第28話

「やぁ初めまして」と僕は新米に声を掛けた。声を掛けられた相手は素知らぬ顔をして僕をじっと見つめていた。「こいつ、不愛想だ」

「コイツじゃないよ、ちゃんと名前があるんだから。ルヴィって言う素敵な名前が」ベンチに座るかなえの足元には盲導犬のルヴィが僕に見向きもせずに伏せていた。ラブラドールレトリーバーの雌で稲穂のような黄金色の毛艶が目を引く犬だった。

 年も明けて、お正月ムードも下火に差し掛かったころ、僕たちは図書館の近くにある公園へ赴いていた。冬の公園はひどく殺風景で閑散としている。いくら天気が良くても気温が上がらなければ人は外には出てこない。僕たちはそんな時だからこそ、あえて図書館近くの公園までやってきた。訓練も兼ねてだ。

「だいぶ慣れてきた感じだね。施設での訓練も大変だったろ」かなえの自宅から公園までの道のりを僕は観察していた。白杖を持って歩いていたときよりも、数段足取りは安定していて離れて歩いていても安心して見守ることができた。盲導犬は盲者を目的地に誘導するわけじゃない、あくまで安全に歩行することをサポートするだけであり、ナビゲーターではない。かなえの記憶を頼りに道順を盲導犬に伝え歩行をサポートしてもらう。

「自分のことだから、弱音なんか吐いていられない」その表情は以前のかなえと遜色ないくらいに自信が戻っていた。

「新しいパートナーも出来たしな」僕は新米であるルヴィを労った。初めての主となる人もいわば新人だ。お互いに新人だと通常の仕事なら支障をきたしてもおかしくはない。商品の詰め忘れなどザラじゃない。何事もなくここまでやってこれたのはきっと二人の訓練の成果だと思う。

「盲導犬って本当に賢くてびっくりする。こうやってお利口にいつまでも座ってるし」

「何なら小説でも書かせてみようか」僕は意地悪くいってみた。才能がある奴を妬ましく思ってしまうのは、アマチュア小説家にはありがちなことだ。

「そうやって有利な条件で優越感に浸るなんて、広斗は卑屈すぎる。犬にまで嫉妬しないで」ムスッとした顔を見せ、かなえは舌をだした。

「冗談だよ」ただ僕は、かなえと腕を組んで歩ける機会が減ってしまったことに、不満を募らせていた。あえてそれは口に出さない。

「もしかして、ルヴィがいることで、腕組んで歩けなくなったって不満かなにか?」

「鋭い」やっぱりかなえには読心術が備わっているんじゃないかと、疑いたくなる。「どうしてそうだと思ったの」

「だって、わたしがそうだから。広斗と腕組んで歩きたいもん。でもずっと広斗がそばにいてくれる訳じゃないから、わたし一人でも大丈夫なように、ルヴィを頼っていかないと」

「そう思っていてくれるなら、良いんだ」いつでも一緒というわけにはいかない。そんな暮らしができるには目にしたことのないような大金を稼がなきゃならない、宝くじを当てるか、売れっ子の小説家になるか、株で儲けるか、選択肢は少ない。

「こうして、ここで二人きりでいると、初めて話した場所なんだってあのときの風景が蘇ってくる感じするね」

 公園に着いたとき、示し合わせるでもなく僕とかなえはこのベンチに腰を下ろした。公共の場で椅子に座るのは居心地の悪さが目につくが、このベンチだけは教室で自分の席に座るような、愛着と安心感があった。

「思い出話でも、する?」僕はかなえの肩を引き寄せた。あの頃とは違い、季節は変わった。変わったのは、季節だけじゃないけど。

「今を生きてるから、面白い話じゃない限りは、別にいいかなぁ。って広斗との思い出を軽視してるわけじゃないよ。ここで話した内容も、全部ちゃんと覚えてる」コツンと頭をあててかなえが呟いた。鼻の先に彼女の髪が通り過ぎると、甘い香りがよぎった。

「でも思い出って、どんな時に振り返るべきなんだろう」と僕はこの場所に来ると、不穏な気持ちに包まる。僕の前でかなえが身体を崩したあの瞬間だ。思えばあれが病気の前ぶれだったのかもしれない。

「その人への愛を確認したいとき、かな。たくさん思い出を引っ張り出して、ばら撒いて悲しくなるくらいに囲まれていたい」

「悪い思い出でも?」

「悪い思い出なんかあった?」初耳だ、と言わんばかりの様子でかなえが聞いてきた。

「ケンカしたこともあったけど」

「ケンカはしたけど、わたし達のいまの関係は良好だとおもう。自分に非のあったケンカは引きずっちゃうものだよね」と悪びれもせずかなえは言う。

「あぁ、そーですよ。あれは僕が完全に悪かったですよ」

「あー、開き直った」僕の反応は正しかったのか、かなえは笑った。

 年月という越えられない壁に挑むには、些細な思い出もこぼさないくらいに大切にしていくことで、僕は支えられていた。かなえは、「たいしたことじゃないよ」と言うかもしれないが、僕には一分一秒も逃したくない大切なシーンの連続だった。君と出会ってからの月日は、僕の歩んできた十年間を超越するくらい、濃縮された時間だ。

「大好きだよ」と僕はかなえを抱き寄せた。

「なぁに、急に」と戸惑いながらも、かなえは僕の背に手を回してくる。

「先の見えない不安に立ち向かうにはさ、かなえが絶対に必要なんだ」僕の声が耳をくすぐったのか、かなえは首を小さくすくめた。

「先の見えない不安?」わたしは目の前すら見えないよ、とかなえはおどけてみせた。

「小説家になれるかどうかってこと」僕は少し吐き出す息を弱めて、声の音を小さくした。

「また弱音ですかぁ」

「この不安からは、どうしたって逃げられないよ」

「逃げる必要もないよ。立ち向かって、乗り越えればいいんだもん。どんな高い山の向こう側にも、人が住んでる。誰かがその山を越えて向こう側に行ったって証拠でしょ。人は必ずその山を越えられる」

「もしかしたらその誰かは、ぐるっと山を迂回したのかも知れない」

「その迂回だって立派な目的達成だもん、山を越えずして目的を達成できるならそれに越したことないでしょ。新人賞が取れなくてもいろんな方法で小説家になる道はあると思うんだよね。だから迷わず広斗は小説を書き続けてくれたらいい。わたしはずっとそばで見守っているから」背中に回された腕に力がこもったのを僕は感じた。かなえの決意の表れのようにも思えた。どんなことがあろうとも、二人の絆は揺るがない。

「人間って不思議なものだよね。大切な人がいると逆に脆くなるなんて」

「じゃあ、いなくなってあげよっか」

「バカなこと言うなよ」

「わたしの方が無理だよ。だって、この温もりだけは死んでも忘れたくない」

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