた。


「私、半分仕事と結婚していますから」

「そうか。俺も似たようなものだ」


 ビルから一歩出ると、むわっとした空気が肌に触れてくる。


「大島は何線で帰る? 俺と同じ電車だったか?」

「その質問、先週も聞きました。一緒の電車です」

「そうか、すまん」


 駅までまっすぐ向かうなら、飲み屋や風俗が密集している小道を抜ける必要がある。

 サエコは怖くて遠回りするが、隣に男性がいると平気だ。


「大島はすごいな」


 電車が動き出した時、ふいにナオヤがいった。


「そうですかね?」

「根性があると思う。仕事にかじりつくだろう」

「モモ先輩がいっても説得力がないですよ。いつも豪腕でねじ伏せるじゃないですか」

「そう見えるか。波風立てないよう心を砕いているつもりだが」

「ご冗談を」


 二人の会話を女子社員が見たら、羨ましいな、と思うのだろう。

 そのくらい社内におけるナオヤの人気は高い。


「大丈夫か、大島」


 思いのほか近くに顔があって、サエコの心臓がひっくり返りそうになった。


「顔色が良くないぞ。もしかして寝不足か」

「えっと……これは……」


 イツキのせいだ。

 夜中にゴホゴホむせるから。

 タバコを減らせっていったのに昔と同じ量だけ吸う。

 歯だって汚くなるのに、なぜかイツキはタバコをやめない。


 格好いいと思っているのか。

 もう26歳だぞ。


「いや、本当、大丈夫ですから。ちょっと昨夜、寝苦しかっただけで」

「日中、頭を使い過ぎると、夜の寝付きが悪くなるらしい。ほどほどにしろよ」

「……はい」


 先生に叱られる小学生みたいにサエコはうなずいた。


 ポツリ。

 雨粒が電車の窓ガラスを叩いた。

 雨脚はみるみる強くなり、遠くの景色をぼやけさせる。


「おい、大島、着いたぞ。お前が降りる駅だろう」

「へっ?」

「やっぱり体調が悪いのか。すまん、気づかなかった俺のせいだ」


 その数十秒後にはホームのベンチに座っていた。

 サエコの手にはお茶のペットボトルが握られており、本来ナオヤを連れて帰るはずの電車が走り去っていく。


「傘がないだろう」

「え〜と……近くのコンビニで買えますから」

「でも、コンビニに行くまでにれるだろう。そこまで俺の傘に入れ」

「ですが……しかし……」

「いいから」


 嫌だ、この人に迷惑をかけたくない。

 ただでさえ足を引っ張っているのに。


「明日は無理せず午前半休を取っていいぞ。無理そうなら一日休め」

「できません、そんなこと」

「これは上司命令だ」


 嫌です!

 伸ばした指先がナオヤのスーツをかすめて空気をつかんだ。


 視界がぐらつく。

 次の瞬間、サエコの体はナオヤの背中にもたれかかっていた。


 汗とコーヒーの匂いがする。

 なぜかサエコの父に似ている。


 ダメだ。

 目の奥が熱くなる。


 もう26歳の女なのに。

 情けなくて泣きたい。


 笑えないな、イツキのことを。

 いつもバカにして、バカにして、本当にごめん。

 これじゃ、サエコが意地悪な女みたい。


「サエちん」


 改札の向こうからよく知る声がした。


 イツキだ。

 手に傘を2本持っている。

 ビニール傘と紳士用の傘と。

 イツキのデニムは雨に濡れており、慌てて家を出てきたことを物語っていた。


 どちら様ですか? と問うような視線をナオヤが向ける。

 無理もない、初夏なのにライダースジャケットを着ている女なのだから。


「その子、友達です。近くに住んでいます」


 サエコは喉の奥から声を振り絞る。


「そうか」


 ナオヤは感情を感じさせない声でいってから、改札の前でサエコを解放してくれた。


「お疲れ」

「お疲れ様です」


 ぺこりと頭を下げたサエコの目頭がまた熱くなる。


 会いたいと願った。

 マリンでもいい。イツキでもいい。

 人肌の温かさに触れたいと思った。


 イツキがいた。

 頼んだわけじゃないのに自分を探しにきてくれた。


 ナオヤの姿が完全に見えないことを確認してから、サエコはタバコの匂いがする胸元に顔をうずめる。


「ありがとう」

「どうしたの? サエちん、弱っている?」

「誰のせいだと思っているのよ」

「えぇ……僕のせい」


 イツキの長い指がサエコの頭をナデナデした。

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