第20話
冬
枕元に置いたスマホに手を伸ばすと、時刻は午前五時半を少し過ぎた頃だった。二日酔いというほどでもなく、むしろ頭の中は冴えていた。昨日摂取したアルコールがドーパミンに変貌したのではないかというくらいに、体内にやる気というエネルギーが蓄積されている感覚だった。準備万端、いくらでも小説が書ける、そんな希望に満ちた朝だった。
隣で小さな寝息を立てている女性が幻ではないか、かるく頬に触れてみた。ほのかに伝わる体温は熱くもなく冷たくもない、僕の指先と変わらぬ熱を帯びていた。いたずらに頬を突くと嫌がる素振りが可愛かった。まだもう少し寝かせてあげよう、今日、彼女は仕事なのだから。布団から出ると自分が薄着だったことに気付いた。昨夜はお楽しみだったご様子でと頭の中で声が響いた。お泊りが初めてだったせいか、時間に縛られることなく肌を重ね合わせていた。彼女の髪が僕の胸に降りかかりくすぐったく身体をよじった。それを楽しむかのように彼女は髪をふり乱し執拗に僕の肌を髪でなでまわした。
これが幸福なのかと人生の頂点といえるような時間を過ごせた。笑いあい見つめあい、手と手を繋ぎ合わせて遅くまで語り合った。愛についてじゃなく、小説について熱っぽく語り合い、いつの間にか時間は午前を過ぎていた。
窓の外はまだ暗い、はずなのに雲が蛍光色のように薄明るく、日の出ていないこの時間帯をぼんやりと浮かび上がらせていた。雪の降りしきる冬の夜のようでもある。着実に時は流れていて冬はもう目の前にある。そういえば僕たちの誕生日もあと一か月と間近に迫っていた。誕生日前には新人賞に投稿した小説の二次選考が発表される。さすがに過度の期待は背負っていないが淡い期待は常に僕の中にはあった。このまま順調に進んでくれれば、何もかも、僕の無意味ともいえたこの十年間が報われる。そんな都合の良いストーリーを頭に思い描いていた。
手のひらに触れた窓には手形がくっきりと残っていた。外の寒さがガラス越しでも分かった。部屋の空気も心なしか乾燥しているような気がした。喉の渇きにようやくそこで気が付いた僕は、冷蔵庫から麦茶を取り出す。一杯、コップになみなみと注ぎ、一気に飲み干す。続けて、今度は半分まで注いで、ゆっくりと、一口ずつ味わいながら飲む。昨日の楽しかった晩餐が、コップに注がれた麦茶の表面に投影された。かなえちゃんのお母さんの明るい笑顔には、彼女の年代にしてはやや多めのしわが刻まれていた。女手一つで娘たちを育て上げたその功績のようなものだとおもう。妹の裕佳ちゃんのいたずらっぽい笑顔は見る人に元気を与えてくれる。古川家はそれぞれの役割みたいなものがあって、まるで演劇でも見ているかのような先の読めない駆け引きを、彼女たちは繰り広げるのだ。
何も変わらない、僕がいなくてもきっと彼女たちはああやって日々を過ごして行くはずだ。何もかも呑み込んでしまいそうなくらいのエネルギーとパワーがあの場所に存在していた。僕のこのモチベーションも、きっと彼女たちのおかげかも知れない。気持ちを前向きにさせてくれる不思議な家族、それが古川家の人たちだ。
僕は麦茶を飲み干し空になったコップを流しに置いた。
「ひろとー」と声がした。かなえちゃんだ、と気づくのに少し時間が掛かった。呼びなれた、「広斗くん」ではなく慣れない呼び方だったので、僕の中で恥ずかしさとぎこちなさの両方が芽生えた。一歩踏み出した、というべきかも知れない。いつだってこの関係は、かなえちゃんがリードをみせる。高尾山の時もそうだ、彼女から手を握ってきたではないか。
「広斗」また呼ばれた。今度はよりはっきりと僕を呼ぶ声だった。そんなに僕が恋しいのかとつい顔が緩んでしまった。まいったなぁ。と喜ぶ僕に、「広斗!」と青天の霹靂のようにかなえちゃんの、僕の名を叫ぶ声がした。『誰かがかなえを連れ去ろうとしている』そんな焦燥感が僕を包んだ、引き戸二枚向こう側でかなえが僕に助けを求めている。たった二枚の薄っぺらな引き戸があるだけなのに、ひどく遠いような気がし、今度はめまいが僕を襲った。
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