第33話

 告別式は近親者のみで営まれた。式では家族の一員として列席させてもらえた。かなえの生涯最後の恋人として、婚約者として並ぶことができた。まだ実感がわかない現状を受け止め切れていない自分は、こういった行事が客観的にみえてしまっていた。

「今日はありがとうね」火葬が終えるのを待つ間、僕は控室から抜け出し、かなえが焼かれている炉の扉をぼんやりと眺めていたところに、裕佳ちゃんが声を掛けてきた。いつもは髪を結っていない彼女だが今日は後ろに束ね、少しやつれた印象を受けた。

「僕の方こそ、こんな形で葬儀に参加させてくれてありがとう」軽く頭を下げ、会釈した。

「お姉ちゃんの意思を尊重しただけだよ」目を合わさず、裕佳ちゃんもぼんやりと炉を眺めていた。

「そんなことを、言ってたの?」

「死んじゃっても分かるよ、あの人の考えそうなことはさ。お兄ちゃんのこととなると、見境がつかなくてさ、猪突猛進タイプだった」

「良いんだか、悪いんだか」僕は苦笑する。

「人並みの恋愛を成就することはできなかったけど、それなりに幸せだったと思うんだ。一番間近でそれを見てきたからこそ確信してる」

「僕なんかで本当に幸せだったのかな」

「しつこい性格だね、この期に及んで、まだ自分を信じられないの?」裕佳ちゃんは呆れたのか、炉から目を離し僕を冷めた眼差しで見つめてきた。「この先の人生、一人で生きていけるのか心配になるね」

「ちょうどその心配もしてた。もう喋りかけることも、触れることだってできない、ほのかに香る髪の匂いも、柔らかな笑顔も、なにもかもなくなってしまった。なくなってしまってから片時も頭からかなえのことが離れない。寝ているときでさえ、悲しみに浸っているんだ」ここ数日間、僕は寝れていなかった。バイトも無理を言って休ませてもらっていた。働く気力も、小説を書くこともできない。ましてや生きる気力すら失いつつあった。

「男ってそういうところあるよね。メンタルが弱いやつ。既婚男もそうだけどさ、依存しちゃうってやつ? お兄ちゃんも気を付けた方がいいよ」

「気を付けるよ」と僕は感情を込めずにいった。どうすることも出来ないと、分かっていたからだ。どうにかなる程度の恋愛だったら、僕はこの場にはいない。かなえの欠片(かけら)に囲まれていたくて、いまもこうして炉の前で待っている。実体はなくとも、かなえを感じられる場所ならどこにでも行きたい。

「後追いとか止めてよね、後味悪いから」

「そこまでの勇気はないよ。死ぬのは怖い、けど、かなえのいない人生もさほど興味がわかない」

「血縁者の妹に鞍替えしようたってそうはいかないからね」くらい場の雰囲気を和ませるための冗談のつもりだったんだろう、けれど、硬い表情のせいでより悲しくなってしまった。裕佳ちゃんが妹だったらどれほど明るくて楽しい家族になっていたのだろう。想像するだけで、胸が締め付けられる。

「二人ともここに居たのか」とロビーの方から和夫さんがやってきた。和夫さん一家も列席しかなえの最後を見送りにきていた。洋子さんも随分と疲弊した様子だったし、夏摘くんに関していえばかなえの死を伝えた晩、夜通し泣いていたらしい。和夫さんもショックは大きいものの、妻である洋子さんの落ち込みように、酷く驚いていた。

「どうしました」僕が先立って和夫さんの応対にまわった。裕佳ちゃんより僕の方が、面識があったからだ。

「洋子が、伝え忘れていたことがあったって。お母さんと妹さん、それと広斗に、あの日、図書館にかなえちゃんが来ていたことは二人とも知ってるよね。その理由を二人に伝えなきゃ、って。洋子はひどく動揺していてあの日の出来事をうまく思い出せないでいたんだ」

「それで伝えたいことって、なんですか」今度は裕佳ちゃんが訊ねた。

「かなえちゃんのスマホを確認してほしいって、録音をしていたみたいなんだ、何か大切なことを吹き込んだと言っていたよ」

 僕と裕佳ちゃんは顔を見合わせた。「スマホなら控室に置いてある」と裕佳ちゃんは僕に教えてくれた。僕の意思に、委ねようとしているのが分かった。

「持ってきてもらえるかな」僕は泣き出しそうになるのを堪えるので精いっぱいだった。突然に失われた、あまりに大きな出来事は、僕の頭と心の思い出の一部分をえぐり取った。僕はかなえの声を思い出せないでいた。

