第29話

「この時間から出かけるのって大丈夫なわけ」裕佳が呆れた声を出した。夕方の日暮れのせまった時間帯にわたしが洋子さんの家に行くといったからだ。今日は洋子さんのお誕生日、わたし達のときにお祝いをして頂いたのに自分だけ何もできないのは不公平なので、お祝いさせてもらうことにした。

「せっかくルヴィとお出かけできるようになったんだもん。訓練も兼ねて、よ」わたしはハーネスをルヴィに取り付ける。どうやらルヴィも仕事か、と身体をぶるぶると震わせて気合を入れてる様子だった。

「だからってこの時間は危ないんじゃないの? せめて、いつものタクシー使って行けばいいじゃん」

「今日はお休みなんだって。それにたいして遠くないから、やっぱ歩いていく」わたしはマフラーを巻いて手袋をはめた。

「強情なんだから」見送ってくれるのか裕佳は三和土までやってきた。

「あんたには言われたくない」自分の靴を手探りで探し当てわたしは、じゃあ行ってきます。と言い残して家を出た。

 外は思っていたよりも寒くなかった。しっかりとした防寒対策のおかげか、肌は外気にさらされずに済んでいた。わたしよりもルヴィの方が寒いかと思い、「こんな寒いなか連れ出してごめんね」と身体を撫でた。しっかりとした体躯はしなやかでもあり、柔軟でもあった。短い毛皮からも伝わってくる温かな体温、短い呼吸がこの小さな体の中で共鳴するかのように、全身に行きわたっていた。気にしなくても良いわよ。と語りかけてくるような安堵感がある。目が見えなくなって最初の頃はひどく落ち込むことがあった。一人では何もできず、家族の手を借りなければ外も歩けない、そんな状況が辛かった。人に迷惑を掛けて生きていくことを、受け入れるのに時間が掛かった。家族と広斗といっしょに初めて盲導犬協会に赴いたとき、「この子たちを頼りにしてください」と職員の方にいわれたとき、わたしはやっと這い上がることができた。訓練は厳しかったけど、新米コンビは晴れて日の下を自由に歩くことを許された。

 緩やかな坂道を下り、わたしたちはおそらく薄暗い細い道に差し掛かったころだ。そういえばここで広斗とよく待ち合わせをしていたっけ、とわたしは思い出す。周りには民家はあるものの密集しているわけでもなく自由な間隔を開けて点々と家が建っていた。もう少し進むと公園があるはずだ。

ルヴィの歩みがゆっくりになったのはその公園に差し掛かったときだった。不穏に絡まったような、重たい足取りに感じられた。

「どうしたの、ルヴィ」

「どうしたって、お前を待ってたんだよ。ようやく会えた、二年ぶりだな。メッセージも送ったのにどうして返事を寄越さないんだ」と男の声が前方から、突然飛んできた。聞き覚えがあった、部屋の片隅の埃のように些細なものだったけど、頭の片隅に確かに残っていた。元カレだ。

 ルヴィが低く唸っていた。盲導犬は他人に吠えないよう訓練されてもいるが、どうやら目の前にいる相手を他人とは認識していないらしい。その点で非常に賢いなと場違いな考えをわたしは巡らせた。

「どうしたんだよ黙って、珍しいな犬の散歩中か?」

「何か、わたしにご用ですか」

「随分とよそよそしいじゃねーか。いつからそんな他人行儀になったんだ」と彼は声に苛立ちを含ませた。そうやって自分の思い通りにいかないとすぐ不機嫌になる彼が、わたしは好きではなかった。そもそも好きになってしまったことが間違いだった。

「既に赤の他人だと思っていたんですけど、わたしの思い違いでしょうか」

「かなえもそんなつまんない意地張ってないで、また二人でやり直そう。なっ」と平然と言った彼が、わたしに近づこうとしたのか、ルヴィがさらに唸り声を強めた。「なんだよこの犬は、人を威嚇するとか躾がなってねーんじゃねーか」

「あなたの方が、よほどたちが悪いわよ。既婚者のくせにこんなことまでして恥ずかしくないわけ?」呆れてものも言えないとはいうけれど、わたしは呆れすぎて思ったことが口をついて出てしまった。言った後で相手が逆上することを、忘れていたいことに後悔した。

「偉そうな口をききやがって」とさらに相手は口調を荒げた。じりじりと捩じり寄ってくる気配がルヴィを通して伝わってくる。ここでルヴィに危害を加えられたらと、わたしは危険を感じハーネスを後ろへと強く引いた。「そんなにその犬が可愛いのか、だったら大切なものから順番に壊していかなきゃな。お前が俺の家庭を壊したように」

