第9話

 朝から降り続いた雨は、道路を濡らし、建物の外壁を濡らし、わたしのお気に入りのカバンを濡らした。


 これだから、とわたしは憎々しげに、事務所の窓から雨雲を見上げた。昨晩の出来事を思い出すと、悲しみと、怒りと、嬉しさと、気恥ずかしさの順繰りで最後には必ず顔に熱がこもる。あんな醜態を久慈さんに晒してしまったことへの後悔が、いまだに止まない。


「かなえちゃん、上の空でどうしたの」心配そうに洋子さんが声を掛けてきた。書類の整理中なのかバインダーを抱えていた。


「実は昨日、元カレからメッセージが届きました」気分がのらず、わたしはお弁当にも箸が付けられない状況だった。


「え、あの男から?」洋子さんの穏やかな表情が一変し、今日の空模様のようにどんよりとした重たい表情へと変わった。「なんでいまさら」


「ホント、なんなんでしょうね。男って生き物が、わたしには分かりません」


「まだ、気になっているの」と探るように洋子さんは聞いてきた。わたしは、「まさか」と答え昨日の出来事を洋子さんに話した。


「久慈さんと元カレって、ちょっと被るところがあって。別に元カレのことを引きずってる訳じゃないのに、いろいろ思い出しちゃったんですよ。そんな自分が嫌になって久慈さんに話聞いてもらってたら、やっぱり久慈さんは優しくて」とわたしはため息を一つ、ついた。


「そんなようすじゃ、心配するほどのことでもなさそうね」クスクスと洋子さんは笑いながら、「今回はかなえちゃんのお母さんの出番はないみたいね」と言った。


「あれは鮮烈なデビューでしたからね」とわたしは眉間にしわを寄せた。


 一年半前、すでに図書館に勤めていたわたしは、その日の選書作業がおもった以上に長引き、洋子さんと一緒に図書館を出たのが八時を過ぎた頃だった。


辺りがすっかり暗くなり、職員出入り口のドアを開けると、「よぉ、遅かったじゃないか」と突然声が聞こえた。その声には、薄暗闇に潜み気配を殺して、獲物をねらう暗殺者のような不気味さがあり、それが元カレだと気付くまでに数秒かかった。


「何やってんの、びっくりさせないでよ」わたしは驚きついでにバッグを落としそうになった。隣にいた洋子さんも怪訝な顔でわたしと彼を交互にみていた。


「お知り合い?」と彼の異様な雰囲気を察してか、洋子さんが割って入った。


「元、知り合いです」わたしはキッパリと答えた。知り合ったきっかけはブックカフェだった。


 わたしはその頃、読書の環境を変えたくて月に数回ブックカフェに通っていた。そこで何度か顔を合わせたのが元カレだった。相手の読んでいた本に見覚えがあり話しかけたのが過ちだったと、今になって後悔してる。その後はお互いの本の趣味や、ビブリオバトルのようなことをし、時間を共にすることが増えていった。本について語る彼は目が輝いていたような気がする、自分に酔っているような、冷静に考えたらそうだった。ただのロマンチスト。プライベートなことに踏み込んでこなかったのが、逆にわたしの心の警戒心を解いてしまっていた。


 あるとき映画に誘われた。お互いが贔屓にしていた作家の原作が映画になっていたため、わたしは迷うことなく誘いに乗った。チケットも既に二枚分を購入したと聞かされていて、これはもうデートに近い、とわたしも薄々ながらに感じていた。映画館は隣の区にある大型商業施設内にあり、電車で二駅分だけだったのでてっきりわたしは電車で行くものだと思っていた。当日になって、「車で迎えに行くよ」と呼び出されたのがスーパーの駐車場だった。


 ミニバンタイプの7人乗り。後部座席のごみ箱には誰が食べたのか、お菓子の包装が乱雑に放り込まれていた。リセッシュやらファブリーズやらがドアポケットに差し込まれていてとても清潔に保たれてるとは言い難い車内だった。その時、いくらかの疑問がわたしの頭をよぎった。言い出すタイミングも見計らっていた。まさか、とは思っていたが、既婚者でありながら独身女性を映画に誘うような倫理観のない男には見えなかったからだ。まぁ既婚者でも映画を一緒にみるだけなら、と気の緩みも多少はあったかも知れない。映画を見終わると、わたしはその映画の余韻に呑まれていた。帰りは一人で、電車で帰宅しようと心構えをしていたのに、いつの間にか足は自然と車へと向かっていた。車に乗り込む矢先で、彼に唇を奪われていた。


