第17話

「それで、その一つは選考とやらを通過できたのね」と美雪は香ばしい香りが漂うポテトを一つ、口に運んだ。

 十月に入っても残暑と呼ぶにはまだ早いくらいの暑い日々が続いていた。お互いに薄着のいでたちが余計に暑さを助長する。例によってわたしたちはまたランチをしていた。

「うん、それで気を良くしたのか本人も嬉しそうでね」

「だったらいい事じゃない。なのにどうして、かなえは悩んでるわけ?」美雪のかじったポテトは意外なほどポリポリと音を立てる。ポテトというよりもスティックに近いのかも。

「これで小説家になれるって、気持ちが先走っているような気がして」

「そんなもんじゃないの、男ってさ」

「本当にそうなってくれるならいいけど、最近はなんか浮かれてて、ちょっと付いていけない」わたしはコーヒーカップに口をつけ、カップについてしまったグロスを指先でふき取る。

「選考を通ることは簡単なことなの?」

「たぶん難しい、とても」わたしはその事実を重く受け止めた。あんなに長い小説を書くことすら大変なことなのに、その中から賞にふさわしいと選び抜かれる段階で残ったということは、本当に価値のあることだとわたしは考えた。

「なら浮かれても仕方のないことでしょ」美雪は、男には男のロマンがあるんだからと、わたしをなだめた。

「それは分かるけど、比重って言うか比率って言うか広斗くんの小説に対するモチベーションよりもわたしに対する気持ちの方が大きいような気がして。それが気がかりなのよ」わたしの吐き出すため息は、きっと周りの空気より比重が重く床にどんよりと漂っているに違いない。

「かなえは彼に、仕事人間になれって言うつもり」眉間にしわを寄せて美雪がいった。弓なりの眉はきれいに湾曲して、眉なりのクエッションマークを作っているみたいだった。

「それは思ってない。ただ、いまはまだ恋人だしわたしよりも夢をしっかり追いかけて欲しい。わたしのことは後回しにしといて」

「それこそ無理なお願いじゃないの。恋人が目の前にいてそっちのけで小説を書いて、なんて、彼が可哀そう」

「わたしって、重たいのかな」

「見た目は小さくて軽そうなのにね」美雪は冗談を織り交ぜつつも否定はしなかった。

「やっぱり重たいんだ」わたしはへこんだ。

「私はかなえみたいに、男をそこまで好きになったことないから羨ましいよ。重たいっていうか、そもそも重たい女ってめぐりめぐって自分の益になるように仕向けるわけじゃない? かなえの場合って彼が夢を叶えて、それを傍で喜びを分かち合いたい、って感じ。内助の功だよ」

 本当にそうだった。美雪の言うようにわたしは広斗くんの傍で夢が叶う瞬間を、夢みている。一次を通った作品が二次選考を通過できるかは来月には判明する。それまでは広斗くんは、新しく小説を書くことをしないのだろうか。一世一代の大勝負のような一球入魂で終わってしまう気がして、わたしには落ち着かない状況だった。

 どんな作家さんでも公募に出したらまた新しい作品を書き始めていた、というエピソードを何人もの作家さんが口をそろえて語っていた。作家とは小説を書き続けられる人のことを指す。つまり、選考通過に一喜一憂しているアマチュアでは作家にはなれないのかも知れない。なれたとしても志の低い作家に落ち着いてしまうのではないかと、わたしは懸念した。

「どんな形であれ、小説家になれれば広斗くんはそれで良いのかもしれない。なったあとのことはなってから考えるのかも」

「計画性のないビジョンだね。うちの彼は先の先を読むタイプだから、そんな悠長なことは言ってらんないかな。一寸先は闇って言葉知ってる? 彼の知り合いは、一晩で数億円を溶かしたって笑ってたそうよ、私たち庶民にはとうてい理解できない。数億円の損失を出しても笑っていられるだけの経済的余裕と信頼があるんだものね」

「広斗くんには」思ったことを口に出してしまうにはあまりに酷だった。「夢がある」わたしは辛うじてそれだけを言った。

「夢だけじゃ食べていけないでしょ」美雪の声がまるで自分の声のように聞こえたのに、わたしはビックリした。


 翌日、秋を感じさせるようなしとしととした雨が降り、朝からテンションは下降気味だった。加えて、広斗くんが深夜のバイトを終えてわたしと同伴で出勤をしたいとメールがあり、それもわたしのテンションを下げる要因でもあった。

「雨だし、今日は一人で平気だよ」

「でも、どうせ眠れないし行くよ」

「雨に濡れて風邪でもひかれたら困る」

「身体だけは丈夫だから、気にしないでいいよ」と断ったところで来る気満々な広斗くんの気持ちを変えることはできなかった。まとわりつく湿気のように振りはらってもむなしく空を切るような、切なさだった。一緒にいたいという気持ちがありありと溢れ出ていて、嬉しい反面、やっぱりわたしは一歩引いた方がいいのだろうかという懸念が頭をよぎる。

