第7話
「似合わないなぁ」
自分らしくない事をしたと、顔から火が噴き出しそうなくらい恥ずかしくなった。
「おつまみないなら買いに行こうか」と時計を見て母に訊ねたまでは良い。もしかしたら久慈さんがいるかもしれないし、病院に行った報告やお礼もちゃんとしたかった、そんな淡い期待があった。じゃあお願いするわ、と母から頂いたきっかけを生かすため、わたしは頭をフル回転させた。
押し付けがましくなく、自然な感じでお互いの連絡を交換できれば一番いい。でも相手は仕事中だし他のお客さんがいたらゆっくり話してる時間もない。ならばわたしのLINEのIDを渡せばいいんだ、という結論は直ぐに出た。
必要のなくなったレシートがあったのを思い出し、ペンを走らせた。あとはそれを手渡す、勇気だ。
わたしの中で、ふつふつと湧きあがる想いがあった。パズルのようないびつな形のピースたちがピタピタとはめ込まれていく不思議な感覚だ。
考えもしなかった、お互いに意識せずに既に面識を持っていた。わたし達は小説が好きだった。彼は、夜な夜なコンビニに午後ティーとポテチを買いに来る奇妙な客が図書館司書だったことに気付いた。わたしも図書館に投書されていた吠えるクジラさんが彼だと気付いた。彼は小説家を目指して新人賞に応募をしていること。
そして、なによりも大きなピースをわたし一人が握っていた。
ガマ口財布の中に残っていたレシートを取り出す。これは休みの日にコンビニに深夜買いに行ったときのレシートだ。ボールペンで自分のフルネームを書く。そして名前をローマ字で書きその末尾に誕生日四桁を羅列する。わたしのLINEのIDだ。察しの良い久慈さんなら、わたしの誕生日が同じことに気付くだろうし、一応の確認はしてくると思う。「あのIDの数字は、誕生日?」と。
そわそわとした時間が続き、読書に集中することも、それを諦めて眠りに付くこともできなかった。コンビニで働く久慈さんがLINEの検索をいつしてくれるのか分からなかった。
休憩時間はいつだろう。時刻は日付が変わる間際まで迫っていた。明日の朝にでも確認すればいいのに気楽に待たせてくれないのは、意識をしてしまっているからかもしれない。そのときスマホが鳴った、LINEからの通知だった。開くと友達追加のリクエストが届いていた。アカウント名はクジラ、たぶん久慈さんだ。追加ボタンを押してトークを開くとわたしは、「友達追加ありがとうございます」と素早く打ち込んだ。既読が付くと直ぐに返事が返ってくる。
「起こしてしまいましたか? 夜分遅くになってしまいごめんなさい。直ぐに仕事に戻るのでまた明日にでも」と丁寧な言葉が並んだ。「おやすみなさい」とさらに届いた。
わたしは寝てたとも寝るとも言っていないのに久慈さんは気を使ったのか、最初のやり取りは会話もせずに終わってしまった。少し物足りないけど、仕事中なんだからしょうがない、わたしは布団にもぐり込んだ。そしてすぐに睡魔に襲われていった。
日曜日の仕事は大変だ、そんな思い込みも二年を過ぎた今になっては特別なことでもなくなった。平日とは違い、人々の動きは目まぐるしく変わり、図書館には人々があふれている。児童書コーナーも子供たちの遊び場となり喧騒が聞こえてくる。成人図書コーナーでは椅子で居眠りをする人も散見する。そんな姿を見るたびにわたしはため息が尽きなかった。せめて本を読みたい人に席を譲ってほしいとわたしはよく嘆いていた。
受付業務を行いながらロビーを見渡すと意外な人物が図書館に入ってきた。久慈さんだ。返却カウンターにそのままやって来る。わたしもちょうど手が空いた、「お疲れ様でした」と声を掛けた。
「全然疲れてないですよ」と久慈さんは首を振った。「不思議と力がみなぎってきたから」
「そんなこと言っても、なにも何ですからね」わたしは久慈さんが持ってきた本を受け取り返却を受け付けた。二冊とはいえ三日ほどで読み終えるにはずいぶん集中して読書をしていたに違いない。「読むの早いですね。面白かったですか?」と訊ねた。
「まぁまぁかな。もっと面白かった小説の方が、残念ながら多い」
「同感です」とわたしは笑った。
小説というものを面白い面白くないに、分類する作業はとても曖昧だとおもう。終わりよければすべてよしという格言があるように、味気のない無味のストーリーだとしても綺麗に終わるお話というのは印象が良かった。
「今日お昼は外で食べますか?」と外を指さし久慈さんが聞いてきた。あいにく外は曇り空で風も冷たい。花見をするには絶好とは言えない。しかし遠足を延期するほどのものでもないと花見は決行されるべきだとわたしは思った。桜の花の命は有限なのだから。
「公園は混んでるかもしれないですよ」
