第11話

 十五分間の空中散歩を終えてわたし達は地に降り立った。リフトに乗る前と、降りたあとでは、わたし達の関係は恋人へと変わっていた。吊り橋効果ならぬリフト効果、かも? なんていうのは冗談だ。わたしは久慈さんのことを意識していたし、好意を抱いていた。自分を良く見せようとした下心も、気を引こうとする強引さもなかった彼のことが、好きになっていた。ロマンチストどころか、リフトに乗っている途中、切り立った崖の上を通過する際には、「ここでゾンビが出てきたら想像を絶する恐怖だよね。ゾンビが足元に居る恐怖ってのは、ゴキブリを見つけたときの恐怖と、どこか似てる」と不思議な感覚を持ちあわせていて、楽しい人だった。


 久慈さんがわたしに好意を抱いていたのか、正直、自信はなかった。だけどパーカーの袖を引いても、手を繋いでも嫌な顔一つ見せないで、優しく接してくれた。甘えても良いんだと、思わせてくれた。こうして今でも手を繋いで歩けることに、幸せを感じる。


「ここから一時間くらい歩くかも知れないね」案内板をみながら、久慈さんがコースの確認をしていた。リフトを降りればほぼ一本道で、人の流れについていけば山頂には着くらしかった。


「途中でお団子食べたいな」わたしは、高尾山の名物でもある串団子を食べたかった。甘いものには目がないわたしだが、せっかくだし一つでも多くの思い出を、ここで作りたい。


「それいいね」


 その言葉通り、途中にあった露店でわたし達は串団子を買い、近くのテーブルで食べることにした。甘い味噌の絡んだ弾力のある団子はわたしの空腹を満足させるには十分だった。


「あんまり疲れてないけど、エネルギー補給するにはまだ早かったかな」とわたしは舌を出す。


「山頂じゃランチも取れないかもしれないし、ちょうど良かったんじゃないかな」


「せっかくお弁当作ってきたのに?」


「え? お弁当作ってきたの」久慈さんは驚き、団子に付いた味噌をズボンの上に落としてしまった。


「そんなに驚くことないじゃないですか。わたしだって一応女子ですから、料理くらいできます」リュックからウェットティッシュを取り出し、彼に渡す。


 ありがとう、と受け取り、「それなら早く言ってくれたら良かったのに。そしたら僕がリュックを持ってた」と言う。


「いまなら何とでも言えるでしょ。告白されるまでは、すごく不安だったんだから」家を出てからの足取りを辿ると、足枷があったように重たかった。久慈さんにとっては気楽なハイキングのつもりだったのかも知れない、朝の五時半から起きて、お弁当を作っていたわたしだけが、特別なイベントだと思い込み勘違いしている。そんなプレッシャーを背負って歩いていたようで、今となってはそれが心地よい疲労感へと変わっていた。


「お弁当、楽しみだな」


「口に合うかどうかも不安だけど」


「大丈夫、味覚には自信あるんだ」本気か冗談か、久慈さんは残りの団子をいっきに頬張る。


「むしろ自信がない方が、安心なんですけどね。良かったらわたしのお団子も食べていいですよ」


「それじゃ、お弁当が食べれなくなる」久慈さんは不服そうに首を振った。


「あんまりプライベートなことを聞かなかったけど、お父さんは居ないの?」チラりとわたしを見て久慈さんが訊ねてきた。家族の話を口にするときには、母や妹を出すことはあったが父の名を出すことはなかった。いないからだ。


「お父さんはわたしが四つのときに亡くなりました。病気だったとおもう」口に含んだ団子が解けるまで、わたしはじっくりと噛みしめた。父親との思い出は、もう片隅にも残っていない。悲しいけどそれが現実だった。


「そっか」と天を仰いで久慈さんは呟いた。まるでそこにわたしの父がいるような、娘さんと真剣に交際させてもらっています。とでも心の中で言っているのだろうか。


「久慈さんの両親は?」


「うちの親父も入院中でさ、おふくろも急なことで慌てふためいてた。病気は人を選ばない」


「残酷なくらい、平等ですよね」とわたしは思った。好きな人の大切な人が 病気で床にふせている現実に、胸が痛む。他人事だとおもえなくなってしまったからだ。


「付き合いはじめて直ぐなのに、両親のことを聞き出すなんて、僕は意地汚いことをした」


「それは別に、気にするほどのことじゃないです。だって、わたしが四つのときですよ、思い出も、正直なくて、久慈さんが思い出させてくれたから、むしろお父さんは喜んでるかもしれない」むしろそこまで気を巡らせてくれたことに、わたしは嬉しかった。気にかけてもらっていることと、大切に想われていること。家族についての触れることをタブー視していた元彼とは、雲泥の差だ。