「壊した? わたしが?」壊すという乱暴であり、今の彼なら実行可能な言葉に、私は足が震えた。助けを呼ぼうにも身体が震えて声が出ない。

「ていうかお前なんでサングラスなんかしてるんだ、しかも犬のリードにしてはずいぶん丈夫そうなものを使ってるな」

「関係ないでしょ、もうあっち行って」わたしはいよいよ立っていられなくなり、ルヴィにしがみ付くようにへたり込んだ。

「おいおいおいおい、そんなことでお前が犯した罪は消せないだろ。その償いは俺と結婚するほかないんだよ。お前は俺の家庭を壊した、妻と子は女狐のお前を恨んで家を出ていった。苦しかったよ、なんの非のない家庭をぐちゃぐちゃに壊した挙句に、お前は俺を捨てていった。この苦しみがお前には理解できるのか」

「全部自分で蒔いた種でしょ」わたしは気づかないうちに涙を流していた。相手の言うことが本当なら、確かにわたしにも非がある、けれど全てがわたしのせいのように言われたことにひどく傷ついた。

「お前はまだ分かってない、世間知らずの小娘が大人に歯向かうなんて、馬鹿なことだ」相手はわたしの傍まで近づいてきて、わたしの髪を乱暴に引っ張った。伸びきったゴムのように首の筋がピンと張り、痛みが走った。小さな悲鳴をわたしは上げた。

「痛いッ、放してよ」腕を掴んで強引に引きはがそうとしてもうまく力が入らない。

「ん、なんだかなえ、お前、目がおかしいぞ」顔に相手の息が吹きかかってきた。あまりの嫌悪感からわたしは顔をそむけた。他人にまじまじと顔を見られることに加えて、目のことまで言われると、辛くなる。「お前、もしかして、目が見えないのか」

「だったら、なによ」

「ったく俺はどこまで不運なんだ。寄りを戻そうとしていた相手が、こんな風になっちまったとはな。普段からの行いが悪いから罰が当たったんだぞ」相手は嘲るように冷たく言い放った。先ほどまでの恐怖はどこかへと消えて、今度は悔しさで身体中が震えていた。

「あんたは人をなんだと思ってるわけ」

「さぁな、こんなんじゃ相手にするだけ無駄だと、今は思ってるよ。なんでこんなのに執着していたのか疑問を抱くぜ」

「ほんとクズ。部屋の片隅の埃くらいにしか思ってなかったけど、今日改めて思った、クズ野郎だって」

「泣きながらそんなこと言ってもな、小学生程度の悪口にしか聞こえねーんだよ。お前もお前の親も全く躾がなってない。俺が正してやらないとな」と相手は偽善者ぶった。自分の愚かさを棚に上げて、相手を見下してばかりのこの男には、もはや倫理観は存在していない。自分の気の赴くままにやりたいことをする、それだけの人間になり下がっている。

相手はまたわたしの髪を引っ張り上げた。鷲掴みにしてひねる、ぶちぶちと髪が抜ける。わたしには抵抗する術がなかった。そのとき、遠くから微かに人の声が風にのって聞こえてきた。話し声、にしては抑揚の効いたリズムのある話し方にも聞こえる。

「ちっ」と舌打ちをして相手がわたしの髪から手を解いた。投げ捨てるように、乱雑に。「妙な事を喋るんじゃねーぞ」と脅すように小さくわたしに囁いた。

 微かに聞こえていたその声は、近づいて来てようやく、ひとりの人間が発して声だと判明した。しかも男だ。電話で会話しているのかと思えば、何やら歌を唄っていた。聞き覚えのある歌詞は、あの映画の曲だ。

「おや、どうされました?」男性が立ち止まり、声を掛けてきた。うずくまるわたしを見て異変に気付いたのかもしれない。ここでわたしが助けを求めれば、何とかしてくれるだろうか。

「いえ彼女は僕の恋人で、気分が悪いのか、いま休憩をしているんです」さっきまでの冷淡な声とは違い、穏やかで誠実な人のような雰囲気を作り出していた。変わり身の早さに、わたしは更なる恐怖を覚えた。DVなどの痕跡を残さない人間は極端な二面性を自ら作り出せる器用さがあるのと同じだ。

「へぇ、そうなんだ。へい彼女、大丈夫かい?」馴れ馴れしさの表れか、既婚男に対しては無関心のような応対がわたしの心をさらに不安にさせた。大きなトラブルになりそうな予感すらした。

「あのさ、人の話、聞いてた? この子は俺の彼女なんだよ、無関係なあんたはどっか行ってくれ」

「無関係だなんて人聞きが悪いな」と男性は答えた。既婚男の言う通り、無関係なようにも思えていたが、知り合いなのだろうか。

「うだうだ言ってないで、さっさとどっか行けよ」と既婚男はついに業を煮やしたのか、あらぶった口調にかわった。続いて男性の小さなうめき声が聞こえた。男性に対して手を出したみたいだった。

