第30話

 イツキに訴えたいことは2つだけ。


 なぜ複雑な家庭環境のことを黙っていたのか。

 生き別れた妹がいることを教えてくれなかったのか。


 感情が限界に達してしまったサエコは、少女漫画のキャラクターみたいにイツキの胸ぐらをポコポコと叩きまくった。


 パソコン仕事しかしない手だから、に刺された程度のダメージだろうが、イツキを痛めつけずにはいられなかった。


「だって、サエちん、同情するだろう。そうしたら迷惑かけちゃうだろう」

「バカいわないで! 黙られていた方が迷惑よ!」


 サエコの首裏に温かいものが触れてくる。

 肌荒れしているイツキの手であり、周囲の視線からサエコを守るように抱きしめてくれる。


「それは、ごめん。僕が間違っていたよ。本当にごめん」


 優しくされた途端、サエコの涙はますます量を増やして、足元のアスファルトに黒い染みを落としていく。

 まったくコントロールが利かず、涙腺るいせんがぶっ壊れたのかと疑いたくなるほどだ。


 きっと、寂しかったんだ。

 イツキが去っていって、自分の力不足だと責めて、でも本当はもっと深い事情があって……。


 サエコ一人ではどうにもできない重荷をイツキは背負っていた。

 

 でも、マリンは話してくれた。

 出会って2ヶ月くらいのサエコを信頼してくれた。


 姉妹の性格の違い。

 そう割り切れるほどサエコの心は強くない。


 イツキと一緒に過ごした4年間って、あの楽しかった時間って、嘘だったのかと思うと全身の震えが止まらなくなり、度数の高いアルコールでも飲んだみたいに胃のあたりが痛くなる。

 するとイツキは、大丈夫、大丈夫、と子供をあやすみたいに頭をなでてくれた。


「私、認めませんよ!」


 ふいにサエコの視界が明るくなった。

 イツキの温もりが遠くなり、今度はマリンの髪の毛の匂いが近くなる。


「お姉ちゃん、どうしてサエコさんにこんな酷いことをするのですか⁉︎」


 初めて目にするマリンの険しい顔つきは、映画俳優さながらの迫力があり、不覚にも胸がときめいてしまう。


「社会人としてどうかと思います!」

「いや、だから僕は謝った……」

「謝ったで済む問題ですか⁉︎」

「えぇ……」


 サエコに一抹いちまつの余裕が戻ってきて、とある可能性に思い当たった。

 もしかして、マリンちゃん、嫉妬している?


 過去に同居人がいたことは話している。

 大学の同級生だったということも。


 今回のやり取りでサエコとイツキがそういう関係だったと知り、敵愾心てきがいしんを燃やしているのだとしたら、このシチュエーションにも納得がいくのだ。


 それって、つまり……。

 いや、でも、マリンには……。


「お姉ちゃんがどんな人間だろうと、私は受け入れるつもりでやってきました。でも、サエコさんに対する態度だけは許せません!」

「え〜と……マリン……とりあえず話の続きは……」


 家で話そうか、とイツキは路地裏を指さした。


        ◆        ◆


 歩くこと数分。


「へぇ〜、ここがイツキの新居なんだ〜」


 すっかり泣き止んだサエコは夏の太陽の眩しさに目を細めた。

 少女みたいに後ろ手を組んで金属の階段を上っていく。


 うす暗い廊下に木製のドアが4つ並んでおり、一番奥がイツキの部屋らしい。


 マレー系の女性2人組とすれ違う。

 イツキいわく、近所にフィリピン人女性ばかり集めた風俗店があり、そこに在籍している子らしい。


「サエちん、マレー系の女の子に興味あるの?」

「いやいや、日本の女の子が世界一よ」


 機嫌を直したサエコを見て、イツキはやれやれと首を振る。


「マリンは知らないかもだけれども、サエちんは意外と打たれ弱いから。でも、起き上がるのが異常なまでに早いんだよね。倒れても倒れても立ち上がる不死身のボクサーみたいに」