「公園じゃなくてサイゼリヤでもどうかなって」
「奢りなら、考えときます」
まさか本気だとは思わなかった。冗談のつもりだったのだが、「もちろんそのつもりだよ」と真剣な眼差しだったからには、断る言葉も頭には浮かんでこなかった。
細かな氷がグラスの中で小気味の良い音を鳴らす。久慈さんのグラスの表面には汗のように水滴が浮んでいた。
「そんなに冷たいのばっかり飲んでたら、身体冷やしますよ」
「僕は暑がりなんでこれくらいがちょうどいいんです」とストローから口を離したかと思えば、再び口を付けた。
「暑さの本番はまだ先です。今から本領発揮したら身がもたないですよ」わたしは注文した半熟卵のミラノ風ドリアをスプーンですくった。「いただきまーす」
「半熟卵おいしいですよね」久慈さんは自分のカルボナーラにパルメザンチーズを粉雪のように降らせていた。
「でもわたし、卵は一日半分までって決められていて。食べ過ぎるとアレルギー反応が出ちゃうから」
「そいつはまずい。半熟じゃなくて半分タマゴじゃなきゃ」と久慈さんはカルボナーラを見つめて苦笑する。「そういえばこれにも卵が使われてる」
「よく食べに来るんですか?」ランチ時もあってか主婦や年配者が各テーブルに固まって談笑をしている。値段もリーズナブル、ドリンクバーもあって長居をするお客さんはこぞってここにやって来る。
「たまに、小説を書きに来るんだ」
「そういえば、まだ小説の感想を言ってなかったですね」とわたしはグラスに入った水を飲み言った。日付の変わる直前にLINEが繋がりわたしは眠りに付いた。今朝はバタバタと仕事に向かう準備をし、慌ただしく家を出た。そのためお互いにこれといった会話はまだできてなかった。
「読んでくれたの?」
「わたしから読ませて下さいって頼んだんですから、そりゃ読みますよ」紙ナプキンで口端を拭いて姿勢を正す。「率直に言うと、面白かったです。広義のミステリーって枠なら全然ありだと思う。だけどもうちょっと深みのあるお話ができたらもっといいかな」
「良かった、つまらないって言われたらどうしようかと思った」久慈さん安堵を浮かべ、パスタをまた頬張った。
「でも」とわたしは声のトーンを落とした。
「でも?」久慈さんはパスタを喉に詰まらせたように苦しげな表情に変わった。いま彼の頭の中では不安が過っているに違いない。
「文章が長いんです。久慈さんの文章って、句点まで息が続かないのが多いかな。わたし的にだけど、女の人が読むにはもう少し一つの文章を短く端的に書いた方が読みやすいかもしれないって思いました。だから洋子さんと、あの日、わたしの隣で受付をしていた人とね、クジラさんは肺活量が多いから息が続くんだろうね、ってお話してたんです」こんな話、本人を前にしてするものじゃないかなと思いつつも、つい口が滑ってしまった。けれど当の本人は冷静に話を聞いて、何度か小さく頷いた。
「そっか、確かに言われてみればそうだったかもしれない。まえに選考を通った小説は口数が少ない主人公を語り手として書いたんだ。だから短く思考を伝えようって考えながら書いてた。古川さんの指摘は的を射ているかもしれない」例えるなら、水を得た魚のようだった。
わたしの指摘は答えのない問題を解くようなもので、むしろ今よりも遠いところへ誘導する誤った信号を送った可能性すらある。それを的を射ていると妙に納得してもらっても、わたしは困る。
「ちょっと待って。本気で言ってるんですか? 素人の私の言うことなんて当てにならないですよ」
「古川さんはたくさん小説を読んでる。その人の直感で僕の文章は読みにくいって感じたのなら、それは正しいよ。恥ずかしいけど、自分で書いていて、それに気づけないんじゃまだまだ僕も未熟だ」
「半熟ですよ、たぶん」とわたしはドリアの中心に落とされたタマゴの半分をスプーンですくった。「半熟でも美味しいのに、わたしが食べていいのは、このひと掬すくいだけだなんて。久慈さんの書いた小説だってこうして知り合わなかったら、わたしは読むことさえできなかったんですよ。夢を持った人たちの、ほんの一握りの人たちが夢を叶えて、そのまた一握りの人たちの作品をわたしは読める。わたしの食も趣味も、良いとこ半分までよって決められてるみたいで悲しいです」
「約束できるか分からないし、いつになるかも分からないけど、とびきりの小説を書くから、最初の読者になってください」
「良く分からないお願いですけど、小説が出来るまで、こうやってたまに食事をおごってくださいね」とスプーンの上に乗った半熟卵を、わたしは頬張った。
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