「わかった」と言い残して裕佳ちゃんは待合室へと戻っていった。

「同じ男として言わしてもらうが、夢を諦めたわけじゃないよな」裕佳ちゃんの背中を見送りつつ、和夫さんが不意にそんな言葉をかけてきた。

「どうしてそう思ったんですか」僕は笑った。正直な気持ち、その通りだったからだ。

「俺の勘違いだったらすまんが、広斗の表情が悟っているように見えたからだ、これ以上頑張っても意味がない、とね」

「それは、本当のことですから。頑張って目指すようなことじゃないです」

「かなえちゃんが望んでいたことでもか?」

「そのかなえが居なくなってしまったんです。もう意味がないじゃないですか」

「俺たちの中では生きてる。『広斗は絶対に小説家になります』ってまっすぐに信じていたかなえちゃんが」

「その辛さが和夫さんには分からないんですよ。一緒に苦楽を共にできない、僕一人が苦しむだけなんです。それをいつまでも続けていくなんて、到底できません」僕は奥歯をかみしめた。歯がきしみ神経がピリッと痛んだ。

「そうか、それは悪かった。君の覚悟は本物だと思っていたが、間違いだったみたいだな」和夫さんはそれだけを言うと踵を返し、待合室へと戻っていった。

 入れ替わるようにして小走りに裕佳ちゃんが戻ってきた。「何か話してたの」と訊ねられ、「ちょっとね」と僕は言葉を濁した。本当のことを話せば誰もが僕を情けないと見下すに決まっていた。それは分かっていた。諦めることじゃない、自分一人でも十年間続けてきていたことにまた戻るだけ、それなのにどうして諦めようとしているのか、理屈が通らないだろ。なにが苦しいのか、本当に自分は小説家になりたくて書いてきたのか、本当に無駄な人生になってしまうじゃないか。僕はどうすればいい。

「これさ」裕佳ちゃんは持ってきたかなえのスマホにロックが掛かっていることに手間取っていた。「前のパスコードと変わってるんだけど」

「それをどうやって開ければいいんだ」かなえが洋子さんに頼んだことがスマホに残されているのに、どうして簡単に開けるようにしていなかったのか、かなえは僕たちになにを伝えたかったんだ。

「前は自分の誕生日だった。簡単な生年月日だから開けられたんだけど」

「それはずっと?」

「うん、目が見えなくなる前から、たぶんその後も変えずにガラケーに機種変した」

「じゃあ」洋子さんに、と言いかけて和夫さんの顔が思い浮かんだ。洋子さんに聞こうものならば今さっきのわだかまりが残る僕として、あまり頼りたくないところだった。「たぶん洋子さん変えてもらったんだろうけど、洋子さんもその番号を忘れてる可能性が高いね。だからいままで、このスマホの存在を忘れていた」

「お兄ちゃんは心当たりないの? パスコード」

「かなえの誕生日か。誕生日なら一緒だけどね」周知の事実ともいえる僕の言葉に、裕佳ちゃんは何かひらめいたのか、あっと声をあげた。

「それだよ! お兄ちゃんの誕生日」

「僕の? 西暦だけ変えるの?」僕は裕佳ちゃんからスマホを受け取り自分の生年月日を入力した。するとなんの障害もなしにロックは解除された。

 かなえが何を考えて僕の誕生日をパスコードに変えたのか今はもう知る術はない。僕もこの際、かなえの誕生日をパスコードにしようか、スマホを開くたびにかなえを思い出せるかもしれない。

 僕は裕佳ちゃんに、「開いた」とスマホを返した。

「お兄ちゃんがやってよ。あたしは二人のラブラブな写真とか見たくないし」

「かなえから聞いたぞ。僕たちが抱き合ってる写真を隠し撮りしてたこと」そう、僕とかなえが高尾山からの帰り道、かなえの家の近くの公園で、二人で抱き合っていたあの瞬間を裕佳ちゃんに撮られていた。かなえの話しではあの時間帯に裕佳ちゃんが帰ってくることが多かったので家より少し離れた場所で別れたかったらしい。案の定それが的中し隠し撮りにあった。

