第25話
バーガー屋からの帰り道。
「こんな場所にサルビアの花が咲いているんだ」
イツキが小さな公園を指さして、吸い込まれるように入っていく。
サエコが迷っていると、さあ、おいで、と手招きしてきた。
「イツキって昔からサルビアが好きよね」
「そうだっけ?」
一緒にしゃがんでサルビアの花筒を吸ってみた。
最近は良い天気が続いていたせいか、シロップのように甘くておいしい。
『サルビアの花を見ると恋したくなる』
ずっと昔に教えてくれたセリフを思い出す。
イツキはまだ覚えているだろうか。
それとも忘れてしまったか。
前者だと嬉しいな。
「私は好きよ、サルビア」
「どうして?」
「思い出だから。これを見るたびに、遠い夏がよみがえってくるから」
「むむむ……」
イツキは困ったように後頭部をかきむしると、昇ったばかりの朝日に向かって目を細めた。
◆ ◆
けっきょく、サエコとイツキは徒歩10分くらいの距離に住むようになった。
すると不思議な現象が週に2回か3回は起こるのだ。
サエコが夜遅くに帰ってくると、玄関のところにレジ袋が置かれており、中からレトルト食品やお茶のボトルが出てくる。
半額シールが貼られているから、イツキがスーパーの特売品を買い漁って、勝手に侵入していると思われる。
しかも無造作に買っているわけではない。
カレーなら中辛とか、コーヒーなら微糖とか、サエコの好みを把握しているのが心憎い。
「お前はごんぎつねか」
一人で笑ってから食料品を
ペットボトルのほうじ茶だけは今夜飲みたくて枕元に置いておく。
おかえり。
そう言われたみたいで、毎夜、玄関を開けるのが楽しくなる。
今日は戦利品があるのかな、と。
イツキと和解できた恩恵は別のところでもあった。
純粋に仕事の調子が上向いたのである。
『おい、大島、もしかして身内に不幸でもあったのか?』
ナオヤから心配されるくらいパフォーマンスを落としていたサエコであるが、最近は完全に復調しており、以前のワーカホリックぶりを発揮している。
とはいえ職場で寝泊りするほどじゃない。
せいぜい1時間早く出社して、寝袋で寝息を立てているナオヤにモーニングコーヒーを届けるくらいだ。
周りから褒められる回数も増えた。
本当ならナオヤの失敗をフォローしたいのだけれども……。
う〜ん。
良くも悪くもロボットみたいな精密人間なのだ。
エラーやムダがほとんどない。
夕方の打ち合わせが終わり、タクシーで移動している最中も、ナオヤは平気な顔してノートPCを操作している。
サエコには無理だ。
車内でノートPCを触ると30秒で頭痛がする。
さらに60秒で吐き気が起こる。
「大島の今月の残業時間、そろそろヤバいだろう。今日は議事録を書いたら退社していいぞ。いや、退社してくれ」
ナオヤは財布を開いて一枚のカードをくれた。
「頑張っているご
何かと思いきや500円分のQUOカードである。
素直に嬉しい、少額だけれども。
500円分なら受け取りやすい。
「いいのですか、いただいても?」
「かまわない。次こそ使おうと思って、どんどんカードが溜まっていく。むしろ、もらってくれ」
「はい、ありがたく頂戴します」
サエコが両手で受け取った時、タクシーの運転手さんから、着きましたよ、お客さん、と声がかかる。
「俺はコンビニに寄っていくから」
ナオヤの姿が見えなくなってから、サエコは大きなため息をついた。
失敗した。
こんなに早く帰れるなら、今日マリンを食事に誘えばよかった。
今から連絡しちゃおうかな〜。
そう思ったけれども、向こうは身支度とか大変だろうし、きっと先約があるだろうし、確認することすら
いや、せめて連絡だけでも……。
思い立った時には指がメッセージを作文していた。