 緑のセーターに袖を通す。髪の毛に静電気がまとわりつく。不愉快になる。

「おねーちゃん、まだ早くない」寝間着姿の裕佳が起きてきて、開口一番そう訊ねてきた。いつもより二十分早い支度は、妹の体内時計の正確さを証明してみせた。

「今日は早出なの」

「彼氏でしょ」

「なにが」

「ちょこちょこ早く出るときは彼氏と職場まで行ってるんでしょ」

「そんなわけ」と否定を口にしようとしたとき、裕佳はニンマリと口角をゆるめた。どこからともなくスマホを取り出して、わたしの目の前で一枚の写真をみせた。

「ほら、この二人はいつぞやのカップルに似ておるじゃろ?」とふざけた口調でわたしをからかった。

「あんたまた盗撮したの?」

「盗撮じゃないって、おねーちゃんが心配でようすを見てたんだって」

「じゃあ心配いらないからそれ貸しなさい」わたしは裕佳からスマホを取り上げ、画像を消去した。不満の声をあげる妹にスマホを放り、わたしは支度を続けた。

「でもさ、いちいち朝から彼氏と会うのって、なんか疲れるよね」なごり惜しそうに写真のフォルダを眺めながら、裕佳は言った。彼氏もいないくせに、とは言わないでおいた。

「別に疲れることなんてないし、付き合ってるんだから良い事じゃない」

「いやいやいや、一緒にいたくない時だってあるってフツー」寝間着がだらしなくはだけるのをお構いなしに、裕佳はポリポリとへそを出してお腹を掻いていた。

「そんなはしたないことする女とは、確かに一緒にはいたくないかもね」

「そんな細かいことを気にしてたら結婚なんてできないよ。アイドルだってオナラはする。幻想を抱いてたら恋人すらできないっしょ」

「それは恋人ができない言い訳でしょ」

「恋人ができないんじゃなくてあたしには必要ないの」

「それは負け惜しみね」

「おっぱいがデカいからって調子に乗んないでよ」裕佳は最後の決まり文句を言った。これ以上に言い返すことのできないとき、決まって胸のことを引き合いに出す。妹は自分の胸が小さいことにコンプレックスを抱いている。姉妹間で、ここまで違いがあるとわたしにばかり多めに栄養素がまわされたのかと、少しばかり申し訳なくなる。

「調子には乗ってないです」

 和室の敷居が開き、「朝からあんたらはうるさいんだよ」と母が文句をたれ、リビングへ入ってきた。

「おかーさん、おねーちゃんってば朝から彼氏と会ってるんだよ。しかも出勤前に、いかがわしいと思いませんかねぇ」裕佳はここぞとばかりに母にすり寄り、広斗くんのことをバラした。これまで母には彼氏がいることをきちんと伝えてはいなかった。自由恋愛を基本とする我が家では、そういった縛りはない、とわたしは思っていたからだ。母はフーンといった表情でわたしを見つめた。

「別に悪いことしてるわけじゃないし。彼はちゃんとした独身だもん」

「彼の名前は広斗くんって言うんだって、なんかカッコいい名前だよね」裕佳はまた余計なことをバラす。このままでは抱き合っていたことすらバラされそうで、わたしは内心ハラハラした。

「いつから付き合ってるのさ」母は妹のように興奮するでもなく、落ち着いたようすで静かに訊ねてくる。

「半年くらい前、かな」

「どんな人」

「夢に満ち溢れた人」

「歳はいくつ」

「二十八」

「職業は」

「コンビニ店員」

「特技は」

「小説を書くのが上手い」

それが最後の問いだったのか母はしばらく沈黙して、「前の男は女を騙すのが上手かったからね」とボソッとつぶやいた。それに同調するように、「もうチョー最低だったよねアイツは」と妹がたたみ掛けた。

 広斗くんとの交際について母は特に口を挟まなかった。前回のように後ろめたい気持ちもなく隠すことなく白状したことである程度の信用がそこで回復したのかもしれない。自分でもそれが嬉しく思った。これでこそこそと家から少し離れた場所で待ち合わせることなく、家の前で、「おはよう」や、「さよなら」を交わすことができる。

 時計を見れば約束の時間は迫っていた。わたしのテンションはいつの間にか普段と変わらぬところまで戻っていた。

「おはよう」傘を持ちいつもと変わらぬ表情で、広斗くんは立っていた。降りそそぐ雨は霧を吹きつけたように細かで繊細だった。

「広斗くんはバイトお疲れさまでした」LINEで既に送った言葉でも、直接言うのでは重みが違う。いつでも二度手間なわたしたちは、こうして愛を深めていっている。

「夜中は雨のせいかお客さんも少なかった。やることもすぐに終わってのんびりしてたから全然疲れてないんだ」確かに広斗くんの表情には疲労感は感じられなかった。

「だからって、こうして朝からわたしの出勤に付き合ってくれなくても良いんだよ」とわたしは優しさのつもりで言った。

「僕といるのが嫌なの?」と広斗くんは空模様のように急に顔を曇らせ、顔をふせた。

「そうじゃないよ」とわたしは慌てて両手を振った。右手に持った傘が揺れ、雫がいくつか飛んだ。「疲れて体調を崩して欲しくないから」

「それなら大丈夫だよ。無理はしてないから」と力強く頷いた。

 わたしの提案など広斗くんには些末なことで、なによりも二人でいることを最優先にしてくれる。わたしにはそれが本当の優しさと呼べるのか、このごろ疑問に感じるようになっていた。やりたいこととやるべきこと、メリハリをつけて交際をしている方が、二人の時間をより大切にできる、そんな理想論をわたしは抱いている。広斗くんにはとても大切なやるべきことが、ある。

「小説は書けてる?」スタートの合図としてわたしは道を歩き出す。あいにくの雨のせいで、二人の傘は近寄ろうとするとぶつかる。わたしは傘を閉じて彼の傘の下にもぐり込んだ。

「んー。まぁまぁかな」腕を組んで歩くのも上達した二人だ。二人三脚足並みもそろってぬれた地面も難なく歩き進める。

「次にどこの新人賞に応募するか決めた」今度は具体的に質問してみる。

「それもまだ、次の結果が出てから決めようかなって」

 やっぱり、とわたしは心でつぶやいた。こんなところで立ち止まっていては小説家になんて絶対になれない。

「やっぱり今日は一人で行くから。せっかく来てくれたのにゴメンね」わたしは傘をさし、図書館まで駆けだした。雨にかすんだ視界が、いつになく不明瞭に感じた。

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