「あんなところで抱き合ってる君たちが悪いんだよ」悪びれもせずに裕佳ちゃんは言った。

「そんな写真はないから、確認してよ。ライブラリかファイル辺りに保存されてないかな」

 しばらく保存データを調べてみたが一向に洋子さんが言っていたようなものが出てこなかった。

「どこにあるんだろ」裕佳ちゃんと俺は心当たりのあるファイルを開いたが一向に見つからない。「てか目が見えないんだから手伝って貰たんだよね。お姉ちゃんが話して、それを洋子さんが打ち込んだのかな?」

「そういう事になるよね」

「じゃあ、メモ帳か」僕の言葉に裕佳ちゃんが反応し素早くアプリを開いてみるが。

「なにこれ、小説の感想、だって。これが伝えたい大切なこと?」

「参考になる、けど、これじゃないよね。日付がそもそも古いし」

「メモって言えば、ボイスメモは?」今度は裕佳ちゃんが思いついた。

「そっか、それもあるかも」

 僕たちはボイスメモのアプリを立ち上げた。『広斗へ』『お母さんと裕佳へ』と二つのタイトルのメモが、残されていた。

「イヤホン持ってこようか?」あたしカバンに入ってるからと提案してくれたが、僕は断った。いまここで聞くべきか考え、止めた。一人で聞く方がいい。

「データを移して一人で聞くことにするよ」

「そうだね、じゃあ帰ったら、いったん家においでよ」


 告別式が終わり、僕は帰路についた。日も暮れて、疲れが夏場の汗のようにどっと吹き出した。時刻は午後九時を回っていた。このまま布団にもぐり込んでしまいたい、そんな衝動に駆られる。何も変わらない自分の家が、知らない部屋のように広く感じる。そここことかなえの残像が残っている気分で、部屋を片そうとも思えなくなっていた。これからシャワーを浴びて、かなえの家に向かうつもりなのに、どうにも気が入らない。

 テーブルにはかなえに贈った誕生日プレゼントのデジタルカメラが置いてある。事故の瞬間、かなえはあろうことに、これを壊すまいと必死で抱えていたらしい。こんな物よりももっと大切な自分の命を守ってほしかった。それを犠牲にしてまで守る価値が、これのどこにあったんだ。

 カメラを手に取り、電源を入れる。モニターに一枚の写真が映し出された。真っ青と言うべきか、本来ならそれが何を写した写真なのか分からないほど、青一色に染まっていた。これはきっと空だ。日付と時刻は事故直前、かなえの瞳には、こんなにも綺麗な空が映っていたんだ。

 脱力感からカメラを落としそうになった。二人で高尾山に登り、山頂から眺めた空も、青く澄んでいた。いつかまた二人で登ろうと約束もした。果たせなかった願いが、なぜかこの写真に込められていたようで、僕は、家を飛び出した。


「どうしたの、来るの早かったじゃん」裕佳ちゃんは玄関から出て直ぐ、息を切らせていた僕に驚いた。

「今すぐボイスメモを聞きたいんだ」

「ここで? 一人じゃなくていいの?」

「ここで、聞いたらすぐに行かなきゃいけないんだ」

「どこに」怪訝そうな表情で裕佳ちゃんは訊ねてくる。僕の慌てように、不安を感じたのかもしれない。

「行き先を告げない関係も、いいもんだろ」

「ま、あたしはお兄ちゃんに関心はないからね」裕佳ちゃんは笑った。久しぶりに見た彼女の笑顔だった。

「ちょいまち、すぐ持ってくる」玄関が閉まり、三十秒ほどで再び扉が開いた。「ほら、聞いちゃっていいよ」

 イヤホンの付いたスマホを裕佳ちゃんは僕へ放った。うまくキャッチしてパスコードを開く。続けてアプリを起動させる。イヤホンを耳に装着し、再生ボタンを押す。録音時間は表示されていて、五分十三秒。

 えー、こんにちは。ってなんか他人行儀だよね、こんな風に話すのは慣れてなくてお聞き苦しいかもしれませんが、どうにか私の話しに耳を傾けてください。

 もしこの録音を聞いているってことは、わたしはもう広斗の目の前にはいないのかもしれない、いまなんでこんな話をしているのかはあまり気にしてほしくないんだけど、目が見えないことで色んなことを見落としていたり、見過ごして生活してる。感じ取れずに気分を悪くさせたりもしていると思います。それでも広斗は常に優しくわたしの傍にいてくれる。

 そんな贅沢な暮らしの中で、わたしに出来ることを考えていたら、いてもたってもいられなくなって、こうしてメッセージを残したくなっちゃった。面と向かって伝えるのが怖いことも、こうしてみると意外と喋れそう。

 初めて出会ってから、こんな未来を貴方は想像していましたか?