「何をどう言ったらいいのか分からないけど、いまの僕の気持ちはこの空みたいに清々しくて、広々としてるんだ。親父のことも小説のことも思い悩んでたのが嘘みたいに、かなえちゃんと出会って、すっきり晴れた」


「そういわれるとプレッシャーです」両手を振ってわたしは拒んだ。わたしは誰かのお荷物になっても、沼にはまった人を引き上げられるような人間じゃない。「わたしにはそんな価値ないし。不倫で遊ばれるくらいがちょうどいいって、思われるのが関の山」


「そんな自分を安物みたいに言うなよ。僕は、君が好きなんだ」人目もはばからず、怒ったような口調に、わたしは安心感を得られた。真っ当な恋愛をしても良いんだ。本を生きがいにしてきたわたしも、人並みの恋愛をしても良いんだ。


 そして、改めておもう。「恋愛って、一人じゃできないですもんね。わたしも久慈さんが好きです」


「じゃあ僕も下の名前で呼んでもらおうかな。僕の名前覚えてる?」


「広斗ひろとさん」彼の腕に抱きつき、その名を呼んだ。


「僕のことも、くん付けで読んで」


「広斗、くん」わたしはなんだか、照れくさくなった。




「あとちょっとだ」石畳の登り坂を、興奮したようすで、広斗くんが先行して歩いてく。その手を離さないように、わたしは引っ張られて登っていく。人の波もだいぶ引いていて、道を埋めつくほどでもなかった。下りてくる人をスイスイと避けて、わたし達は駆けるように山頂へと向かった。


「着いた」肩を上下させてわたしは息を整えた。広斗くんは疲れたようすもなく息も乱れてなかった。彼は本当に、クジラ並みの肺活量なのかも、という出会ったばかりの懐かしさが、胸に込み上げてくる。たったのひと月だけど、運命的なものを感じずにはいられなかったからだ。


「あっちみて、富士山がくっきり見える」広斗くんの指差す方に視線を向けると、うっすらと雪化粧した、頂が見えた。午前中の空にかかっていた雲も、東の方へと流れていき、西の空は、青いキャンバスに富士山を描いたような、神秘的な光景が広がっていた。


「わぁー、すっごく良くみえるね」不覚にも、わたしは涙をこぼした。


「どうしたの、急に」困惑した表情で、広斗くんはポケットからハンカチを取り出した。


「月並みな答えだけど、感動しちゃって。すっごくいい映画を見終わったあとみたいな、そんな感じ」


「分からないでもないよ、その気持ち」わたしの頭にそっと触れ、やさしく撫でた。


「たぶんそれは分かってないよ」とわたしはかるく否定した。分かってたまるものですか。


 春の終わりを告げる富士山の雪化粧、夏を感じさせるような太陽の暖かさ、心が安らぐ自然の空気、その中にとけ込むわたし達。この青い空の下で、わたし達は確かな一歩を、踏み出したに違いない。




「本当にここまででいいの?」わたしの代わりにリュックを背負っていた広斗くんが言った。


 わたしと広斗くんは家の近くにある公園にいた。家まで送るからと来てもらったはいいが、時間帯があまりよろしくなかった。連休中とあってか人影もなく公園内は静まり返っていた。遊具もなければベンチもない、空き地と呼ぶ方が、しっくりくるような場所だった。


「なんか家族に会いそうで嫌なんだ。特に妹に」わたしは汚い物でも見るような不快感をあらわした。妹にこの手の事を知られると、あとあと面倒なことになるのだ。


「別に会ってもやましい事をしている訳じゃないんだし」


「それは分かってるんだけど、本当に妹って嫌な奴なんだって。羨むとか嫉むとかそういった類のものじゃなくて、相手をいたぶるようにして楽しむのが趣味っていうか」


「サディストだ」


「そう!」的確に言い当てた広斗くんを、わたしは指さした。


「じゃあ、仲が悪いのかな」いま広斗くんは複雑な家族関係を頭に描いているに違いない。


「毎日殴り合い」


「その割に殴られた跡はないけど」


「服の下は痣だらけ」わたしは襟首から服の中を覗き込む仕草をした。


「ホントに?」


「見てみます?」わたしはじっと広斗くんの目を見据えて聞いた。よこしまな考えが目に映るか期待したけれど、なかった。


「いや、見ないよ。それに痣はないでしょ」


「なんでバレたんだろ」


「お互いに素直じゃないから、だと思う」と広斗くんは自分の考えを示した。「今日、僕たちは付き合った。キスもした。ただそれだけだったから」と、下唇をギュッと噛んだ。


「それだけって、なんだか寂しい言い方に聞こえるよ」


「ごめん。つまりさ」広斗くんはリュックを地面に置いて、わたしを抱きしめた。「つまり、こういうことをもっとしたかったと思うんだ」


 わたしの頭を抱えて、胸に抱きよせ髪を撫でる。広斗くんの匂いが、ほのかに感じられた。これが彼なんだと認識するように、脳が記憶しようと勢いよく回転しはじめる。強くも弱くもない柔らかで抱かれ、春に包まれた大地というのは、多分こんな風に感じているんだろうな。




