第18話
その日の午後、僕は一向に寝付けずかなえちゃんの休憩を待って電話をかけることにした。朝の一方的な行動に、僕は深く傷つき悩んだ。いっさいの理由もなく僕から駆け離れていった彼女の後姿を、追うことができなかった。有無を言わせない強い口調で、一人で行くと宣言したかなえちゃんを、どんな気持ちで追えばいいのか、分からなかったからだ。
「さっきはごめん。なにか不愉快にさせちゃったみたいで」と僕はかなえちゃんが職場に着くであろうタイミングにLINEを送った。送信を押す瞬間に指が震えた。緊張と不安が身体を支配している。
直ぐに既読が付き、「ううん、広斗くんが謝る事じゃないからね。今日はゆっくり休んで。おやすみなさい」と返ってきた。おやすみなさいといわれたところで自分の中に白い煙を立ちのぼらせる不完全燃焼のなにかがくすぶっていて、とてもじゃないが寝る気になれなかった。図書館へ向かおうか、と考え止めた。かなえちゃんの機嫌を損ねた原因をきちんと考えてから行動を起こすべきだ。そう結論が出ると左胸を打ちつけていた鼓動がいくらか和らぎ、身体の緊張がほんの少しほぐれた。僕たちは終わったわけじゃないと安堵した。
「どうやって話し合おう」と僕は自問する。休憩中、本来ならば食事をとる貴重な時間に僕と今朝の不愉快なやりとりについてLINEをするのは、ストレスを与えるだけじゃないか。だったら普段通りに会話したほうがまだいい。かなえちゃんの機嫌が悪くないことだけを確認できたら、寝ればいい。
そう考えていたはずだ。
「だからどうしてあんなこと言ったの」と相手の既読が付いた後でメッセージを消去したとしても、一度読み終わった小説のように、頭の中からその内容を消し去ることは難しい。
「なんでそんなに広斗くんが怒るわけ? わたしが何かしたのかな」と明らかに不機嫌な返事が届く。
「理由もなくひとりで行くなんてひどいじゃん」
「朝から来なくても平気だよって、送った。わたしの言うことを聞いてくれなかったのは広斗くんでしょ」
「そんなに会いたくなかった?」
「そんなこと言ってないでしょ!」と僕はかなえちゃんをかなり怒らせているらしい。
頭の中でこれまでのことを逡巡した。かなえちゃんは確かに、今日は雨も降ってるし、ひとりで平気だと言っていた。僕はそこを押し切って、いや、僕はどうしてもかなえちゃんに会いたかった。少しの時間でもそばに居たかった。ただそれだけなのに、彼女は僕の気持ちなど理解してくれていないようだ。恋人であるのに、一分一秒を共にしたいと思うことがわずらわしいのであるなら、それはもう嫌いの領域に足を踏みこんだのと同じことなんじゃないか?
「僕はただ、少しの時間だけでも、一緒にいたかったんだ。それが迷惑だったとしたら謝る」
「わたしだって一緒にいたい気持ちは同じだよ。でも広斗くんは大事なことを忘れてる」
「大事なこと?」僕は自分にとっての大事なことを思い浮かべた。一から十まで頭の中に並べたところで、かなえちゃんしか出てこず、混乱する。大事なのは君なんだけど、と言ってしまいたい。
「小説家になる夢は、どこに行っちゃったの」
なんだそんなことか、と僕は胸をなでおろした。「それならいま選考の結果を待ってるじゃないか」と返信した。
「そんなことじゃ小説家になんてなれないよ。なれたとしても続かない」
「どうしてそんなことが言えるの? 小説家でもない君が」
「一冊本が出せたら、広斗くんはそれで満足なの? 小説家として生きていくなら一本の作品に捉われずに、必死に書き続けていくべきじゃないかな。わたしに時間割いて小説を書けないんだったら、わたしは会わない」
なんて返せばいいんだろう、それが率直な感想だった。かなえちゃんと出会う前までの自分が遠い昔の思い出のような、懐かしい記憶と共によみがえる。何度も選考を落ち、初めて一次を通過したときの喜び、そして挫折。どんなに辛酸をなめたとしても諦めきれなかった。小説を今のいままで書き続けてきた、それをかなえちゃんは苦慮してくれていた。
「ごめん」かなえちゃんの言うとおりだ。僕の夢はかなえちゃんの夢でもある、そうやって二人は歩み始めたんじゃないか、それが大事なことだった。あまりにも好きになりすぎて、かなえちゃんの影に隠れてしまっていた小説家への道に僕は引き戻された。