 お互いが恋焦がれるような存在になるなんて、想像もできなかったでしょ。

 運命には逆らえなかった。誕生日が同じだと分かって、わたしは貴方のことを強く意識しました。お互いに小説が好きで、同じ夢を追いかけたことがあって、貴方はわたしの為に夢の共有を選んでくれたから、すごく嬉しかった。選ばれた女って自分に価値があるみたいな勘違いがあったのかもしれない。前の彼にはわたしが本当に必要だったのか、考えさせられた。一緒に居ることだけが幸せとは限らない、一緒にいられない時間ほど、お互いの離れている時間が愛おしくなるんだよね。目が見えなくなっても貴方はわたしのことを知ろうとしてくれた。このカメラをくれたとき、その理由がとても素敵だった。かなえの目の代わりに見たもの、感じたものを撮って欲しいって言ってくれた。なにも見えなくなったわけじゃない、目に映らないだけで、世界はいろんなもので溢れてる、そんな呼びかけに聞こえたんだ。それから毎日、わたしはいろんな物を撮った。ピンボケしててもそれがわたしの目に映った風景だから、受け入れてくれるよね。

 わたしの感性を磨いてくれたのは、やっぱり貴方でした。貴方がつむぐ言葉にわたしは心掴まれ、惹きつけられました。温かい言葉の中に、本当にあなたの心がこもっていて、読み進めるたびに心が熱くなっていくのを感じました。もう貴方の小説を読むことはできないけど、広斗が書きたいことは誰よりも分かってる。だから安心して小説家を目指してね。わたしがいないとしても、貴方ならきっと夢を叶えられる。


「ありがと」僕は暫くしてイヤホンを外した。再生はすでに終わっており、長い沈黙が流れていた。

「大丈夫」と裕佳ちゃんは気を掛けてくれた。

「大丈夫だよ」

「じゃあ、頑張って。いってらっしゃい」僕が来たときのことを覚えていたのか、裕佳ちゃんは僕を見送ってくれた。「どこ行くかわかんないけどさ、これ使ってよ」

「名刺?」

「そ、贔屓にしてるタクシーの運ちゃん、いろいろお世話になってたから、還元してあげて」

「分かった。じゃあ、おやすみ」僕は名刺を握りしめ、帰宅した。


 家に着くと今度こそシャワーを浴びた。クローゼットの中からウィンドブレーカーを取り出す。夜風にあたれば風邪をひくかもしれない、それだけは勘弁願いたい。首にはカメラを掛け、鞄にイヤホン、軽食、ペットボトル飲料を詰めこんだ。懐中電灯がないのが心苦しいとこでもあったが、今はそんな贅沢を言ってる場合じゃない。時刻は午後十一時を過ぎた。まさかこの時間からタクシーを使う日が来るなんて、コンビニ店員としては考えられない出費になるに違いない。

 十分程度でタクシーは家の前までやってきた、送迎料金も加算されるわけだ。

「おや、あんたかなえちゃんの彼氏さんじゃないか」運転手は開口一番、そういった。僕は暫く記憶を辿って、彼がかなえの目が見えなくなった日に病院へ連れてきてくれたタクシー運転手だと思い出した。

「あのときの、でもどうして裕佳ちゃんが」開いたドアに手をかけ、僕は後部座席へと乗り込んだ。

「あそこの姉妹さんがよく病院に行くときに御贔屓にして貰ってるんだわ。この間は俺の都合が悪くて行けなかったんだわ。悪かったって伝えといてくれるかい?」

「そうだったんですね、今度伝えておきます。でもタクシーを出してくれて助かりました」

「ん、あんたそのとき一緒だったのか」

「えぇ、まぁ」僕は顔をふせる、かなえや裕佳ちゃんと面識のある人に、僕からかなえの死を伝えることに抵抗感があった。これ以上話を続けているといつかはそのことに辿り着くはずだ。