「おいおい、穏便ならざる行為だな、そりゃ」

「痛い目に遭いたくなかったらさっさと消えろよ」既婚男性は相手がやり返してこないことに調子づいたのか、態度を大きくした。

「まぁ、もういいよな。俺の嫁も、ダチもダチの嫁も、その娘とは深い関係なんだよ。これ以上、お前みたいなやつをのさばらせておいたら、俺が殺される」

「お前、なんなんだ。かなえと、どんな関係なんだよ」

「仲良く、ガッチリと、握手した関係だよ」イチ、ニ、サン。まさにそんな感じのセリフだった。それが引き金となり、あたりの空気が圧縮され、鋭いつむじ風がわたしの周りに吹いた。衣服の継ぎ目がブチブチと裂ける音とドサッという重たいものが地面に落ちる音が続けざまに起こった。そして気の抜けるような情けない声が、わたしの耳に届いた。

「安心しろ、襟は離さないでおいてやったから息はできるはずだ」と相沢さんは息も乱さず何事もなかったかのように言った。

「相沢さん」知り合いが窮地を助けてくれた安堵から、わたしは留めていた恐怖心のダムを決壊させた。怖かった、怖くても走って逃げることもできず、叫んで助けを呼ぶこともできなかった。あふれる涙が自分の脆さを物語ってもいるようで、顔をあげることができなかった。

「悪かったな、もっと早く気付いてあげられたらよかった」相沢さんが優しく肩を撫でてくれた。わたしは頭を振った。「俺も和夫の家に行く途中だったし、同じ道でよかった」

「わたし、何もできなくて、怖くて怖くて」

「誰だって怖いさ、だからって自分を責める必要はないよ。こいつは警察に突き出しとくから広斗をさっさと呼び出してくれ」

「でも、広斗は、今日はバイトで」

「こんなことになってんだ、後で知ったらアイツは怒るだろ」こんな時まで相手の心配してんのか、と呆れたような声だった。どこまで行ってもお前たちは変わんねーな、と心の声が聞こえてくる。

 わたしはガラケーを取り出す、いままでのスマホでは操作ができないので、大きなボタンが三つ、中央に配列された携帯電話をわたしは新たに契約していた。大きなボタンの一番右側を押し、通話ボタンを押す。耳に携帯電話を押し付ける、瞬時にコール音が鳴り、一回、二回、三回と続いた。

『もしもし、どうしたの』寝起きの広斗の声だった。番号からわたしだと認識できてる辺りは寝ぼけてはいない。逆になんて説明すればいいのか、わたしは困る。

 そんなわたしを見かねたのか、相沢さんが携帯電話をわたしから取り上げた。「おい広斗、いま俺とかなえちゃんは一緒に居る。悔しかったらさっさとこい場所は」と事実とは無関係な内容で話し出し現在位置を、相沢さんのスマホから広斗のスマホへと転送した。

 ものの十分で広斗は現場にやってきた。声を掛けられたかと思えば、きつく抱きしめられたことにわたしはビックリした。

「何があったんだ」息を切らせた広斗は、いくらか興奮している様子だった。無理もない、わたし達の周りには警察官がいるのだから。

「あいつがかなえちゃんを困らせた」相沢さんの声が飛んだ方向に既婚男はいるらしかった。静かな住宅地でなんの騒ぎだと、近所の人たちの喧騒がわたしの耳にまで届いてくる。

「怪我は?」

「大丈夫、ちょっと首が痛かったけど」

「首が痛いって、掴まれたのか」広斗の声に怒りが滲んだ。

「大丈夫だ、その分、俺があいつを痛めつけてやった。俺はこうみえても高校時代までは柔道部でエースだった」

「柔道部のエースってどんな役割なんですか」

「柔道部のエースは相手の心をへし折ることだ。あいつは二度とかなえちゃんには近づけない」

「どうしてですか?」私は訊ねた。

「投げ飛ばした後に行ってやった。『お前の受け身は下手だ。今度は投げ飛ばして頭から落としてやる』ってな」

「心をへし折るって言ってた割に、物理的に相手の首をへし折ろうとしてるじゃないですか。言っていることが矛盾してますよ」

「でもそんなことしなくても、もう来ない気がします。わたしの母にはパンチくらって、相沢さんには投げ飛ばされて、結局警察沙汰にまでなって、もう懲りたんじゃないですか」わたしは言ときでも好きになった相手が、人生の歯車を自ら狂わしていく有様を、まざまざと見せつけられていた。いまはどんな表情なのか分からないけど、たぶん酷く落ち込んでいるような気はしていた。かける言葉もない、わたしのことを恨んでいたのかそれともまだ好意を抱いていたのかも分からない、わたしが好きになっていた頃の彼には、もう二度と出会えないのかと思うと、多少なり心が痛む。それでもわたしは前を向くだけだ、今は広斗がそばにいる。わたしは誰かに責任を擦り付けるような生き方だけは、したくない。

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