「だから広斗くんは、ちゃんと小説を書いて」
「わかった。約束する」
僕たちは何とか前にすすめたようだ。お互いの不安や不満を吐き出すことは必ずしもマイナスとは限らない。改善点を見つけてその部分を直していけば、小説と同じように良くなる。少しでも前にすすめているなら、価値のあるやり取りだったに違いない。僕は最後に、「気付かせてくれてありがとう」と送り、布団に入った。
翌日、バイトが休みだったためか、かなえちゃんから、「家に遊びにおいでよ」と誘われた。昨日の今日でどういうつもりだったのか分からなかったが、断る理由も見つからない。かなえちゃんの家族に顔合わせするということは、そこまで考えると僕の心臓がドクンと高鳴った。これは一段階ステップアップするための、試練だ。
その後で、「うちの妹はすごくめんどくさい奴だからあんまり会わせたくないんだけど、お母さんが、どうせなら連れてきなよって言うもんだから」と、かなえちゃんは話してくれた。お母さん直々のお誘いであったことを知らされ、さら激しく鼓動が打ち鳴らされた。
彼女のお母さんによる彼氏の品さだめなのかと勘ぐってしまう。かなえちゃんが以前付き合っていたとされる人は既婚者だった。それを危惧したお母さんがみずから彼氏を見定めようと、そんなところかもしれない。
日暮れも早まり徐々に夕日が西の山陰に沈んでいく。このところ曇りが続いたせいか、空はすっきりと晴れているものの気温は秋らしい装いへと変化していた。樹木に茂った葉も色づきはじめ、紅葉が始まりだしている。もう少し天気が安定していたのなら春に行った高尾山へもう一度赴きたい、そう思えるような秋の夕暮れだった。
冷たい風が吹き、僕は首を小さく縮こませた。こんなに寒くなるのだったらマフラーでも巻いて来るべきだった。かなえちゃんの家に着いた。彼女の家は三階建ての建物で、桃色のアパートだった。各階に二部屋というシンプルな設計だ。
彼女の家は一階、向かって右側だった。インターフォンを押した。スピーカーが反応し、「はい」と応答あった。
「久慈です」
「え、もうそんな時間なの」明らかにかなえちゃんとは違う声、違う話し方だった。「もう九時なのかと思ったらまだ六時じゃん」
「え?」
「あ、もしかしておねーちゃんの彼氏さん」
「はい。久慈広斗です」
「あ、あたし妹の裕佳です。よろしくね」
意味もなく続くインターフォン越しのやり取りにどうしてよいのか困惑する。
「あの、かなえさんはいらっしゃいますか」
「おねーちゃんならいるよ。代ろうか?」
「ぜひお願いします」
「ちょっと待っててね」
プツとスピーカーが切れた。ちょっとの間待ってみる。そのままかなえちゃんが玄関に現れるものだとおもい待機していたが、一向にその気配がなかった。三十秒、四十五秒、一分と待ってみたが、誰も出てこない。ピンポーン、と僕は再びインターフォンを押した。
「はぁい」と間延びした声が返事した。妹さんだ。
「久慈です」
「あ、裕佳です」からかわれているのか、僕はさらに困惑する。これはかなえちゃんも承諾済みのからかいなのか。
「かなえさんに代わってもらえますか」僕はスマホを取り出し、LINEが来ていないことを確認する。いま外だから、という内容のメッセージなどは特にない。おそらく家の中にいるはずだ。
「うん、分かった。ちょっと待っててね」とまたスピーカーが切れ、しばしの沈黙が続いた。十五秒、いや二十秒たった辺りでドア越しにドタバタとした足音が聞こえてきた。
「広斗くん、ごめん」ドアが開きかなえちゃんが飛び出してきた。開口一番に飛び出したその言葉が意味するのは、妹への恨みだった。「あのバカ面白がって広斗くんをからかってみたいで」
よく聞けばかなえちゃんはお手洗いに立っていたらしく、そこのタイミング悪く? 僕がやってきたという。かなえちゃんの後ろから裕佳ちゃんが顔を出した。
「せっかく妹が気を利かせて誤魔化したのに、自分からおしっこしてたなんてバラすかね、ふつー」といたずらな笑みをこぼした。歳は二十歳と聞いていたがまだ十代のような瑞々しさがうかがえた。目鼻立ちもたしかにかなえちゃんに似ている部分もあり姉妹と言われたら、そんな感じがした、とも言えなくはない。ただひとつ、性格はまるで真逆なように思えたから、本当に姉妹なの、と口に出かかりそうになった。