「んじゃ、行きますか。どこへ行きますか、お客さん」バックミラー越しに運転手は僕を見ていた。その視線の先にカメラがあったことに、僕は気に留めもしなかった。


「深夜料金って、高いですね」

「そりゃ、深夜のコンビニのバイトだって時給が高いだろ。タクシーもバスも割高になるのは仕方ない」

「僕がコンビニでバイトしてるのを知ってたんですか」

「かなえちゃんが教えてくれたからな。料金が心配ならメーター止めてやってもいいぞ」

「そんなことしても良いんですか」

「俺は個人タクシーだからな、俺の気分次第ってやつだ」

「それならいいです。やめておきます。生活がかかっているんですから、料金はちゃんと支払います」

「遠慮してんじゃねーよ」と運転手はメーターを止めた。「ここからはかなえちゃんの知人としてあんたを運ぶ、仕事じゃねーから安心しな」

「どうしてそんなことまで、してくれるんですか」

「こんな時間に、一人で高尾山に向かうってことは、重要なことなんだろ。そこでお前さんの浮気相手が待ってるってんなら、そこのドアから放り出してやるんだが、そうでもない、だろ?」

 僕は言葉も返さず無言のまま、フロントガラス越しの風景を見ていた。

「話したくないんならそれでもいいさ。ケンカして頭を冷やしに行くってんなら、高尾山も悪くない、いいチョイスだ」

「夢を、叶えに行くんです。二人の夢を」

「高尾山にそれがあるわけか」

「あの場所で、待ってるような気がするんです」

「そっか。そうなりゃ善は急げ、だな」

運転手はアクセルを少し強く踏み込んだ。街灯を追い抜くスピードがほんの少し早くなった気がする。闇に溶け込む町の灯りも、目に入らなくなる。視界はまっすぐ研ぎ澄まされていく感覚だった。


「ありがとうございました」僕は止まった料金メーターよりも少し多めに金額を支払った。帰り道も考えればこれくらいは支払う義務があるように感じられた。

「若いくせにカッコつけてんじゃねーよ」運転手は、僕にそれを突き返した。「あとこれな、寒中電灯だ。真夜中の山を登るなんて、どんだけ肝がすわってんだ」

「色々ありがとうございます。このご恩は忘れません」

「あれだけのいい子は世の中そうそういないだろ。大切にしてあげろよ」

「実は」と僕はやっと言い出すタイミングを掴んだと思い、伝えようとした。

「いい、何も言うな。大切にしてあげればいいんだ」

 僕は、闇に消えていくタクシーのテールランプを見送りながら、背後の小高い山へと一歩を踏み出した。


 緩やかな傾斜に足を踏み出すたび、かなえとの思い出がポッと頭に浮かぶ。その言葉一つ一つも鮮明に耳の奥で鳴る。鼓膜が震えるわけでもないのに、音が鳴るという不思議な間隔だった。人工的な音が一切ない闇の中で、僕はその声なき声に集中していた。かなえとの思い出に浸る集中だ。

 運命には逆らえなかった、とかなえは言っていた。コンビニで接客していた時に、ナンパでもしていようものなら、たとえ誕生日が一緒だったとしても、かなえは運命的だとは思わなかっただろう。たまたま知りえた情報の中に、誕生日が一緒ということが判明したからこそ、運命を感じずにはいられなかった。でも僕は、もしもう一度人生のやり直しが利くのなら、運命なんかに頼らず、必ずかなえと付き合ってみせる。

 いつの間にか息が上がっていた、先を急ぐあまりにペースの配分が分からなくなっていた。あとどれくらい登ればいいのかも分からない。以前に来たときはリフトを使ったし、まだそこまでも辿り着いていない。

 時刻は午前二時を過ぎていた。疲れはしたが、足取りだけは依然として軽い。一度しか来たことのないこの場所に、なぜ僕は安堵を求めているのか、いまも分からない。そこに行けば待っていると運転手に漏らしたのも本音だったと思う。僕とかなえが山頂で見た景色に、希望を見出した。明るく鮮明な、夢の実現を叶えてくれるような、不思議な感覚だった。かなえにゐたっては、綺麗だと言い、泣いていた。

 山頂に行けばすべての感情から解放されるような気がしていた。救いを求めているのかもしれない。かなえを失った悲しみも小説家を目指すか悩んでいたことも、すべてを払しょくして目指すべき道に辿り着こうとしていた。

 君を失った悲しみは消せやしないけれど、共に生き続けていける。僕の中で変わらず不滅の存在として、夢が叶う瞬間を見届けて欲しい。もう迷わない、躊躇わない、書き続けて死ぬまでずっと、僕は小説家であり続ける。プロでもアマでもどちらであっても、書き続けることは夢にきっと匹敵するから。

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