 そのあとに、ようやく既婚者であることを打ち明けてきた。何度となく離れようとした、その都度、わたしへの愛の深さなどと彼は口にし、とうとうと説明をした。いつか妻と別れるから、愛しているのは君だけなんだ、といった決まり文句もなければ、帰宅の時間がくれば、そろそろ帰ろうか、とあっさり言いだす始末だった。彼の愛は時間とともに比例する。長い時間を彼と過ごせないのはわたしへの愛が小さいからだ。家族のへの強大な愛へ打ち勝つことなどできるはずもなかった。


 関係を持ってから半年後、わたしは連絡を断った。着信を拒否し、LINEもブロックした。そうして数週間後に彼が図書館に現れた。




「急に連絡がつかなくなって、心配したぞ」彼は、見る限り心配などしてるようすはなかった。むしろ不満をため込んだシャボン玉のように、触れれば破裂してしまいそうな、危険な雰囲気を醸し出していた。


「何しに、来たの」声が恐怖でうわずった。わたしは震えそうになる手をギュッと握りしめた。


「何しにって、決まってるだろ。かなえに会いに来たんだよ」その言葉どおりに、彼の執拗で粘り気のある声が、わたしの背筋を凍らせた。


「わたしはもう会うつもりはない、お互いに離れた方が良い」わたしは冷静に、自分に落ち着けと言い聞かせながら話した。あまり過激な物言いだと彼を刺激し、何をしでかすか分からなかった。


「どなたか存じ上げませんが、かなえちゃんもそういってますし、お引き取りなさったらどうですか」わたしと彼の間に洋子さんがわり込んだ。


「あんたには関係ないだろ」彼は乱暴に洋子さんを押しのけると、洋子さんの小さな悲鳴が闇夜に響いた。


「ちょっと、なにすんのよ!」彼を睨みつけわたしは叫んだ。やはりこの男は異常だ、そうシグナルを全身に駆けめぐらせ、この状況を脱する方法を必死に考えていた。男の目は正気を失い、憎悪を宿していた。


「かなえ、なにちんたらやってんのよ、さっさと帰るわよ」薄暗闇の中から、今度は女性の声が聞こえた。「あーあんたか、うちの娘をたぶらかしてたっていう男は」


「お母さん!」どうしてここに、と思うよりもわたしの中で安堵のほうが勝った。いくらこっちが女だけとはいっても、男一人にたいして女性三人では歯向かえるはずがない。


「こんなことしかできない男はね、そのうち家族にも見捨てられるよ」母は男の方を一瞥すると吐き捨てるように言い放った。家でも聞かないような刺々しさから、本気で怒っているのだなと、わたしには分かった。


「う、うるさいっ」男は母に向き直り、肩を大きく揺らし息遣いを荒くした。口角に泡をつけ大きく目を見開いた。わたしは反射的に叫んでいた。


「お母さん! 危ない!」


 その声がきっかけになったのかは、分からなかった。男は母に向かって掴みかかろうとした。


「あんたみたいな半端モンに、娘はやらないよ」母は腰を捻り、渾身の右ストレートを男の顔面に見舞った。母のパンチは見事に顎をとらえ、脳を激しく揺さぶられた男はあっけなく地面へと崩れていった。


「だ、だいじょうぶ?」わたしは母にかけ寄った。


「図書館で借りた護身術の本が役に立ったわ」と笑った母だったけど、身体が小刻みに震えているのを、わたしは気づかないフリをした。




「あのときはさすがにビビりましたね。もうあんな経験はこりごりです」わたしは目頭をおさえて深いため息をついた。


「でもお母様のデビュー戦は、鮮烈なノックアウト劇で幕を閉じたじゃない。貴重な体験でもあったわ」大型新人のデビュー戦を見守ったかのような口ぶりで、洋子さんは感嘆した。


「あのあと、わたしはこっぴどく叱られましたけどね」


 あの時どうして母がいたのか、詳しいことは教えてもらえなかった。付き合ってる人がいると告白したことはなかったし、帰りが遅くなったり、出かける回数が増えたことに対して不審に思っていたとおもう。何も言わない娘の変化だけを見過ごすことなく危険を察知してくれた母は、わたしのまぎれもない救世主だった。


「今度なにかあれば、その時は警察に相談しましょうね」


「何もない事を祈るばかりです」わたしは肩を落とした。食欲がわかず箸もおいてしまった。そこにスマホの通知音が鳴った。久慈さんからのLINEだった。


『これ持って帰ってきたんだけど、めちゃ美味いから今度買ってあげるね』とコンビニスイーツの写真と一緒に送られてきた。『たまごプリンで丸ごと一個使ってるみたい。かなえちゃんはたまご半分しか食べられないから、僕と半分こしようね』


「女子か!」わたしはなんだか、お腹が減ってきた。

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