第31話

「それで、私はなにをすればいいのかしら?」わたしの真正面から洋子さんが透きとおった声が聞こえてくる。わたしは前日のうちに洋子さんと館長に話をし、図書館の小会議室を借りることを許してもらった。ひどく個人的な要件にもかかわらず二人は快諾してくれたし、洋子さんにいたっては協力もしてくれている。

「あの、わたしの合図で、録音と停止をしてくれると助かります」わたしはカバンから今は使っていないスマホを取り出した。

「なにを録音するの」洋子さんが訊ねてきた。

 わたしは少し恥ずかしくなり、「秘密です」とだけ答えた。

「もしかして録音してるとき、私は聞いてちゃダメ?」

「ううん、聞いててもらって構わないです。ただ、聞かれてるって思ったら、なんか恥ずかしいかも」

「きっと大切なことなんだよね」

「わたしの個人的なことに洋子さんを付き合わせちゃって、申し訳ないです」

「あら、ずいぶん他人行儀なこと言っちゃうのね」洋子さんは、水臭いじゃないとも言った。「私とかなえちゃんの仲でしょ、どんなお願いでも聞いちゃうわよ」

「そういってくれると思って洋子さんだけに、手伝って貰いに来ました」わたしは頭を掻く。こんなにも姉のような頼りがいのある存在がいて、わたしは幸せだ。

「じゃあ準備を始めましょう」わたしが持ってきたスマホを洋子さんにわたしロックを解除してもらった。

「そうだ、ひとつ録音する前にパスコードを変えて欲しかったんです」わたしは大切なことを思い出し洋子さんにパスコードの設定をお願いした。

「今のパスコードはかなえちゃんのお誕生日だったよね。変えちゃっても平気なの?」

「変えておかなきゃ簡単に開けちゃうんで。それに万が一、わたしに何か起きたときの為だから、簡単に開けるようじゃまずいんです」わたしが口にした万が一、というのが何に当てはまるのか自分でも分からなかった。元カレのときは運が良かったのかもしれない。

 彼は警察の取り調べに対し、奥さんとの婚姻関係を解消したことを明かしていた。わたしに話していたことは全て事実であった。そのうえで離婚の原因がわたしにあったと恨み節、その責任を追及するために話し合いに来たとも話していた。下手をすれば殺されていたのかもしれない。あのとき相沢さんが通りかからなければ、今頃は…。

「例の出来事が、気にかかってるのね」洋子さんは沈痛な声をだした。わたしは至って気にしてないのだが、洋子さんの誕生日を祝うために向かった先の出来事だったので、責任を感じていたらしい。

「洋子さんは別に悪くないですからね。ただ怖いんです。なにもかも壊れてしまいそうになることが」

「かなえちゃんには、広斗くんがいるでしょ?」

「あの日から、広斗の顔が、ぼんやりとしか思い浮かばなくなっちゃって。その前まで目が見えなくてもハッキリと浮んでいた広斗の顔が、霧にかかったみたいにぼんやりとしか見えなくなっちゃったんです。元カレの顔が浮かんできて、広斗の声すらかき消そうとするんです」

「それだけ、精神的なショックを受けたのよ。かなえちゃんが悪いわけじゃない」

「それでもっ、大好きな人の顔を忘れていくのは辛いんです。どんなに近くに居ても、笑顔も泣き顔も、思い出せないのは、辛いんです。いま覚えているうちに、広斗の顔を思い浮かべて、メッセージを残したいんです」胸が息苦しくなる。いつでも会える場所にいるのに、ひどく遠い存在のような気もする。あなたと触れていても表情の見えない悲しさは日に日に増していく。声を聴いているだけで泣きだしそうになる。どんなに優しい言葉を言ってくれたとしても、あなたが誰であるのかを忘れてしまいそうな、恐怖に襲われる。

「分かった。ただね、広斗くんの顔が思い出せなくなったとしても、広斗くんはかなえちゃんを抱きしめるだけよ。心全体で包み込んでくれるのが、彼の優しいところでしょ」

「はい! そこが大好きなところです」わたしは胸を張った。誰にでも自慢できる彼の良いところ、それは誰よりもわたしを愛してくれているところだ。わたしも広斗を誰よりも愛している。

「準備は万端だから、心の準備ができたら教えてね」洋子さんはわたしの隣に座り背中をさすってくれた。床に伏せたままのルヴィの息遣いが聞こえてくる。人間のすることには特に興味はない、けれどわたしの為に頑張ってくれているルヴィは幸せなのだろうか。個々の幸せはどんな形でどんな未来を夢みているのだろうか。わたしは頭の中で幸福な未来を描いてみた。どこからわたしを言うものを想像してみよう。小学生か、または中学生か、苦労した学生時代、片想いしていた先輩や放課後に告白をしてきた後輩が脳裏をよぎる。青春の一ページとしてこれは胸にしまっておこう。

 短大生や社会人となってわたしの人生は一変したか、と聞かれればそうでもない、ただ代り映えのない日々だったといえるし刺激も少ない。わたしには本があればそれでよかった。就職して夢を描くよりも堅実に過ごして行く、欲を出さずに我を出さずに、それだけを守って生きていたような気がする。週の合間に、深夜の読書を楽しみ、コンビニに夜食を買い出しに行き、それをつまみながらまた読書を楽しむ。自分なりには最高な人生を過ごせていると感じていた。本を通じて出会った人もいる、大好きな本を介しての出会いはわたしの思考回路を惑わせた。正常な判断も下せないほどに舞い上がらせた。