「突然の連絡でごめんね。サエコです。予定していた作業が一つなくなって、今日は早く帰れるのだけれども、もしかしてマリンちゃん、都合ついたりするかな? 久しぶりにご飯を食べに行きませんか? 念のために確認……」
送信しようとしたら、
「サエコさん」
ふいに声をかけられて肩がビクッとなる。
幻聴かと疑いそうになったが、ビルの横にケヤキの木が立っており、その下でマリンが待っていた。
鮮やかなオレンジ色のワンピースが風に吹かれている。
サエコと目が合った瞬間、マリンの美人顔がほころんだ。
嘘だ。
こんなに簡単に願いが叶うなんて都合が良すぎる。
でも、近づいてくるマリンの靴音は本物で、わずかに震える唇を手で隠してしまう。
「ど……どうしたの⁉︎」
「近くに用事があったので。サエコさんの職場を一目見たくて寄ってみました」
びゅうびゅうとうるさい風音が急に止まった。
都会とは思えぬ静けさにサエコの喉がごくりと鳴る。
「すみません、嘘です。もしかしたらサエコさんに会えるかも、なんて期待しちゃって」
サエコの指が送信ボタンに触れてしまう。
すぐにマリンの携帯が鳴って、持ち主の目を丸くさせた。
「えっ……これは……」
「ごめん、私も会いたかった」
「いや、でも、会えたらラッキーくらいの気持ちだったのに」
「でも会えちゃった。これって一種の運命かも」
「うぅぅぅ……恥ずかしい……」
「あはは……」
大学生に何いってんだ。
それに自分も勤務中だぞ。
サエコは自分を叱りつけてから、マリンをビルの一階にあるカフェへ連れていった。
「一個だけ資料を作らないといけないの! 30分……いや、20分で戻ってくるから! ここのカフェでドリンクを飲んでいてくれないかしら!」
「はぁ……かまいませんが……」
同意を取り付けたことに
「それじゃ、またね! 20分後だから!」
ここからは時間との勝負だ。
エレベーターの扉が閉まりかけていたので、すみません! 乗ります! と叫んで体をねじ込んだ。
こんな女、ドラマ以外で見たことない。
ゆっくりとドアが開く時間すらもどかしかった。
オフィスの席までダッシュして、さっそく議事録の仕上げに取りかかる。
サエコが一心不乱にタイプしていると、上司が近づいてきて、
「もしかして、大島さん、ヒマだったりする? 部署で使っているスイッチのファイアウォール設定を変更してほしいのだけれども……ああいうの、大島さんが得意だよね」
余計な仕事を投げようとしてきたので反射的に
私がヒマそうに見えますか! と吠える代わりに、
「ごめんなさい、明日やります! メールで変更箇所を教えてくれたら、明日の始業前にやりますから!」
一刀両断しておいた。
ナオヤと約束した議事録ができあがる。
軽く誤字チェックしてから帝斗グループの関係者に投げておいた。
これで今日のミッションはコンプリートだ。
マリンに会いたい。
1秒でも早く手をつなぎたい。
正直な心臓が内側からノックしてきて、もっと速く走れ、とサエコを急かしてくる。
マリンも同じ気持ちだった。
わざわざ会いに来てくれたという事実に、涙がこぼれそうなくらい嬉しくなる。
たとえ偽物でも……。
お金の関係だとしても……。
半月ぶりにマリンと一緒の時間を過ごせる。
そこにはお金以上の価値がある。
「マリンちゃん、お待たせ!」
マリンは手帳に走らせていたペンを置くと、読みやすいよう視線の高さまで持ち上げてくれた。
サエコは眼鏡のブリッジに触れてから内容に目を通してみる。
『サエコさんの職場のビルを見にきました。一階におしゃれなカフェがありました。とてもきれいなビルなので、こんな会社で働ける人は頭がいいのだろうな〜、と思いました』
マリンが、えへへ、と笑う。
サエコも釣られて少女みたいに照れ笑いした。
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