 家に帰ると、妹がすでに帰宅していた。リビングから漏れるのは明かりのみで、テレビやスマホで動画をみている、といった音はまるきりなかった。


「なんだ、帰ってたんだ」とわたしは裕佳ゆうかを一瞥して荷物をクッションに放り投げた。ガチャと音が鳴り、お弁当箱が入っていたことを失念して、放り投げたことを後悔した。


「ガサツな女はモテないよ」と裕佳がボソッとつぶやく。聞こえるか聞こえないかの声で発せられたそのセリフは、わたしの気分を十分に害するものだった。空を舞う鳥を、楽しみのためだけに撃つ狩人のような、そんなはしたなさだった。だが裕佳の言葉はわたしを不快にはさせたものの、撃ち落とすまでには至らない。わたしの身体に残る広斗くんの温もりは消えていない。いまだに高揚感に包まれていた。


「あんたには似合わないセリフ。どっちかと言われるまでもなくあんたの方がガサツでしょ」わたしは、靴下を脱ぐわけでもなく土踏まずの部分で留めて、だらしなく座っている裕佳を指さした。「男の人が見たら絶対に引く」


「あたしはオトコには興味ないのー」その言葉通り、男性を軽視するようすが口調からうかがえた。裕佳の趣味でBLを好んでいることは知ってはいたが、その世界がどういった物なのか想像がつかない。暖簾をくぐり抜けて覗き込むような好奇心は、わたしにはなかった。


「裕佳はまだまだお子様だね。恋愛のいろはもしらない」


「恋愛模試ってのがあるなら、全国トップ5には入る自信あるけどね。机上の空論でもアドバイスを求めにくる人は後を絶たないのよ」いやに自信ありげな表情をみせるのでわたしは不信感を抱いた。「新しい男になにか悩みを持ったら、聞いてあげても良いよ」


「なによ、新しい男って」


「なに、ってー」裕佳はおもむろに自分のスマホを持ち上げた。せわしなくタップを繰り返し意味ありげに頷いた。「ほら、おねーちゃんのスキャンダル写真」


 裕佳はスマホの画面をわたしに見せつけた。遠目とはいえ身長差のある男女が抱き合っているようすがとらえられ、双方ともに見覚えのある服装だった。もっと簡単に言えば今のわたしと同じ服装だった。


「他人の空似」わたしは言う。


「この画像じゃお姉ちゃんに似てるとは言い切れないよ。女っ気のない服装の趣味とかは、共通してるけど」裕佳は無邪気に笑い、ふたたび空を舞う鳥を狙い引き金をひいた。


「あんた、これ、いつ撮ったの」わたしはあえなく撃ち落とされ、意気消沈した。


「ついさっきじゃん。よくご存じでしょ」


「悪趣味だと思わないの? 盗撮よ、これは」


「家族なんだから別にいいじゃん」


「広斗くんは、あんたの家族じゃないでしょ」


「へぇ~、広斗くんって言うんだぁ」裕佳は、ほくそ笑んだ。わたしの失言に対して、鬼の首をとったとでもいうような笑みだった。


「あんたには関係ない」


「関係あるある~。前の彼氏みたいなヤバい奴だったら、こっちにだって火の粉が降り注ぐかもしれないじゃん」


「前任者は懲戒解雇処分されたでしょ」わたしは思い出す。母の鉄拳を喰らって突っ伏した元カレの姿を。それにも懲りず、先月、わたしに突然メッセージを送りつけてきたことまでは、さすがに話せなかった。


「また既婚者とかじゃないのー?」裕佳は疑いの目を向けてきた。


「わたしを、覚えの悪い犬かなんかと勘違いしてるの? エサを与えられて悪さされて痛い目に遭っても、またエサでつられるような犬だと」


「おねーちゃんは自分のことを犬だと思ってるの?」


「わたしは犬なんかじゃない」


「犬なんか、なんて言ったら犬が可哀そうでしょ。まぁ、騙されてもシッポ振って近づいてくる犬も、なかなかにして可愛いけど」


「だから、裕佳に心配してもらうようなことはありません」


「心配事を掛けるのが、おねーちゃんの良いところでもあるよ」うんうんと裕佳は頷いた。自分の言ったことに、我ながら鋭いと感心しているようすにも見えた。


「これから家族には心配事を掛けないで生きていきます」わたしは胸に手を置き宣誓した。無意味なやり取りに終止符を打ち、晩ご飯の支度をはじめた。

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