 まともな恋愛をしたことのなかったわたしに、大人の誘惑が手を差し伸べてきた。ダメだと分かっていながらつられてしまったのは精神的に未熟だったから…。もう一度人生をやり直せるなら一番最初は広斗がいい、広斗でなきゃダメなんだ。彼と一緒に追いかけている夢が叶うその日まで、二人で歩んでいきたい。それがわたしの描く、幸せな未来だ。

「お願いします」わたしはちいさく頷いた。浅く長い呼吸をひとつ、吐く。

「オッケー」洋子さんの返事と共に、スマホのボイスメモの録音開始音が鳴る。

「えー、こんにちは。ってなんか他人行儀だよね、こんな風に話すのは慣れてなくてお聞き苦しいかもしれませんが、どうにか私の話しに耳を傾けてください」

 喋ること五分、伝えたいことは全て伝えた。合図を送ると洋子さんは鼻をすすり、泣いているようだった。

「目が見えないと逆に集中できちゃう不思議って何ですかね。洋子さんに聞かれているけど全然気にならなかったです」

「私もかなえちゃんの言葉に聴き入っちゃってた。とても素敵だとおもうな、このメッセージは」

「そんな早く聞く機会が訪れても、困りますけどね」

「私は直ぐにでも聞かせてあげたいと思うけどな」

「広斗がこんなことを言ってたんです。筆が乗って書いたときの小説は、時間をおいて見返すといまいちだって。伝えたい想いって瞬間最大風速的なものなのかもしれないですよね。感情が伴っているからこそ説得力があるって言うか」

「かなえちゃんの言葉なら、いつどんな時でも広斗くんには響くと思うわよ」

「響いてくれたら、もっと夢に向かって邁進してくれるかな。今回のことで余計な心配を掛けちゃって、集中できてないような気もするんです。今日も図書館に来ることを言わないで来たから、知ったらきっと、なんで教えてくれなかったんだって怒るような気がして」

「確かに何も言わないでフラッと出かけられちゃうのは心配になるけど、そこはお互いの信頼関係に委ねるしかないわよ」トンと背中を叩かれ、洋子さんは、考えすぎないでね、といった。

 このことを黙っておくべきか、もしくは話しておくべきか、わたしに何かあったときのメッセージを録音しに来たといえば納得してくれるだろうか。そんなことを考えるくらいなら僕がずっとそばにいるから、と決断をしてくれるのかな。広斗からのプロポーズを尊重するなら、小説家になるまでは二人で気を引き締めて、追いかけた方がいい。お互いの距離が近すぎると夢を見失いがちになる。手の掛かるわたしが身近にいるだけで妨げになることは、分かりきっている。だから夢が叶うまでは二人一緒になることを避けた。

「広斗なら、わたしの行動にあれこれ詮索するようなことはしないと思うし、後ろめたい事じゃなければ目もつむってくれるとおもう」どこから湧きあがるのか分からないけど、そんな自信がふつふつと自分の中で生まれてくる。あれだけ自分のことを心配してくれる人は、世界中のどこを探しても居ないからだ。

「次にお母さんと裕佳ちゃんの分を録音しなきゃね」洋子さんはテキパキとした声で言った。要領を得てわたしのしたいことを先導してくれる、まさに白バイガールのような頼もしさだった。

「はい、今度は家族向けで、お願いします」わたしは頭を下げた。


「気を付けて帰ってね」洋子さんは図書館の外までわたしを見送りに出てくれた。司書さんが利用者を見送るというのはなんとも贅沢な話だった。

「本当に今日はありがとうございました。また遊びに来てもいいですか」わたしは訊ねる。

「かなえちゃんはここのスタッフなんだから当然でしょ」その言葉に少しの偽りも感じなかったのが、嬉しかった。

「じゃあまた今度」わたしは踵を返し歩き出した。そして立ち止まる。「洋子さん、今日の空ってどんな感じですか?」

「ん? 空?」洋子さんの声が宙に登っていくように、頭上の方へとあがった。きっと上を向いているに違いない。「そうだなぁ、気の早い春の空って感じかな。蒼天」

「そうてん?」

「蒼い天の空って書いて、蒼天。春の空って意味。まだまだ寒いけど、空を見上げていると季節も忘れちゃいそうなくらいに透き通っていて綺麗よ」

「じゃあ写真に収めなきゃ」とわたしは首に下げたデジタルカメラを起動させた。手の中で細かな振動がつたわってくる。小動物を持っているような温かさは微塵もなく、無機質な感触だけがある。今は武骨なコイツがわたしの目の代わりだ。

 空に向けてシャッターを切る。カメラが振動する。振動する必要もないのに撮ったという合図を送るためにカメラは震えた。モニターを確認する術はない、このまま保存されてどんどん写真はたまっていく。あらためて見返すときは広斗が写真も見てどんなものが映っているかを言葉にして伝えてくれる。それもささやかな幸福だ。広斗なら今日みたいな空をどんな風に表現するだろう。小説家なるものは言葉を巧みに使っていろんなものを表現しなくてはならない。海にしても山にしても季節や気候でその姿は大きく変わる。今日の空は、わたしのイメージでは、高尾山で見たあの空のイメージが浮んでいた。


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