「そのままわたしに教えればよかった話でしょ。いったん外に放置するとかありえない」
「知らない人は家に上げるな、は、古川家の掟でしょ」
「広斗くんは知り合いだから良いの」
「あたしは別に知り合いじゃないもん。あ、別におにーさんが嫌いとかそういうんじゃなくてさ、知り合いか知り合いじゃないかで言ったら、知り合いじゃないもんね?」と訊ねられ、話は伺ってました。と僕は律儀に答えた。
「ほらぁ、気を使わせちゃったじゃん。おねーちゃんのせいだからねー」
いつまで玄関前でこんなやり取りを続けるんだろう、そんな不安が頭をよぎる。いつもとは違う、まるで家族のようなかなえちゃんの姿に、僕は場違いな考えが頭に浮かんだ。
「ほらほら、喧嘩は止めて家にはいろうよ」と僕は無意識に二人に話しかけていた。
「おにーさんの家じゃないけどね」と裕佳ちゃんは鋭く目をほそめた。口元は緩んで口角が上がっていたことも踏まえれば、怒っていない、と僕は感じた。初めて顔を合わせた瞬間から照れ隠しのような雰囲気があった。あえてふざけてみせることでお互いの障壁を取り払おうとしてくれていたような、そんな気がしてた。
「あんたが威張れるような身分でもないでしょ、稼ぎも少ない癖に」かなえちゃんは未だに裕佳ちゃんの行動が許せなかったらしく眉間にしわが寄っていた。
家の中に招かれるとリビングの中央に白い電気カーペットが敷かれ、その上には気が早いとも言えないようなコタツがあった。それぞれ四辺にあわせて小さな色違いのクッションが並べられて、左右の二つに関しては中央にくぼみがついていた。
「どーぞ」と裕佳ちゃんが手前のクッションに僕をうながした。裕佳ちゃんはコタツの右側に、かなえちゃんは左側に座った。
「ちょっと狭いとおもうけど、我慢してね」とかなえちゃんはバツが悪そうにいった。考えてみれば女性三人の家なのだからこぢんまりとしていても問題はない。僕みたいに身長180Cmの男が一人でもくると、彼女たちにとっては手狭にならざるをえない。
「ううん、僕のことに気を使わなくても良いから、裕佳ちゃんもあんまり気にしないでね」
「じゃああたしは普段通りにノーブラで居てもおにーさんは平気? エロい目でわたしのこと見ないでくれる?」と裕佳ちゃんは素っ気なくはいった。どこまでが冗談でどこまでが本気なのか、僕は判断ができない。危うく視線が彼女の胸に行きかけ、僕は慌てて左隣のかなえちゃんに視線を逃した。
「あんたマジでぶっ飛ばすよ」かなえちゃんは妹を睨みつけ、メドゥーサのように、あわよくばそのまま石化してしまえという強い念のようなものも感じられた。「本当にやめてくれる。広斗くんはわたしの彼氏なの。あんたとは関係ないから」
「そんな目くじら立てなくてもあたしは寝取ったりしないから」裕佳ちゃんは上機嫌に笑った。もしかするとこうして人をからかうことが彼女の生きがいなのかもしれない、と僕は、徐々にだが妹の裕佳ちゃんを理解しはじめた。
「お母さんはまだお仕事中なの?」これ以上の険悪なムードは僕も息苦しいので、話題をふった。まだ六時を過ぎた頃なので、もうそろそろ帰宅の時間かも知れない。主たるお母さんに娘の彼氏たる自分が、初対面にもかかわらず、「お帰りなさい」と出迎えるのもなかなかにして奇妙な話だ。
「もうすぐで帰って来るって、連絡あった」裕佳ちゃんが教えてくれた。姉のお叱りを屁とも思っていないようすでもあった。強心臓だ。僕はちょっと彼女が怖くなってきた。
「でも緊張するな。なんて話したらいいのか、分からない」
「うちの親はあっけらかんとしてるから、たぶん平気だよ。怒られるわけじゃないから気楽にしていてね」安らぎのこもったかなえちゃんの笑みに、僕は安心感をおぼえた。かなえちゃんがそういうなら、間違いない。
「でもお酒飲むと豹変するからね。気を付けて」いつの間にかスマホを取り出していじっていた裕佳ちゃんはそう呟いた。不安を煽るだとか、冗談を言っているようすもない。
かなえちゃんに視線を移すと、少し困った顔をして、苦笑いをした。これは本当なんだと僕は理解した。
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