第8話
「久慈さんなんかありました?」納品されてきた商品のパンを棚に並べながら松下君は言った。年齢は古川さんとだいたい同じだったはず。元気は良いのだが、やる気に欠ける、そんな声だ。
「なんかってなんだよ。曖昧だな」
「だって妙にやる気あるじゃないですか。いま午前四時っすよ。一番眠い時間に、なんで張り切れるんすか」
「別にいつもと変わらないよ」と僕はぶっきらぼうに答えた。他人への詮索はあまり好ましいものじゃない。他者への興味本位だけで物事を知りたがるのは、ときに残虐な行為だと知った。それは一時間ほど前のことだった。
「どうしたんですか。まだ起きてるなんて珍しい」と僕はスマホ越しに慌てふためいていた。休憩時間になりLINEを確認すると古川さんからメッセージが届いていた。休憩になったら教えてください、と。言われるまでもなく僕は返信に気付いたら必ず返すと決めていた。送ってすぐに既読が付いた時点で、これはいつもと違うぞ、と胸のあたりがざわついた。電話できますか? の一言が送られてきて僕は上着を羽織るやいなや店外に出ていた。
「ビックリしました。どうしたんですか。まだ起きてるなんて珍しい」
「だって、寝れないんだもん」と舌が回らないような口調で古川さんが喋った。想像するにこれは、酔っているといったほうが正しいのかもしれない。
「寝れないって、何かあったの?」落ちつき払ったような声で僕は訊ねた。いつもの彼女のようすとは違い、何かがあったようにしか思えず、聞かずにはいられなかった。
「知らない番号から突然ショートメールが届いたんです」
「嫌がらせ?」
「ある意味いやがらせです」古川さんは今にも泣きだしそうな声だった。「元気にしてるか、って。知らない番号だったから無視してたら、付き合ってた人のことを忘れるなんてお前は薄情だなって」
「元カレ、ってこと?」僕は思わず上ずった声をあげていた。彼女と今まで恋愛の話をしたことがなかったので唐突な恋愛話に驚いた。
「そういうことになっちゃいますね。好きになっちゃった人だから恋愛のくくりになります」
「それで、なんて返したの」どうしてそんなことを聞いたのか、僕自身、分からなかった。
「何も返しませんでした。怖くなってすぐに着信拒否にしたし」感情が堰を切ったかのように爆発し、彼女はわんわんと泣き出した。よほど怖かったのか、それとも薄情だと言われたことに深く傷ついたのか、僕は繰り返し、「大丈夫だよ」と声を掛けるほかなった。
古川さんの感情の昂ぶりが収まったタイミングを見計らって、「古川さんは何も悪くないよ」と僕はいった。
「悪い女です」彼女と憮然と答えた。怒ってるというよりも、嫌気がさしたような投げやりな言い方だった。「相手は妻子持ちでした。不倫してたんですよ、わたし」
「不倫、かぁ」僕は古川さんの笑みを思い浮かべた。図書館でみかけた彼女の屈託のない笑みがズタズタに切り裂かれるような、錯覚を覚えた。彼女の中でそれは消えない傷としていまだに残っている。蒸し返すような行いを、その男は執拗にしている。同じ男として許しがたい行為でもあった。
「サイテーですよね、わたしって」同情を誘ったのか、それとも自己嫌悪だったのか僕は判断がつかなかった。事情はともかくとして、不倫の事実は残る。けれどそこから前向きに進もうとしている彼女の歩みを止めようとしている男には、僕なりの嫌悪感を抱いた。
「最低なのは君じゃない。その男だ」走れメロスに例えるところの、必ず、かの邪知暴虐の不倫男を除かねばならぬと決意した。といったところだ。僕は声を荒げた。「僕の知っている古川さんは」
「古川さんは?」古川さんは、じっと声を潜めて聞き入っているようすだった。
「誰にも優しい」
「元カレには優しくないです」涙声ながらも笑いながら彼女は訂正した。
「そいつには優しくなくていい。僕にとっては、穏やかでまっすぐな女の子だし、元気をもらってる。小説を頑張って書こうってやる気にさせてくれてる」
「わたしの効用は一度きりじゃなくて、ずっと続いてるんですか」すでに涙は引いてアルコールも一緒に流れたのか、天に晴れ間がさしたような、澄んだ声に聞こえた。
「かなえさんが、いると、本当に頑張れるから」
「そうやって男の人は、弱ってる女子を口説くんですかねぇ」僕の勘違いだったのか、やっぱり彼女の酔いはさめてなかった。いたずらっぽく笑っている。
「口説くとか、そういうんじゃなくて」そう言うんです。本当は。
「かなえって呼んでくれたじゃないですか。さん付けだったけど」
「それだけ頭がしっかりしてるなら、もう大丈夫そうだね」僕は誤魔化すように話をそらした。
「これからはせめて、ちゃん付けで呼んでください」
それから僕たちは休憩時間ぎりぎりまで電話をした。
「松下君はさ、なんでコンビニで深夜バイトしてるの」最後のパンを棚に置き終えると、僕は訊ねた。
「それ、久慈さんが聞きますか? ナチュラルすぎてビビりますよ」怪訝そうにオリコンを畳みながら松下君は答えた。ガチャガチャと大きな音をならすがそれを気に掛けるような客は、いまは居ない。
「人それぞれ働く理由はあるから。僕は生活のために働く、でも君は大学生だし実家暮らしだろ。バイトくらいなら深夜じゃなくても良いんじゃないか」
「バンド組んでて、ほしい楽器を買うためにお金貯めなきゃいけないんすよ。深夜って楽だし時給も良いし割に合うじゃないっすか」
「バンドでプロを目指してるんだ?」
「まさか」きつい冗談だと笑い、松下君は腹を抱えた。「いまどきそんな大それた夢を持ったやつがどこにいるんすか。映画かなんかっすかそれ」
ここにいるんだよ、とは言えず、「まぁ、たまには居るんじゃないかな」と察せられないように言葉を濁す。
「真剣に目指してる奴って、もっと情熱があって人生にいっさいの手を抜かない奴のことを指すと思いますよ。あぁ、だからか。休憩から戻ってきた久慈さんもいきなりやる気出したからそういう人たちと同じなのかと思いましたよ。ダンコたる決意、ってのが芽生えたのかと」有名なバスケット漫画の一節を抜きだして、松下君は握りこぶしを振り上げた。
僕は聞き流すこともできず、「さぁね」とまたとぼけたフリをする。松下君の言う通り、その断固たる決意の後押しをしてくれたのは、間違いなく彼女だった。
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