第6話
彼女が突然、身体を揺らした。酔ってる、始めはそんな印象だった。途端に身体をくの字に曲げて僕の方へと倒れ込んできた。
「大丈夫か」あわてて僕は両手で彼女を受け止めた。倒れてくれたのが僕の方向でよかった。後ろに倒れていたら、とゾッとした。それほどに彼女の意識が朦朧もうろうとしているのがわかった。
「ごめんなさい」弱弱しい声で謝るその姿は、さっきまでの彼女とはまるで別人のようだった。
「しばらくこのまま、横になっててもいいよ」もちろん下心はない。よく見れば顔色もすこし蒼白に近い。ヘアクリップで整えられた前髪も乱れ、桜の花びらのようだった血色の良さもいまはうかがえない。
「ダメです、迷惑になっちゃいますよ」と無理矢理体を起こそうとしたので、僕はそれを補助した。
ゆっくりと身体を起こして、しばらく表情を観察した。目は少しうつろだったが、徐々に意識がハッキリしていった。
「気持ち悪さとかないか?」
「平気みたい」少し顎を引いて、それでも呼吸は浅くて少し早かった。
「病院に行った方がいいと思うよ」
「寝不足かもしれないですね。それか、貧血?」と彼女は素人判断で分析をした。ただの風邪がインフルエンザだったり、捻挫だと思っていたのが骨折だったりと、素人はなるべく軽い方へと誤った判断を行いがちだ。
「そうはいっても、はたから見ていたらとてもそんな風には見えなかったよ。病院には必ず行くべきだ」
「久慈さん、優しいんですね」彼女は笑った、無理に、というべきだろうか。
「突然、意識が朦朧としましたと答えるよりも、僕の小説を読んで気分が悪くなりました、と正直に答えるべきだ」僕は良く分からないアドバイスを彼女に送った。突然、原因不明の病に罹る不安は、良く知っていたからだ。不安を煽るよりは、気持ちを楽にさせてあげたい。
その後、彼女と並列して歩き、図書館まで送った。別れの際に、「君の名は?」と訊ねた。かの有名なアニメーション作品を匂わせるセリフに、彼女は腹を抱えて笑った。
「わたしの名前は古川ふるかわかなえ。あなたの名前はなんですか?」
「僕は久慈広斗ひろとです。って、さっき身分証みせたよね? 知ってて聞いてないか」
「そこから名前を知ったことで済ませてたら、個人情報を盗み見たことになっちゃうじゃないですか。わたしそんなこと出来ませんもん」古川さんはムスリと言った。表情が豊かになったことで彼女の体調も良くなってきた証かもしれない。
「でも公園では久慈さんって呼んでたし」僕は思い返して吹き出しそうになった。
「クジラさん、の聞き間違いじゃないですか?」彼女は怪訝な顔を、作ってみせた。
あの日から二日後、僕はいつものようにコンビニの深夜のバイトに精を尽くしていた。この二日間、モヤモヤとした不明瞭な気持ちがやがて来る梅雨のように暗雲たちこめていた。お互いの名前までは知ったが、その次の連絡先の交換までにはいたらなかった。その気になれば図書館に行けばいいとも考えて、それはそれでダメだろうと思いとどまる自分がいた。自分たちは友達の関係でもないし、ただ、たまたま言葉を交わした顔見知り程度が関の山だと、冷静に考えたらそれが一番しっくり当てはまった。
レジの背後にあるタバコの補充をしながら接客を繰り返す。日曜の夜ともあって客足は少なく、油断するとタバコを補充する手がいつのまにかサボっていた。コンビニで五年も働いていれば無意識のうちに手が勝手に動くものだが、頭の中で古川さんのことが気がかりとなりタバコも手につかない状態になっていた。店内に入店のチャイムが鳴る。振り返り、「いらっしゃいませ」と掛け声をだそうと入り口を見た瞬間、条件反射は止まった。
長年にわたって培われてきた反復作業も、想像もつかないような出来事が起こると咄嗟に動けなくなってしまうんだなと僕は感じた。警察官や消防隊員を敬服したくなる。
入口から一歩店内に入り、古川さんが僕を見やった。照れくさそうに軽く頭を下げて店の奥へと向かっていった。「いらっしゃいませ」とひときわ大きな声を出していたものだから、品出しをしていた同僚が僕の方をちらりと棚の隙間から覗いていた。
古川さんはいつものように直ぐにレジへとやってきた。いつもの違うのは手に持っていたものが酒のおつまみ、という点だけだ。
「これ、わたしのじゃないですからね」と古川さんは先手を打つように声を掛けてきてくれた。以前まで、言葉を交わすことのないやり取りだったのがまさか彼女の方から声を掛けてくれるとは、思わなかった。
「へ、へぇ。買い物を頼まれたん、ですね」僕はぎこちなく答えた。頼まれたんだね、というには馴れ馴れしく、なおかつ古川さんはお客さんだ、これでいい。
「お母さんがおつまみないって騒ぐから、買いに来ました」ソフトさきいかの袋を裏返し、古川さんはいつものようにバーコードの面を見せておいた。
「ありがとうございます。古川さんはいつもの買わないんですか?」僕はバーコードを読み取って袋に商品を詰めた。些細な情報だったが、彼女は実家暮らしをしている、かもしれない。「というか、その後の体調とか、大丈夫?」
「心配してくれてありがとうございます。ちゃんと病院にも行って異常なかったです。さすがに久慈さんの小説読んで具合悪くなったとは言えなかったですけどね」と彼女は笑い、ガマ口財布から小銭をとりだした。血色も良く明瞭な瞳だった。僕のモヤモヤした気持ちも、いつの間にか晴れていた。そのとき彼女がいつもコンビニに来るような恰好ではないことに気付いた。いまさらだ。
「今日は、雰囲気が違うね。なんかこう」ハッキリ言えば地味じゃないね、と。
「地味じゃないでしょ?」と彼女は片眉をあげてみせ僕の言葉を奪った。
春らしいカーディガンとスカートのコーディネートは女の子らしさと愛らしさがあった。欲目にみてるからというわけでもないが、ほかの同じ世代の女性客と比べても古川さんには愛嬌があった。人前では自分を必要以上に飾らないだとか、なんなら絆創膏も無地で味気のないタイプの物を使うのかと言えばそうじゃないし、彼女には、『らしさ』で溢れているような気がした。
「直接伝えることに、なんだか抵抗感があって」僕はレシートを差し出す。
「じゃあわたしも、小説の感想を直接伝えるのは止めておくね」古川さんはレシートを財布の中にしまった。と思ったら、再びレシートを取り出し僕に差し出してきた。
「不要でしたか」受け取ったレシートを見ると、日付は三日前の深夜、買ったものは午後の紅茶とポテトチップ。手に持った感熱紙にはそれ以外に薄く文字が浮かび上がっていた。ひっくり返してみると、『古川かなえのLINEのIDです』と書かれていた。「こ、こ、これは?」
「不要のレシートです。久慈さんが責任をもって捨ててくださいね。それじゃ」と言い残して古川さんは店を出ていった。
僕は手に持ったレシートを無くさないように財布を取り出し、千円札二枚の間に綺麗にしまった。普段からレシートを取っておかない性分なのに、このレシートだけはいつまでも大切に保管しておきたいと、なぜか感じていた。
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