「ちょっと!」


 サエコが文句をいうと、図星ってことですね、とマリンが嬉しそうに笑う。


「マリンちゃんまで」


 お邪魔しま〜す、と家に上がった。

 3人でちゃぶ台を囲んで、お茶代わりに出された缶コーヒーに口をつける。


「イツキの家って昭和の匂いが残っているわね。家具があまりなくて殺風景だし」

「まあね。デジタル家電とは無縁の生活だよ」


 洗濯機は置いておらず、コインランドリーで洗って家で干しているらしい。

 冷蔵庫だってビジネスホテルに付いている小さなやつだ。


「あの〜、マリン……」


 イツキは咳払いしてから、さっきは逃げようとしてごめん、と頭を下げた。


「その……大きくなったね。あと、美人さんになったね。マリンを間近で見たとき、お母さんがそこに立っているのかと一瞬錯覚したよ。そのくらい似ている」

「お姉ちゃん……」


 マリンが口元を押さえてうつむく。


「僕の顔はどっちかというと父親似だから。マリンだって思い出したくないだろう。家族4人でいた日のことを」

「そんなことないよ!」


 姉妹の体が重なった。

 マリンの方から飛びついて、イツキを押し倒したのである。


 サエコはアワアワしながら手で顔を隠した。

 その場にいられなくなり、ちょっとトイレ、と席を外す。


 これが姉妹か。

 ちょっと尊い、いや、かなり尊い。


 頬っぺたをニヤニヤさせながらサエコが戻ってくると、姉妹はまだハグしており、子猫みたいに甘えるマリンを、イツキが優しく受け止めている。


 やっぱり、イツキはお姉ちゃんなんだな〜。

 嫉妬しそうになったが、その対象がイツキなのか、マリンなのか、自分でも分からなかった。


「マリンは甘えん坊だな〜」

「だって、久しぶりのお姉ちゃんだもん」

「今の僕の体、バイト終わりで汚いのだが……」

「お姉ちゃんなら平気」

「やれやれ」


 そうだ、とマリンは体を起こす。

 カバンから取り出した例の茶封筒をテーブルに置いた。


「この家って敷金とか礼金は? すぐに出ていっちゃうと、ペナルティを受けちゃう?」

「いや、毎月家賃を手渡しする方針だから。一年縛りみたいなやつはない」

「じゃあさ、一緒に暮らそう! 頭金はこれ!」


 突拍子もない提案にサエコとイツキは、えっ⁉︎ と驚く。


 なんか悔しい!

 そりゃ、イツキとマリンは姉妹だから、一緒に暮らすのがベストだろうが、サエコだけ仲間外れみたいで嫌だ!


 そんな感情をサエコの表情から読み取ったらしく、


「ねぇ、マリン、良い提案があるのだけれども、あそこのお姉さんも巻き込んだら、もっと良い家に住めるよ。この辺で3LKくらいの物件も夢じゃないと思うんだよね」


 イツキが悪知恵を吹き込む。


「なるほど、今は全員がワンルームか1Kですものね。不経済ですよね」


 マリンも便乗する気満々だ。


「僕は洗濯機が欲しいな〜」

「私は大きな冷蔵庫が欲しいです」

「ちょっと、イツキ、マリンちゃん、そんなに軽々しく決めたら後悔するわよ。それに物件の契約主を誰にするとか、絶対に揉めるわよ」

「契約主はサエちんでしょう」

「だそうです」

「あのね……」


 口では嫌がりつつも、新しい共同生活を想像して胸が高鳴っており、サエコの言葉は弱々しい。


「サエちんみたいな上玉、逃がすわけないじゃん」

「姉に同感です」


 体のシルエットはそっくりな2人が、見事な連携プレーでサエコを部屋のコーナーに追い詰める。

 イツキ一人でも勝てないのに、マリンまで加わると逃げるのは絶望的だった。


「サエちん、もう離さないから。久しぶりにキスしよう」

「ちょっと、バカなの、イツキ。こんな昼間から盛りのついた猿みたいに」

「でも、体は欲しがっているよ」


 獲物を狙うような目にゾクっとして、サエコの心に期待のうずきが走ってしまう。


「マリンちゃんは彼氏がいるから。そんなこと、しないわよね」

「バカなの、サエちん。彼氏とかマリンの嘘に決まっているじゃん。マリンみたいな子が彼氏いるのにパパ活するわけないでしょう」


 むっか〜!

 体の芯まで熱が回ったときには、もう姉妹の手に捕まっていた。


「ちょっと、やめなさい!」


 抵抗するポーズを取ってみるが、本気じゃないことは2人に筒抜けだろう。


 どうしてこうなった。

 姉妹を和解させたかっただけなのに。

 このままだとサエコも巻き込んだ3人で同棲する流れになりそう。


「サエちん、もう諦めて」

「そうですよ、サエコさん。私からもお願いです」

「あんた達、人をおもちゃみたいに……」


 嬉しいやら、恥ずかしいやらで、サエコの頭は思考することを放棄しそうになる。


「私、サエコさんとキスしてみたかったのです……なんて言ったら幻滅しますかね」


 マリンが小悪魔みたいに笑うものだから、キャリアウーマンとしての尊厳はボロボロに砕け散ろうとしていた。

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