第17話

 焼肉の後。

 イツキのペースに合わせてしまったせいで、ついつい杯を重ねたサエコは、一人でまっすぐ歩けないくらいには酔っ払っていた。


 視界がぐにゃぐにゃする。

 何回も転びそうになり、その都度イツキに救われた。


「サエちん、酔っ払いすぎ。もう大学生じゃないんだから」

「うるしゃ〜い。飲め飲め言ってきたのは、イツキの方でしょうが〜。ウーロン茶を頼んでってお願いしたのに……」


 出てきたのはウーロンハイ。

 酔い覚ましで頼んだつもりが、アルコールが入っているとは思わず一気飲みして、酔いをますます深める結果となった。


「わざとじゃないんだ。ウーロン茶とウーロンハイを間違って頼んじゃったんだ」

「イツキって本当にポンコツね。使えないサラリーマンみたい」

「だろうね。その自覚は強くある」


 ぬるい夜風が頬にぶつかる。

 公園のベンチが見えて、今ならあそこで寝られるな〜、なんて考えているとマンションに到着した。


「イツキ、鍵を出せるかしら」

「はいよ」


 体を支えられたままエレベーターに乗り込んだら、バランスを崩して抱きついてしまう。


「うぅ……ごめん」

「サエちんってお人好しだよね。僕がわざとサエちんを酔わせたとか考えないの? 最後のウーロンハイの件も含めて」

「はぁ〜? 何のために?」

手籠てごめにするため」


 イツキが真顔でいうものだから、サエコは思わず吹き出してしまう。


「ないない。イツキはそこまで頭を使わないでしょう」

「はぁ……サエちんって純粋なんだから」


 イツキにとって自分って何だろうな、と考えてしまう。


 都合のいい友人?

 ただの金ヅル?


 否定はしないが、そうじゃないと信じている。

 それを確信したのは、イツキの口から『僕が死んでも、悲しんでくれる人間はサエちんくらい』というセリフを聞かされたから。


 あれは嘘じゃない。

 詳しい事情まで知らないが、イツキは家族と仲が良くない。

 そんな心の隙間をサエコが埋められたらな、と考えてしまい、慌てて首を振った。


 ダメダメ。

 同情されても本人が喜ばないことは、サエコが一番知っている。

 イツキとの関係って難しい〜! なんて思いつつ欠伸あくびをもらした。


「ほら、家に着いたよ」


 気づいた時にはベッドに座っていて、目の前にペットボトルの水が差し出されていた。


 ミネラルウォーターの買い置きなんてあったっけ?

 サエコが質問すると、駅前のドラッグストアで一本30円で売っていたのを、イツキがまとめ買いしたらしい。


「あんたって専業主婦の才能あるかもね」

「またまた、ご冗談を」


 常温の水が体に優しい。

 たっぷり水分補給すると、今度はトイレに行きたくなった。


「肩を貸そうか?」


 表情からサエコの尿意を悟ったらしい。

 イツキのこういう部分、本当に天才的だなと舌を巻く。


「一人でおしっこできる? 手伝おうか?」

「笑えない提案はやめて」

「ちぇ〜」


 サエコが用を足している間、イツキは浴槽を洗って給湯ボタンを押してくれた。

 前は命令しないと動いてくれなかったのに、これが焼肉パワーなのか。


「……あれ?」


 ふたたびベッドに戻ると、急にサエコの視界がボヤける。

 どうやらイツキに眼鏡を奪われてしまったらしい。


「こらこら、悪ふざけはやめなさい。こっちは明日も仕事なんだから」

「ちょっとだけ僕に実験させてよ」

「はぁ、実験?」


 イツキはわざとらしく、コホン、と咳をする。


「サエコさん…………どう? 似ている?」


 マリンの真似らしい。

 全然似ていない、笑っちゃうくらい似ていない、とサエコが返すと、イツキはさっきよりも高い声で、


「サエコさん」


 と繰り返した。


「まだ違うな〜」

「いつもどんな風に呼ばれているの?」

「そうね。マリンちゃんのイントネーションは……」


 サエコさん。


「こんな感じ。『エ』で少し落ちて、『コ』で上がるのよ」

「なるほど」


 イツキが名前を連呼してくる。

 今度は似ており、本当にマリンが部屋にいるような気がしてきた。


 お酒のせいだ。

 眼鏡を奪われたせいだ。

 頭では理解しているけれども偽マリンに甘えたくなる。


「もしマリンちゃんが部屋にいたら、何してほしい?」

「そうね……」


 抱きしめてほしい。

 今日もお仕事頑張ったね、と褒めてほしい。

 なんて素直に伝えられるわけもなく……。


「ただ手を握られたいかな。言葉はいらないの。黙ったまま側にいてほしい。誰かの存在を肌で感じていたい」

「近くにいるのに沈黙するって辛くない?」

「ううん、心を許しているみたいで好き」

「なるほど」


 サエコが希望した通り、イツキはそっと腰を落として、手を握ってくれた。


 ちょこんと肩を寄せて甘えてみる。

 本当にマリンがいる気がしてきた。


 どうして急にマリンの真似を始めたのか。

 嫉妬したのか、サエコを揶揄からかっているのか。

 酔っ払いの頭では考えるのが難しい。


「マリンちゃん、マリンちゃん、マリンちゃん」

「何ですか、サエコさん」

「うわぁ……気持ち悪いくらい似ている」

「おかしなことを言いますね。だって、本人ですから」


 その声は日曜に会ったマリンそっくりであり、サエコの喉がゴクリと鳴る。


「マリンちゃん、好き」

「私もサエコさんが好きです」

「それ、本気で言ってる?」

「はい、もちろん」

「くぅ〜〜〜」


 イツキめ。

 また変な技を覚えやがって。


 恐る恐るといった感じで髪の毛に手を伸ばしてみた。

 マリンなら絶対にサラサラなのだけれども、イツキのそれは表面がダメージを受けており、指通りが良くない。


「マリンちゃん、次はどこに行きたい?」

「そうですね。パチスロデートとかどうですか? サエコさんだって、死ぬまでに一回くらいはパチスロ屋を利用したいでしょう。私が基本的なルールをレクチャーしてあげますよ」

「ふふっ……ちょっとイツキ……あの子はそんな発言しない。死んでもしない。この偽物め〜」

「いいえ、私は新居浜マリンです」


 ふいに押し倒される。

 まぶたが重くなり、サエコは抵抗することを諦めた。


「サエコさんは頑張りすぎです。少しは肩の力を抜きましょうよ。私が側にいますから。休んでください。それと今日の焼肉、ごちそうさまでした」


 額に軽くキスを落とされる。

 お風呂場から響いてきた給湯完了のブザーがやけに遠くに感じられた。

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