第10話
「梅雨に入る前に、高尾山に登りたいんだ」昼夜逆転の暮らしが主な僕にはいささか健康面に不安を抱えながら生活をしていた。食事はコンビニの廃棄品を持ち帰り、弁当を朝ごはんで食べ、食パンは冷凍して昼や夜の食事として食いつないでいた。加工食品は添加物もカロリーも高いのでそればっかりの食生活では身が持たない。唯一の対策として僕は歩くことを意識していた。家にこもらず散歩する。太陽光を浴び身体を動かすことで、何とか帳尻を合わせているつもりになってた。その延長としてハイキングもいいかも、とかなえちゃんを誘ってみることにした。
「なんで急に」と彼女が驚くのも無理はない。これまで小説について語らいあってきた仲だというのに、急に山登りをしようというのは不意討ちというか、反旗を翻した裏切り者として映ったかもしれない。
「無理ならいいんだ」
「むしろ行きたいです。連れてってください」
「え、良いの?」
「じゃあ何のために、いま誘ってきたんですか」かなえちゃんは憮然とした。僕たちはサイゼリヤでお昼を共にすることが日課になりつつあった。低価格で財布にも優しいランチは二人にとっても気楽に楽しめる時間だった。
「山登りなんて、意外だなって思っただけだもん」彼女は言った。あの電話の一件以来、打ち解けたかのようにかなえちゃんは親しみのある話し方をするようになっていた。「わたし山登り初めてだから、ワクワクする」
「じゃあ今度の連休、一緒に高尾山に行こう」
約束していた連休、ゴールデンウィーク真っただ中の五月二日、僕たちは高尾山へとやってきた。地元の駅で朝の七時に待ち合わせをし、電車に揺られること一時間半、薄い雲に覆われた空の出迎えとともに高尾の地を踏みしめた。
「午後には晴れるって予報だけど、たぶん雨は降らない」予報を信じるなら、と僕は付け加える。
「わたし、一応折りたたみ傘を持ってきておいたんだ」かなえちゃんは背負っていたリュックをポンと叩きながらその旨を伝えてきた。
「ずっと気になってるんだけど、そのリュックはなにが入っているの」と僕は指をさす。折りたたみ傘が入っていることは分かったが、リュックの大きさを考えると他にもないか入っているはずだが。
「着替えとか、その他もろもろだよ」と言うかなえちゃんの服装はカジュアルなものだった。通気性の高い素材のシャツとグレーのパーカー、ストレッチタイプのデニムにスニーカーと、図書館では見かけない服装だった。
「着替えるような場面に出くわすかな」僕は頭をひねる。駅の周りを見渡しても僕たちと同じ軽装の人も見かけるし、本格的な登山装の人もいた。突然の雨にさえ見舞われなければ平気な気がした。
「備えあれば憂いなし、だよ」なにが喜ばしいのか、かなえちゃんはにっこりと笑い僕の袖口を掴んで、「早く行こっ」と登山口の方へと引っ張った。
人が列をなして歩く先にケーブルカーとチェアリフトの乗り場があった。「すごい行列だね」あまりの人の多さに僕は圧倒された。人でごった返すとは、まさにこのようなことでよく似た感覚をディズニーランドでも体験したことを思い出す。
「おぼれちゃうー」とかなえちゃんが弱弱しい声をあげた。彼女の身長は150cmそこそこで、彼女の瞳に映る世界の大半は他人の頭で埋め尽くされているに違いない。
「はぐれないようにね」と僕は彼女に袖口を差し出した。自分からかなえちゃんの手を握ることに躊躇った。そこまで出来る関係なのか、自身がないからだ。かなえちゃんは一瞬考えたようすで、おずおずと僕の袖口を掴んだ。僕はそれで満足だった。
ゆっくりと進む人の列に僕は、あと二十分くらいかも、と、かなえちゃんに伝えた。
「これは登る前から疲れちゃうね」かなえちゃんが僕を見上げながら囁いた。声を潜めるあまりに僕は耳を近づけ、聞き取る。思えば、かなえちゃんとこんな風に隣り合って歩いたり、顔を近づけて会話したりするのも初めてだった。不自然さを感じさせないのは、こんな状況だからだろうか。
「明日は筋肉痛になってるかも」
「環境の整った場所で働いてると、身体がなまっちゃうしね。たまにはこういうのも良いですねよ」この先待ち構えている疲労感に、かなえちゃんはむしろ歓迎するような趣をみせた。
「運動とか、普段はするの?」
「夜中にポテチ買いに行く女ですよ。するわけないじゃないですか」
「そうだった」と僕は笑う。
「人のこと笑うなんて、失礼な人だなぁ」
僕たちはこうして、他愛のない会話を順番が来るまで続けた。僕の見立て通り、二十分ほどするとようやく僕たちの順番が訪れた。
「背負っているリュックは前で背負うか、膝にのせてください」とスタッフが声を掛けてきた。
「荷物持とうか」僕は手を伸ばす。
「んー」と声に出し、かなえちゃんは背負ったリュックを下ろした。渡してくれるものだと思っていたが、彼女は素早くリュックを前で背負いなおし、僕の伸ばした手を握った。「こっちの方がいいかな」
「あ、うん」僕は顔を背けて、でもしっかりと手を握りしめた。僕が越えられなかったハードルを、かなえちゃんはいともあっさりと飛び越えた。胸を締め付けられるような感覚が、妙に清々しく思えた。
リフトは二人を乗せて山を登っていく。春の高尾山は生命の息吹がかかったように、多くの樹木が新芽を芽吹かせていた。土や、木の匂い、鳥のさえずりが僕たちを非日常へと誘う。どこか小説を読むのと同じだな、と僕は思った。
「手、温かいね」とかなえちゃんが口を開いた。気恥ずかしさのあまり黙り込んでいた自分を見かねたのか、話題をふってくれた。
「かなえちゃんの手が冷えすぎてるんじゃないかな。大丈夫?」
「緊張すると、手先が冷えちゃうんです。緊張してるのバレるからあんまり教えたくなかったけど」と苦笑した。
僕は握りしめあった手を自分のパーカーのポケットへと仕舞った。「これでちょっとは温かくなるかな」
「リフトだと風にもさらされて、ちょっと寒いですね」
「もっとくっつく?」
「うん」
かなえちゃんが僕の右腕に頬を寄せる。僕はかなえちゃんの頭に頬を寄せた。彼女が不意に顔をあげたので僕は顔を向けた。鼻先が触れるほどに近かった。僕は自分のハードルを飛び越え、彼女の唇にキスをした。
「なんで」とかなえちゃんは僕に訊ねてきた。「なんでキスしたんですか」
「したくなったから」
「どうして」とさらに追及してきた。
「かなえちゃんのことが、好きだから」
「告白もされてないのに、いきなりキスとか、ルール違反です。もう一回したいならちゃんと告白してください。もう傷つきたくない」顔を右腕につけたまま見上げてくるその瞳には、彼女の次なるハードルを見据えているように映った。もう一度キスを、と。
「僕と、付き合ってください」
そう云うなり、彼女は僕の唇を素早く奪った。返事もなく、だ。
「返事も聞かせてくれないでキスするのは、ルール違反だ」
「返事はキスでするものです」と彼女は胸を張った。
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