第30話

「あの、かなえは居ないの?」僕は古川家までやってきた。夜勤明け、今日の夜もバイトがあるため休息に入るような時間だったが、どうしてもかなえに会いたくなりふらつく足を叱咤してここまで歩いてきた。二月に入り、寒さと温かさの狭間を、気温は行ったり来たりを繰り返していた。もうすぐで春がやって来る、そんな気配も感じられるような爽やかな朝だった。

「もーさー、朝っぱらからレディたちの家に来るなんてどうかしてるよ、お兄さん」裕佳ちゃんも深夜の居酒屋で働いている身なので、お互いにこの時間にゆっくりと過ごせないのはゆゆしき問題なのだ。

「ごめん。でも携帯電話の電源も切れてるし、繋がらないんだ」

「LINEも一人じゃ返せないしねー」

「どこに行ったのか裕佳ちゃんは聞いてる?」

「あららー、彼氏に行き先も告げずにどっか行っちゃうのは、男女の関係としては先行き不透明だよね」楽しそうに話す裕佳ちゃんを見て、人の不幸を楽しむ人がいるとすれば、こういう人なのかもしれないと僕は思った。

「じゃあどこに行ったのか知らないんだね」

「知ってるよ。ただ教えて欲しくないとも言われてるから、どうしようかね」裕佳ちゃんはしたり顔をみせ下唇をなめた。

「どうして教えられないようなところへ行ったんだろう」僕は訝しがり、最近のやり取りを思い起こす。何か機嫌を損ねるようなこと、怒らせるようなことに、思い当たる節はなかった。

「それは乙女心でしょ。女には知られたくないことも、たまにはあるもんだよ。今日は大人しく帰って寝るべきだよ、お兄さん」

「そうだね、どうせなら図書館にでも行って本でも借りてこようかな」

「それは止めた方がいいよ、さっさと帰って寝なって」なぜか焦りだした裕佳ちゃんをみて、僕はかなえの行き先を理解した。

「そうだね、大人しく帰ることにするよ」図書館にいるなら心配するようなことじゃない、と僕は胸をなでおろした。

「ところで小説は書けているのかね」

「ぼちぼちね、書くテーマがなかなか定まらないけど」

「テーマって例えばどんなこと」

「作者が読者にどんなことを伝えたいか、命の尊さだったり家族愛だったり友情だったり」

「在り来たりだね。そんなのばっかりじゃん世の中のドラマも映画も」

「在り来たりでも見せ方を変えて趣向を凝らして伝えることはできるんだ。だからエンターテインメントはなくならない」

「あたしはBLが好きだけど、それも趣向を凝らした結果なの?」

「それは寛容的な社会になったから、受け入れられ始めたのかも知れないね。誰かを好きになるってことは自然なことだし」

「お兄さんは恋愛小説を書かないの? ごく自然なことなんでしょ」

「僕に恋愛を書くテクニックがない」

「恋愛のテクニックってそもそもなんなの、恋愛小説を書く人ってそんなに恋愛が達者なの?」

「うーん、僕にはやっぱり恋愛は分からない」

「それが彼女のいる男が云う言葉とは、驚愕だわ」

「じゃあ裕佳ちゃんはどう思ってるんだ、恋愛について」

「お姉ちゃんが信頼してるのはお兄さんだけだよ。目が見えなくなってもお兄さんにすべてを任せてる。それがお姉ちゃんの恋愛の証」

「すべてを、僕に」僕は裕佳ちゃんお言葉を繰り返す。

「よく聞くくだらないカップルの話しとかあるじゃん。『わたしの方が好き、いや俺の方がもっと好きだ』みたいな、どっちの方が相手を好きかなんてのは目に見えるほど単純じゃないんだから、比べようがないよね。それよかお姉ちゃんみたいに、全幅の信頼を置ける相手がいることの方が、目に見えるような気がするんだよね。恋愛って母子関係にも似てる、赤ちゃんが全幅の信頼を置けるのは母親だけでしょ。いまのお姉ちゃんもお兄さんだけを頼ってるんだよ」

「頼られているのは、悪い気がしない」僕は意味もなく鼻を掻いた。人間は恥ずかしくなると顔の一部を触れる習性がある。まさにそれだ。

「ま、頼りがいがあるかどうかは未知な部分があるけどね。このまま小説家になれなくてずっとコンビニのバイトを続けていたんじゃ結婚させるわけにもいかないからね」と裕佳ちゃんは保護者にでもなったかのように、胸中を語った。

「それは、何としても叶える。たとえ時間が掛かったとしてもその夢だけは、絶対に」

「ま、それならいいと思うんだけどね。んじゃそろそろ眠たいから、お兄さんも早く帰って寝ることをお勧めするよ」と裕佳ちゃんは玄関の扉をしめた。

 初めは小さな夢のような気がしていた。一人で追いかけていた十年間、諦めかけていたそのとき、一人の女性に出会った。絵に描いたような出会いだった。お互いの職場でその出会いはすでに始まっていた。もしかしたら二人の夢へのスタートは、すでにそこで切られていたのかもしれない。一人で歩んでいた道に、彼女が一緒に歩き出し、少しずつ大きな輪となって、周りのみんなも応援してくれるようになっていた。ここで僕が旗を降ろすわけにはいかない、何があってもこの夢を叶えなければ、かなえの愛に応えられない。

 僕は裕佳ちゃんに言われたとおりに家に帰ることにした。またここで道をそれて遠回りしようものなら、かなえをがっかりさせそうな気もする。かなえが居る限り、僕の夢は必ず叶う。裕佳ちゃんの言葉を借りるなら、かなえは僕の母親のような存在なのかも知れない。君がいなきゃダメなんだ、と弱気な僕は、いつでも背後にいる。


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